穂高上高地周辺

橋 元 武 雄    '94/08/25〜28


ベース設営

94年08月25日(木) 晴れ。
梓山行。上高地ベース。焼岳、霞沢岳。東京駅9時半集合。夜集合なら家から東京駅まで車で40分程度なのだが、朝のラッシュを用心して8時に家を出る。丁度9時半に間に合った。亀村氏の見送りと差し入れを受け、出発。

途中、車中で大森氏が各食当から買出し予定食料を聞いて、過不足ない調達リストを作る。こういうところが、いつもながら彼は手際が良い。12時半頃に松本のインターを出て、「味の信州村」で昼食。そこのレジの小母さんに、大きなスーパーはないかと訊ねると西友があるという。そこまでの道順を細々といくつもの目印を挙げて教えてくれたが、よくよく話の内容を整理すると、直角に1回曲がれば済む経路だった。

沢渡の村営駐車場にデリカを置き、そこからタクシー2台に分乗した。人数にしたら贅沢かなと思ったが、荷物が多いので丁度よいくらいだった。丁寧なような傲慢なような変な運転手で、尋ねもしないのに勝手にする話を聞いていたら、上高地へ入るタクシーの組合の理事長とかで、もとは大手の郵船会社に勤めていたという。そんな経歴が奇妙な態度になって現われるのだろう。しかし、この運ちゃんも山は好きで、仲間を誘っては、この近辺の山を登っている
らしい。バス停近くでタクシーを下り、そこに荷物を山積みにし、小梨平の野営場管理事務所までリヤカーを借りにゆく。英彦君と一緒にいったが、往復すると相当な距離がある。平日なので、キャンプ場は空いている。梓川の分流ほとりに幕営。この水は飲用水にはできないが、ビールを冷やすには最適だ。上高地のビールの値段は平地と同じだと思っていた(たしか昔はそうだった)ので現地調達にする旨FAXに書いたら、ビールの気になる後藤さんから、そんなことはないはずだと電話が入った。そこで500_1ケースを用意したが、斎藤君が気を効かして500_1ケースを差し入れてくれだので2ケース48本という数になった。2ケースは多過ぎるし、他の荷物も多いので残そうと言ったら、また後藤さんからクレームがあり、そんなことはないという。ヤレヤレと思ったが、それも誤算で、最終日にビールはほとんど残らなかった。

初日の夕食は、後藤さんカレーとヤキブタ。ここで、『梓連絡』のFAXに書いた通りのテンプラ油騒動が起きた。

焼岳周遊

94年08月26日(金) 晴れ。
焼岳。7時に出発して、11時半山頂着。3時50分に中の湯バス停着。
昔から登りたかった山で、活火山である以外は、とくに何処がどうということもない山
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だが、天気が良く、人が少なく、終日静で楽しい山歩きだった。下山路は、釜トンの入口の中の湯(トンネル工事で温泉はやっていない)へ下る。

焼岳山頂から中の湯方面へ少し下り、噴火口の縁から火口湖を見下ろしながらの昼食になる。ここで昼食担当のチャウがパンがメインだというのに、バターを忘れたの、それに量が少なくて腹がもたないのと、また恒例の楽しい一騒ぎがあった。上高地からの登山者は、ピストンするか新穂高方面へ抜けるらしく、こちらに来る登山者はまったくいない。まだ数年前に再開されたばかりの山道は、人に荒されていないせいか、豊富なクロマメをたっぷり楽しむことができた。

人は少なかったが、自己顕示欲の強い人と言うのはいるもので、何かにつけて署名入りで岩に悪戯書き(本人は標語のつもりらしい)をする女性がいた。その名を、“井上昌子”という(名前はカタリかもしれないので念のため)。名を記して、これを賞す。

