南ア、光岳

--天上の楽園へ、台風の影響下山を決定・橋元武雄

1998年9月19日-22日


1998年9月19日 土曜日 晴れ。

梓山行。南ア、光、茶臼、聖縱走。

大森氏が8時半前に我が家に到着。9時の予定が早すぎてあせってしまった。
東京駅で、善さん、チャウをピックアップ。10時に出発。
断続的な渋滞で結構時間がかかる。八ヶ岳のパーキングエリアで軽い昼食。ここ
の食堂は、食券を買う立食式のものだったが、妙に家族的な雰囲気を漂わせてい
た。出来合いのものを簡単に調理するだけだが、高速のパーキングエリアには珍
しい。

飯田のスーパーで食料品などを仕入れる。

前回この山域を訪れたのは、はや20年以上も前。当時ぼくのいた会社の山の会
の山行で、本谷口から歩行を開始し、西沢渡(泊)を経て聖(聖平泊)、上河内、
茶臼(泊)まで縦走し畑薙ダムへ下山している。残念ながらそのときは休みがと
れず参加できなかったが、同行した仲間の一部は光(てかり)を経て寸又峡まで
足を伸ばしている。そのとき以来、光はいつかは行ってみたい山だった。山自体
にはそれほど魅力は感じていなかったが、南アの最南部、ここで南アはおしまい
という山であり、またハイマツの生育南限であるという点に興味があった。

便ヶ島への道――迷走

飯田から聖岳登山口へは国道152号を行く。とりあえず道路標識にある「三遠
南信自動車道」を目指すが、これが一筋縄ではいかない。国道とはいえ、山中を
曲折しながらアップダウンを繰り返し、前触れもなく広くなったり狭くなったり、
まるで農道のようである。三遠南信自動車道の所以は、途中矢筈湖から突如出現
する自動車専用道の矢筈トンネルだ。このトンネルは飯田盆地から南アへ至る道
に、前衛として立ちはだかる伊奈山地を貫通している、とびきり新品の道路なの
だ。いずれ有料道路となるらしく料金所予定地などの看板があるが、まだトンネ
ル部分しか開通していないので、いまのところ無料である。

善さんが運転で大森氏がナビゲーター、ぼくは昨日の寝不足で眠こけていて知ら
なかったが、聖岳登山口を大分行き過ぎてしまったところで、どうもおかしいと
いうことになった。そこで、ちょうど家の前で干し物をしていたオバサンを見つ
け、車をとめて訊ねてみる。しかし、便ガ島など知らないという。そのころには
目を覚ましたぼくがうろ覚えで、入り口は本谷口だと言ったので、事態はおかし
くなってしまった。オバサン、本谷口ならこうこうと、親切に教えてくれた。や
はり行き過ぎていた。車を取って返すと、本谷口バス停は難なくみつかったが、
そのあとが大変だった。遠山川右岸にそって広い車道があるので、これは間違い
ないと進んで行くと、突如道幅が狭まる。それも尋常な狭まり方ではない。車幅
ぎりぎりの幅員で、左手は壁、右手は崖、車道といってもわだち部分だけ舗装さ
れているに過ぎない。途中工事中の道路標識や、崖に張り出した駐車スペースが
あるので車の往来があることは間違いないが、すれ違いなどできようはずもない。
運転している善さんも緊張したろうが、助手席にいるぼくもひやひやものだった。

そろそろと運転して2、3キロも進んだろうか、左手の崖が少し開け、斜面の途
中にへばり付いたような民家兼工場のような建物が見えてきたとき、運良くオジ
サンが何かの作業をしているのが見えた。これは訊くしかない。いったいこんな
道がいつまで続くのか。話を聞けば、何のことはない通常の経路は、はるかに崖
の上を通っていることがわかった。幸いあの肝を冷やす道を引き返す必要はなく、
正規のルートへ出られるコースを教わり、辛うじて窮地を脱した。