霞沢岳八右衛門沢登高記

94年08月27日(土)
今日は、霞沢直登隊と西穂散歩隊に分れる。大森、橋元の霞沢隊は、7時に出発。

帝国ホテル前から電線下の刈込みを辿っ
て近道をしようとしたが、これは失敗だった。途中で垂直の護岸(高さ5m、幅2mほどのいわば鉄骨製の蛇篭で中に大きな岩が詰っている)があり、これが霞沢の右岸と思って這い上がってみたら、その先はまた林だった。霞沢の氾濫を恐れて、本来の岸からは大分外側に土石流対策の防護壁があったのである。これなら、距離は長くなるが霞沢の出会いまで車道を行ったほうが早い。

7時20分過ぎに霞沢に着く。霞沢に水はまったくない。乾いた石の広場だ。両岸は先程の防護壁よりだいぶ幅が広い鉄骨製の蛇篭で守られ、幅20mほどの川底は、石が平坦に敷き詰められて、歩行者天国のようだ。沢登りの雰囲気はなく、ひたすら人工環境の極地である。左岸に工事用の車道があるので、しばらくはそれを辿る。やがて、本流の真ん中に、逆V字の太い鉄製パイプ(高さは3mほどある)が5、6本、流れの向きと平行に突き立ててある場所に着く。言ってみれば、化けもののように大きな鋤を川床に逆さに立てたようなものだ。土石流止めである。そこから車道と別れ川に下り、遡行を開始しする。逆V字のパイプは、人の背より高い位置まで赤錆た傷に覆われ、土石流の水位をうかがわせる。ゴロゴロの岩ばかりで、途中いくつかコンクリートの堰堤があるが、だいたい左から巻く。それだけがコンクリートではない、古い石組の堰堤が現われると、堰堤は最後だ。
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途中、川幅一杯に2本のコードが差し渡してある(じつは、1本のコードがUターンしているだけ)。軽く跨げるくらいの高さだ。このようコードが、50mほど間隔で何ヶ所かに渡してある。土石流のセンサーだろう。コードには常時微小電流が流れていて、薮で見えないが、左岸沿いに情報の収集回路が敷設してある。そして、上高地のどこかにある監視センターで、この電流を監視しているはずだ。

豪雨のときなどは担当者が終日モニターに張り付けになる。夕方から激しさを増した雨脚は深夜に極限を迎え、ついに土石流が発生する。センサーのコードは一瞬にして切断されて電流が止まる。監視センターのランプが上流から次々と点滅をはじめて警報が鳴り渡る。いままで眠い目を擦りながら計器盤を眺めていた担当者は慌てて防災無線のマイクを取上げ、深夜の上高地全域へ通報を開始する。しかし、狂奔する泥水と岩石は、暗夜の中、なま臭い火花をあげて流れ下り、先程我々を阻んだ防護壁を軽々と乗り越し、あっというまに上高地帝国ホテルの美しいレンガの壁面を破壊して.....などと、沢があまり面白くないので、かってな想像をしながら歩いた。

2本目の休憩が9時。西穂パーティーと約束の交信開始時間だ。交信は無事成功。互いの現況を報告する。眼前には西穂から焼岳への山陵が広がり、その山腹を覆う樹林帯にはすでに我々の居る霞沢岳が陰を落として、日当たりの部分をくっきり限
っている。南北に流れる梓川を中央に、あちらは南斜面、こちらは北斜面になる。西穂の山陵のさらに奥にゆったりと大きな笠岳の稜線が見える。西穂隊はまだ樹林帯にいるらしい。同じチャネルで多少競合があったようだが、トーン信号を入れてあるので、他局がからんでもスケルチは開かない。この休憩場所の少し上で左岸の稜線から小さい枝沢が入ってくる。上部を見上げるとほぼ正面に岩峰が見える。これが霞沢岳から3本槍へ続く稜線の途中にある標高2,514mの三角点のあるあたりだろう。その岩壁の下部で沢は右に回り込んでいるはずだが、ここからではよくわからない。 やがて沢は斜度を増し、ほとんど這い上がるような状態になってくる。三本槍へ突き上げる沢が右岸から分れる所が、多分、下から見上げたとき沢が右の稜線の陰に隠れてしまうあたりだ。合流の手前に2階建ての家一軒分くらいある巨岩があり、合流点そのものは見えない。巨岩の直登を試みないかぎり、間違って3本槍へ入り込む心配はない。この巨岸を左岸から入る枝沢から回り込んで抜ける。ざらざらの急斜面は、いくら用心しても足下から次々と崩れ落ちる。いやな巻だ。この合流を過ぎると沢は開けはじめ、やがてこちらの斜面にも日が差し込んでくる。これまでは、北斜面のため日は差さず、沢風がほどほどに吹き下ろしていて、気温条件だけは最適だったが、いよいよ、夏の太陽の直射に晒されることになる。昨日の焼岳で、すでに頭皮にだいぶ刺激を受けていたので、ここでバンダナ風に手拭いを被る。
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ちょうど、眩しい日差しの中に投出されたころ、沢幅はいよい広がり、大きな2俣になる。どちらも末広がりの大きな沢で登れそうだ。今回ここが一番迷った箇所だ。基本的に、この沢は分岐を右へ取っていれば間違いはないはず(過去の記録からも地図からも)だが、この分岐はどうみても左側が広く、その奥は右に曲がっているので見えないが、光線の具合でさらに広がっている感じがする。右の沢は左ほど広くはないが、斜度が一様で草付きと潅木帯が入り交じって、左側にガレ沢が一本入っている。沢の分岐では、水流の多い方、また水がなければ川床の低い方が本流とする判別法では、あきらかに左が本流だ。しばし、地図とにらめっこをしたが、2万5千分の1の縮尺で見る限りは、左のほうが登りやすく見える(等高線幅がやや広い)。しかし、直接目の辺りにすると右のほうが登りやすそうだし、稜線が間近に見える。結局、エイヤットばかり右を取ることにした。

この時点で、すでに左の沢に入り込んでいたので、草付きをトラバースして右の沢に戻る。右の沢の上部を見上げると、左側はいまトラバースした草付の上部から岩稜が立ち上がっていて、対岸は八右衛門沢の左岸を一貫して上高地まで下降する稜線の最上部である。左右をそれらの岩陵に仕切られて、沢は急速に先すぼまりになっている。はたして両岸の交差するところで縱走路に出られるか、またはさらに稜線のハイマツ漕ぎになるのか。トラバースした
箇所で、右の沢(というより凹状地)の幅はまだ100m近くあった。左側にに幅5mほどのガレ沢が溝状に食い込んでいて、残りは草付きや樹高2〜3mほどの潅木帯(ダケカンバ、ナナカマド、ミヤマハンノキなど)が入り交じっている。ハイマツはほとんどなく、左の稜線寄りの上方にわずかに見える。見渡したところ、弱点は左の岩稜の鞍部のようである。とりあえずこのガレ沢の川床を這登った。つまり、広闊な沢の左隅を登ることになる。すでに大分急登が続いているので、10歩ほど登っては立止まって息を整えるような状態だ。この頃、斎藤君が西穂から望遠鏡で観察たところ、沢のなかをザックだけが上下するのだけが見えたという。ザックの上に頭があったはずだが、ハテ。