帰りには当然まともなルートで国道へ出たのだが、分岐点(上村の上島)には南
アルプス聖岳・上河内岳登山口の立派な看板があった。しかし、それが進行方向
道路の右側にあったのだ。当然、左折とばかり思っていたのが、侵入路が右折で
入って跨橋で国道を越えて左へ向かっていたので見逃したのである。ただ、ぼく
が最近買った山渓の地図にも、そのコースはまったく記載がないので、やはり南
アは山小屋だけでなく、情報の面でも北アほどには充実していないのだろう(南
アの山小屋が充実していない、というのはまったくあたらないことは、光の小屋
を見てわかった)。

そんな騒ぎもあって、結局幕営地の便ガ島についたのは4時半を回っていた。便
ガ島は遠山川の蛇行点に開けた広い台地で、なぜか5枚ほどのドアだけが並んで
屋根のないトイレが2箇所に残っている。そのトイレの数からしても、往時は相
当な規模の小屋だったらしい。おあつらえのように置いてあった畳一畳大の厚い
板を3枚ならべてスノコ代わりとし、快適なテントが設営できた。水場がないの
で善さんが汲みに行っている間に、大森氏が鳩ケ谷産の刺身を切る。通常の、梓
山行前夜宴会が始まった。

1998年9月20日 日曜日 晴れ。

易老渡から易老岳への登高――標高差1500m

帰りのことを考えて便ヶ島にデリカを残し、易老渡まで歩き登り返す。易老渡か
ら易老岳までは、標高差1500mほどある。コースタイム5時間だが、われわ
れは易老渡を7時に発って易老岳に12時25分に到着している。幕営の重荷と
平均年齢を考えれば、上々の部類だろう。

登りはじめはサワラの人工林、2本目を立てた面平(つらだいら)は、胸高周囲
2mはあろうかという壮年期のヒノキが散立する鬱蒼たる森林、さらに上るとツ
ガ、コメツガ、シラビソを主体とする針葉樹林になる。南アの頂上というからに
は、巍峨たる岩稜を思うのだが、残念ながらそうではなかった。樹林帯の中のち
っぽけな広場が山頂で、視界はまったく利かない。ザックだけがいくつか放置し
てあるが、おそらく光までピストンして、易老渡へ下山する登山者のものと思わ
れる。多少落胆しやれやれ秩父の縦走なみかなどと悪態をつく。山頂に着く頃に
はガスも出始めた(実際に歩いてみると、たとえ快晴でもこの先のコースはあま
り展望はなさそうだった)。

易老岳から光岳へ――平凡な樹林帯から天上の楽園へ

易老岳の山頂で大休止をとり、いよいよ光に向かって行動を開始する。三吉平ま
では多少の起伏はあるものの単調な下りだ。三吉平が易老、光間の最低部になる。
途中、地図に三吉のガレとあるので、ガレ場の通過になるかと思ったが、そんな
ものはまったくなかった。後で気付いたが、コースからは直接見えない右手の斜
面がガレているためらしい。三吉平からは、依然として秩父的な森林コースを辿
る。このあたり地図に2重山稜と記してあるが、どれとどれをもって山稜とする
のか定かでない。地形は複雑で、左手にイザルガ岳へ連なる、われわれの辿るコー
スより100mほど高い山稜があり、このコースも稜線通しで、その中間派窪地
状ではあるので、まあ2重と言えなくはない程度だ。

コースが大詰めにかかると窪地を登るようになる。はじめは何のこともない沢状
だが、やがて沢が開けてくると、なかなか風情のある光景となる。下草の緑のな
かに、はや枯れてしまったシダ類やミヤマアキノキリンソウの茶色が立ち上がり、
さらにその上に人の背丈ほどのハイマツや矮小化したシラビソの緑が点在する。
そのなかでひときわ目立つのは、すでに葉を落としオブジェのように樹幹をくね
らせているダケカンバである。一口に言って庭園風ということになろうか。