やがて、このガレ沢が尽きるあたりから、さらに斜度がきつくなり、そのままは進めなさそうである。ガレ沢を捨てて、先ほどから目星をつけておいた、潅木帯の中央にある涸れ沢を目指して右へ大きくトラバースする。いよいこ薮漕ぎ開始である。潅木が疎になった涸れ沢をしばらく登ると、対岸の岩壁下の草付きに追込まれる。このあたりで、西穂からのコールが入るが、薮漕ぎ真っ盛りでとても話などしている余裕はない。それをしおに、少し腹も減ってきたので、今朝英彦君と分け合った小さなドーナッツを2つ頬張る。下界でこの手のものに食指は動かないが、これが非常に旨かった。薮漕ぎの活力を補強したのである。
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はじめ右から大きく回り込んで、弱点とみた鞍部を攻めようかと思っていたが、やがて沢の最上部中央に小さなピラミッド状の岩峰が目立ってくると、どうもその後を回り込んで直登できるような様子になってきた。ここらまで来ると、樹木のおかげで高度感はないが、引っ掛かりがなければそのまま落下してゆく斜度である。岩峰の裏手のブッシュの中に1ヶ所だけ岩稜が落込んで来る箇所があり、それを上がる。岩稜を登り切るとハイマツ帯に入り、途端に踏み跡が明瞭になった。先頭を行っていた大森氏から突然“縱走路だ”と声がかかる。右の沢への選択が最後まで気になっていて、まだハイマツ漕ぎが続くような気がしていたたぼくとしては、“え、本当か!”という気分であとを追って這い上がる。

ハイマツの中から立ち上がると、そこはやせ尾根のてっぺん。頭の上はもう青空ばかり。霞沢の縱走路が明瞭に眼前の稜線を横切っている。振り返れば、穂高の稜線と笠岳の稜線が眩しい。結局、八右衛門沢の左岸を上高地まで続く尾根の最上部に飛び出したことになる。この尾根は、縱走路中のK2ピーク(昭文社の最新の地図による)へ突き上げている。最後の部分を除いて踏み跡はほとんどなかったが、このルートが正解であることは疑いようもない。ドンピシャ。ヤッタの気分だ。

ちょうど、そのとき霞沢から徳本峠へ向かって、縱走路を戻ってきた単独行の小母さ
んが、“わーすごい”と叫んで拍手喝采をしてくれる。日頃から、近頃の山は子育ての終わったオバンばかりだと悪口をいっているくせに、このときばかりは悪い気はしない。このあと、徳本峠への帰路で会ったのはいずれも単独行で3人しかいなかったのだから、出会ったのはよほどタイミングが良かったものとみえる。さっそく西穂隊に連絡をとり、祝福を受ける。11時20分頃縱走路へ、40分に霞沢山頂に達する。

山頂には、K2から来る途中で我々を抜いていった単独行の若い男が1人だけ。大森氏と“2人だけの山は何年振りかね”などと話しながら、ビールで乾杯。沢としてはまったく面白いところのないコースだったが、ほとんど踏み跡のないルートを辿る緊張感と、それが解決されたときの満足感は言いようもない。山頂でしばらくしてから、思い出したが、先程回り込んだピラミッド状の岩峰は、昭和49年度版の山渓『アルパインガイド』(三宅修)に“沢の中の正面に小さい岩塔が見えたら、その裏側から草付きの中にはっきりしはじめる踏み跡、ステップを拾うことだ”と記載のある、その岩塔に違いない。

ほんとは、しばらく昼寝でもしたところだが、徳本峠経由の下りはコース・タイムで5時間40分あるので、のんびりはしていられない。八右衛門沢をまた戻るなどは論外である。西穂丸山で、ワインを飲んでうとうとしていたはずの後藤さん(そのころチャウ
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と斎藤父子は独標まで往復していた)をコールして、霞沢岳出発を告げる。

徳本小屋でのできごと

徳本峠までの山道は、おおむね快適でよく整備されていた。ただし、霞沢と六百山を結ぶ稜線を離れて徳本方面へ曲がってからしばらくは、間違って沢に入り込んだかと思うほどひどいものだった。この長々しいコースを逆に登って来ると、霞沢岳は終始見えているが、穂高は稜線の陰になるので、最後に稜線にでたときの感激はひとしおだろう。しかし、いかにも長い。ここを通って霞沢岳を訪れることはもうなかろう。