この沢を抜けると斜度はぐっと緩やかになり、庭園風景観から天上の楽園風とな
る。きわめて矮小化しほとんど地面から直接花茎を伸ばしているかのようなハク
サンフウロ、豆粒のようなキバナノコマノツメ、白い小花を頂くミツバオウレン
とミツバノバイカオウレンなど、数は少なかったが今回はじめて花らしい花に出
会うことになった。しかも、楽園の中央にはとうとうと清んだ水が流れ下り、そ
の源は滾々と湧き出す泉であった。本来なら、この時期には枯渇しているらしい
が、このところの多雨で流れが絶えなかったらしい。冷水に喉を潤し、炊飯用に
水を補給する。もちろんビールを冷やすのも忘れはしなかった。

光小屋、見参――南アの小屋を見なおす

水場の立て札には小屋まであと15分とある。いよいよフィナーレだ。少し進む
と、ハイマツの海の向こうに赤っぽい屋根の2階建ての木造の小屋が見えてくる。
ピカピカの新築である。これまですれ違った登山者からの情報では、従来の青い
三角屋根の小さな山小屋は今年で使命を終えて取り壊され、来年からは新築の小
屋での営業になるのだが、それに先だってオフシーズンの登山者用にすでに開放
されているらしいのだ。幕営設備は万端整えてあるが、小屋が利用できればそれ
に越したことはない。別棟でトイレもあり、バイオトイレにつきオフシーズン中
は使用禁止とある(あとでわかったが、オフシーズン用のトイレも別にあるので
心配はない)。

オフシーズン用入り口とあるので、階段を上って2階から小屋に入る。2階の入
り口は、縦長の棟の南東端の中央にある。入ったところが階下へ降りる階段の踊
場兼、2階の両フロアへの入り口になっている。階下中央が通路で吹き抜けとな
り、その両側が居住区となり、1階に2フロア、2階に2フロアの構成となって
いる。定員60人と聞いたような気がするが、これならその倍でも楽に泊まれる
だろう。表の看板に静岡県営とあるので、県民の厚生施設の意味合いもあること
を知る。個人経営ではこの立派な施設を全面開放できないだろう。


階下には大分ザックが見えるが、2階は右側のフロアがまるまる空いている。左
側にも先着の年輩の男性登山者が1人いるだけだ。当然のように、右の奥へ陣取
って、いざビールで乾杯しようとしたのだが、向かいのフロアの男性が、明日は
間違いなく崩れるから、今日中に山頂へいっておいたほうが良いのではという。

光岳山頂――その平凡なること

それではと、気を取りなおして空身で出かける。途中、マリモのように球形にな
った珍しいコケを見かけた。それも大小5つほどが群生している。手に取ること
もできるので、着生しているわけではなさそうだ。善さんが写真を撮っていたが、
はたしてフィルムは入っていただろうか。あとで図鑑を調べると、ヤマヒコノリ
が一番似た形態だったが、はたして球状になることがあるかどうかは不明だ。

光の山頂はまさに何の変哲もない樹林の中である。取りあえず記念撮影はするも
のの、達成感など何もない。ちょっと下った所に展望台があるが、ガスがかかっ
て見晴らしはさっぱりであった。それでもまあ、今回最大の目標は達成したので、
あとはビールの待つ小屋へ戻るのみだ。

まずはビールで乾杯。重量軽減のため日本酒は止めようなどといいつつも、昨夜
の飲み残しの酒500ml、缶ビール小8、大1、ウイスキー1400ml、ワ
イン1本を担ぎ上げた(もちろん2泊分)。広々したスペースで、思いっきり荷
物を広げて、宴会の準備にかかる。今夜の食当は大森氏。まず全員の好物枝豆を
茹で、大森風キュウリとキャベツの梅酢和え、メインは大森氏得意の具沢山トン
汁である。宴会が盛り上がったのは言うまでもない。しかし、周囲は日が暮れる
と早々に寝入ってしまい。他に宴など張るものはいない。新築のがらんとした小
屋では、声の響くことおびただしい。残念ながら、相当ブレーキを利かした団欒
にならざるを得なかった。

1998年9月21日 月曜日 強風雨。

台風の影響下、下山を決定

大森氏とチャウの話では、昨夜の10時頃には満天の星だったというが、今朝は
強風にガス。それに時折雨がザーっとくる荒れ模様。天気予報を聞いていた大森
氏が、台風7号、8号の相次ぐ来襲を告げる(発生とは逆順になっているらしい)。
そうなれば下山あるのみ。残念ながら茶臼、聖は次回を期すしかない。

別に急ぐわけではないのでランタンを着けてゆっくりと朝食を取る。昨日のトン
汁の残りに、レトルト米を入れてオジヤである。もうこれは梓の恒例になった。
前夜は酒も入るので必ず主菜が残る。それを利用して朝食を作り、残飯は一切出
さない。ぼくも何かと多目、余り目が好きだが、山でだけは残飯を出すまいと思
う。

そうこうするうちにも、まだ暗いというのに、雨合羽にヘッドランプをつけて登
山者が次々と出発していく。早立ちが山の鉄則とはよく聞くが、暗い山道を歩く
ことが危険かどうかは考えなくてもわかる。小一時間ほどまてば、明るい中を安
全に歩けるというのに、なぜそうも行動を急ぐのか理解に苦しむ所だ。当然、わ
れわれが最後の戸締りをして、無人の小屋を後にすることになった。

山ヒルのこと――大森氏襲わる

復路はまったく同じコースなのでとくに、ここで書いておきたいことはない。た
だ、大森氏が山ヒルに襲われたことだけ記しておこう。いつどこでどのようにか
はまったく不明だが、休憩時に靴を脱いだら、コロコロと丸まったヒルが靴底の
カカト部分にわだかまっていたのである。肥っているということは、すでに十分
血を吸った証拠だった。下山して温泉に入って着替えたときに、ズボンに大きな
血痕ができて何事かということになった。その時点ではじめて脛の上部に吸い跡
があり、微々たるとはいえ、依然として出血が止まっていなかったことがわかっ
たのである。

ミツバアケビの収穫

それともう1つ、楽しい話題としては、ミツバアケビがどっさり採れたことがあ
る。ザックを易老渡に置いて、善さんと2人で便ガ島まで車を取りに行く途中、
善さんが路上に実入りのアケビが転がっているのを見つけた。それ自体は小さす
ぎて、すでに泥にまみれていたのだが、頭上を見上げるとミツバアケビがたわわ
に実っている。これまで、ほとんど中身のない腐りかけの外皮だけだったので、
もう遅すぎたかと諦めていたのだが、運が良かった。昨朝も同じ場所を通ってい
るが、下り方向だと木立の裏側になるので気付かなかった。たとえ、見えたとし
ても、これからの登高を前に、それどころではなかったろう。デリカをとっても
どる途中、車を足がかりに収穫したのは言うまでもない。