最後のジグザグの急下降が終わって、斜度が緩やかになってくると、長かった霞沢からの道も終わり、あっけなく一般路に合流する。合流点の案内板によれば、徳本峠小屋へは10分ほど登り返すことになる。ビールで乾杯もしたいし、ぼくはまだこの有名な峠を見たことがないので、見物がてら行ってみようということなった。峠は、10分もかからずに着いた。小屋は平屋でほんの15坪ほどもあろうかという小じんまりしたものだ。風月に晒された裸の壁板が歴史を思わせる。我々が着いたとき、前庭の奥で10人ほどがテーブルを囲んでにぎやかに話し合っていた。
隣のテーブルに陣取って、いざビールの冷やしてある水槽を見ると、なんとアサヒ・スーパードライだ。ここから、少し話がおかしくなってきた。
 “おい、アサヒだ。これしかないのか、梓の仇敵だぜ”
といいつつも、他になければしかなく、これを求めて乾杯する。
 “ドライにしちゃあ、やけに甘いな”
缶の底を覗いて
 “なんだ4月製か、どおりでしまらない味だ”
ここらで、となりのグループの話声がいやに静かになった。
山小屋には、よくあることだが、
 「...ですから...しないでください」とか、
 「...までに...してください」とか、
ここにも箇条書きの張り紙にがやたらに多い。こういうのを見るとついからかいたくなる。 張り紙には、従業員の募集広告まである。
 “何なに「アルバイト募集 即日〜11月..日まで」だって。即日お召し抱えか、こりゃ面白い。そんな物好きいれば目っけもんだ。土日はともかく、あとは誰もこないだろうし。こんなところで一日やり過ごすのは退屈でしかたないんじゃないの。ご苦労さんなこった”
 “あれ見てみろよ「2F、3Fには立ち入らないでください」だと、この屋根の高さで、どこに2階、3階があるんだ”
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 “「到着したら早く記帳をすませてください」か、記帳するもしないも、見渡しゃ誰が居るか居ないかぐらいわかるじゃないか”
 “「食事がすんだら明日のために早めに就寝しましょう」だって、こっちの勝手だろう” などと声高にけなす。

そこへ雨がぱらついてきたので、急いで下ることにする。隣のテーブルの連中も立ち上がって、小屋に入るものもいる、テーブルに残した荷物を片付けるものもいる。よく見ると、そのなかに小屋の親父がいたのである。雨が降り出して、小屋の戸締りを始めたので、その男が親父とわかった。小屋の壁に描いてあった似顔絵の髭面がよく特徴をとらえていた。隣のテーブルは、小屋の親父が今夜の泊客を集めて雑談をしていたのだ。我々が勝手なことを大声で喋っていたので、座が白けてしまったらしい。いやいや、悪いことをしました(もっとも、知っていてもやりかねないが)。

“何でもかんでも小煩く指図がましい奴には、これくらい言ってやって丁度いいだろう”などと、勝手な話をしながら上高地を目指したのである。途中で夕立が激しくなり、土砂降りに近くなった。さぞかし親父の恨みの雨だったろう。
徳本峠からの下山路に絡む沢は2本あり、黒沢、白沢というらしい。疲れた体にはうんざりするほど長かったが、非常に珍しい経験をした。それは、川沿いにカツラが非常に多かったことである。しかも、比較的若い木が多いようで、大木はそれほどなかった。場所によっては、カツラの純林といえる箇所もあった。川岸にカツラは珍しくないが、これほどカツラだけが密度高く生えている場所ははじめてだ。

相当な雨量だったので、テントの浸水と夕食(なにしろテンプラだから)の準備が心配だったが、激しい雨は徳本峠周辺しか降らなかったとみえて、小梨平近くまで来るとほとんど降った形跡もなかった。

撤収、沐浴、宴会、帰京

94年08月28日(日)
9時にテントを撤収。タクシーで沢渡へ戻り、デリカに乗り換える。斎藤君の案内で美ケ原温泉郷まで足を延ばし、銭湯で汗を流す。米芳で締めくくりの宴会。高くて量が少ないので、大森氏はおおいに不満。たしかに、昔し山の帰りに立ち寄っていた頃の米芳とはまるで違う店になっている。梓御用達を解除する。
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