―――――――――――――― 〇 ――――――――――――――

以上、山行に関してめぼしい記録は終わり。その後の行動をざっとメモしておき
ましょう。

見たて違いのソバ屋のこと

来がけに矢筈トンネルを出たところに、美味そうな手打ちソバ屋があったという
ので、そこへ入ることにした。トンネル工事で立ち退くことになった旧庄屋宅を
移築して店舗としたのだそうだ。道路に向かって開けた座敷に陣取って軽くビー
ルをやり、テンプラソバなどをめいめい注文した。表で丁度国道の嵩上げ工事を
やっていて騒々しかったが、雰囲気は満点、客あしらいも十分であった。しかし、
肝心のソバがいけない。近頃、ソバ通を通り越して、ソバ作りまで始めた大森氏
によれば、これは手打ちなどではないし、ソバ粉の質もお世辞にも良いとはいえ
ないとのこと。うっかり、大盛などたのんでしまった、こちらも、いくらソバが
わからないとはいえ、不味いことは保証する。それに、テンプラがすごい。歯が
欠けるくらい硬い木の葉の揚げ物などはじめて口にした。玉ネギのテンプラなど、
煎餅のようにカリカリしている。これも大森氏によれは、粉を捏ね過ぎたのだと
いう。…………というような訳で、見掛け倒しの店ではありました。

諏訪市、片倉館温泉

みんなもう1泊分の休暇は取っているし、食料もある。このまま帰るのは芸がな
い。名企画者としての大森氏はそこで考えた。素泊まりできる温泉宿を探そう。
そこで、残っている食料と酒を片付けて、明日意気揚揚と帰京しようというので
ある。帰途で可能性のあるのは、湯量の豊富な諏訪であるとの、ご託宣。もちろ
ん、異存のあるものはいない。

そこで、飯田まで戻って高速に乗り、亀の子も顔負けというほど真ッ逆さまに引
っくり返った事故車などを尻目に飛ばして、諏訪に乗り込んだのです。まずは情
報検索であると、諏訪駅または諏訪市役所を目指しました。たまたま、市役所に
先に出会ったので、駐車場に車を入れると、目の前に下諏訪温泉協会の看板が目
に入りました。すぐケンカしてしまうぼくとは違って、交渉もお手のものの大森
氏が早速、出かけて打診。親切な係りの人があちこちと電話をして問い合わせて
くれたらしいのですが、どこにも引き受け手なし。素泊まりはともかく自炊など
論外ということなのでしょう。これが今でも湯治の習慣の残っている東北なら、
難なく見つかったのでしょうが。どうやら市役所も同様だろうということで、い
ったん諦め、梓御用達の諏訪湖畔片倉館で一風呂浴びて、とりあえずさっぱりし
ようということになったのです。

片倉館ははじめての大森氏は、大きな浴槽がいたく気に入った様子でした。ここ
でヒルの吸い跡発見事件があったわけです。

いずみ湖公園での一夜

温泉は出たものの身の振り方が決まらず。さて、どうするかとなったのですが、
最後の手段。近場のキャンプ場にとにかく行ってみよう。そこで、台風来襲中の
荒天下でもしのげそうな施設があれば、何とかなるのではないか。たとえば、大
きな屋根のあるオープンドアの集会場など…………。平日とはいえ、時間はすで
に5時を回っていたので、問合せはもう無理。そこで、地図上の検索で、近場に
蓼の海のキャンプ場があるとのまたまたご託宣。格好の場所のあるなしは度外視
して、途中で氷とビールを仕入れ、一路キャンプ場を目指しました。

もう日はとっぷりと暮れ、台風の余波の雨風の中、善さんの運転するデリカはそ
ろそろと諏訪市営の蓼の海公園を徘徊したのです。しかし、キャンプ場が見つか
らないないまま車を進めるうちにいずみ湖公園なる隣接する別の公園へ入りこん
でしまいました。しかし、夜間というのに晧晧と明かりをつけた真新しい公衆便
所があり、何となく期待をいだかせる雰囲気がありました。そのうち、青少年研
修センターなる立派な無人の建物が見付かりました。その玄関先は広く、入り口
のタタキは大きな屋根に覆われています。台風のなか、これだけ懐が深ければ多
少の吹き込みでもテントは耐えられそうです。絶好の幕営サイト発見。研修施設
ということで、屋外に炊事場(したがって水)があり、トイレもある。もう言う
ことなしで、たちまち下界用にデリカに搭載してある8人用のテントの設営を終
えました。

夜間管理人のパトロールがあるのではと、一抹の不安はあったものの、諏訪産の
板氷でよく冷やしたビールをあおればもうどうでもよくなります。今晩は食当は
ぼく。枝豆の残り半分を茹で、キュウリ/ミョウガ/オクラを刻んでオカカをまぶ
した富山風サラダなどをつまみに、たっぷり残っているウイスキー(ホワイトホー
スの12年ですが、これが近頃2000円以下で手にはいるんですね)に突入。
メインは、当方得意のボイルド味噌牛。家でやれば何てことない料理ですが、山
中で生肉が食せるという感激で(今日はたまたま非常事態で下界ですが)、結構
評判の定番メニュー。今回は、手配がうまくゆかず肉の質も量もいまいちだった
のですが、それでもあっというまにはけました。最後は、家の垣根にぶらさがっ
ていたニガウリ(ツルレイシ)とタマゴとジャコの炒め物で仕上げました。

1998年9月22日 火曜日

亭を捜して霧ケ峰、白樺湖、女神湖彷徨

多少収まった気配はあるものの台風の影響でめまぐるしく変化する荒天。
思えば、丁度台風8号と7号の狭間だったのです。
夜の白々明け。普通なら起きる時間ではないのですが、多少のやましいところあ
りの梓の面々。さっさと起きてテントを撤収。ジャコ2匹ほどを残して、研修セ
ンター玄関先を辞去したのであります。

さて、大森氏次なるご託宣は、霧ケ峰方向へ向かって亭を捜すべし。そこで、最
後の晩餐ならぬ朝食をとり、目出度く今回の山行の止めとするとのこと。飲みな
れないウイスキーを飲みすぎて二日酔いとなり、こちらが昏昏としている間に、
善さんの運転するデリカは、亭をもとめて霧ケ峰、白樺湖、女神湖と転々。数時
間の彷徨の末、最後の女神湖湖畔に亭を見つけたときは、ほとんど土砂降りの雨
となってしまいました。

もうこうなれば、帰京しか選択肢はありません。高速へ乗るべく、デリカは諏訪
南インターへ向ったのであります。高速諏訪南の標識に導かれて進むうち、近頃
整備されたらしい広い開拓地を通過しました。もうインターまでは数キロのとこ
ろ。路傍には、国務大臣何某の『大地悠々』の碑が見えます。と、その碑の建つ
台地の横に亭があったのです。善さんが偵察すると、お誂えのように4人掛けの
椅子までついていました。その頃には雨もやみ日差しもこぼれてきました。さっ
そく、朝食の用意に取り掛かります。まずは、残ったビールをみんなで分けて乾
杯。食当はチャウ。カニサラダに、富山風ゴマ油風味のニラウドン。それに、今
回は新趣向として溶きタマゴが入りました。これが美味かった。量もたっぷり。
いつぞやは、美ヶ原からの帰途、魔の上諏訪事件などという不運な出来事もあり
ましたが、今回、われわれは何とついているのでしょうか。ひたすら山を歩いて
からの宴会は無論最上ですが、こんな体験もたまにはいいものです。

宴果てるころには、またも雲行きが怪しくなり、雨が降り出しました。あとで知
りましたが、今度は台風8号の影響が出はじめたのです。あとはひたすら中央高
速を飛ばし、帰京したのでした。


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山行記録 鈴木善三

9月19日

10:00		東京駅
15:50		便ヶ島

9月20日

6:30		便ヶ島
7:00		易老渡
8:00〜8:10	休憩
9:00〜9:15	面平
10:10〜10:25	休憩
11:10〜11:25	休憩
12:25〜13:00	易老岳
13:55〜14:10	三吉平
14:45〜15:10	休憩
15:50		光小屋
16:30		光岳往復

9月21日

6:25		光小屋
7:10		三吉平通過
7:35〜7:40	休憩
8:25〜8:36	易老岳
10:00〜10:15	休憩
10:25		面平通過
10:45〜11:00	休憩
11:30		易老渡

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