甲斐駒ケ岳黄蓮谷 

鈴 木 善 三    '94/08/12〜14


大森、橋元、河崎、鈴木(後藤さん北沢峠から参加)

 今回の山行は大森さんが最初から最後まで、全部お膳立てしてくれた。相変わらず僕は、いつものように、お世話になりっぱなし申し分けない。
 後藤さんが、北沢峠から入って十三日の夕食と十四日の朝食をやってくれることになっていた。
 それから今回の山行記録は、橋元さんが、河崎さんに書いてくれと言っていたし、後藤さんにも頼んでいた、それに橋元さんも、屈辱の山行だったと言って自身も書くと言っていた。三人の書いたのを見れば面白いと思っていた。
 ところが山から帰ったその日、寝るときになって思い出してきた。あのとき、上にも行けない、戻ることもできない、もし落ちたらどうなるのだろうなどと考えたことが、頭の中をぐるぐると廻り初めて、悔しくて眠れなくなってしまった。
 それで僕も書いて見ようと思いこれから綴る。
 十二日の朝、大森さんと連れ立って新宿駅に行くと橋元さんはもう来ていた。
八時二分新宿を発って韮崎駅に九時五十六分に着く、駅には名古屋を昨夜発って、今朝七時二十分頃着いたという、河崎さんが待っていた。早速タクシーに乗って竹宇駒ヶ岳神社へ。相変わらず暑い日が続いている。
神社から 歩き出し、最初のうちは、何時ものように、いろいろな花を愛でながら、あるいは花の名を聞いても直ぐ忘れてしまい、同じ花の名を何度も何度も聞きながら歩いている、いつものパターンである。それでも其の都度、丁寧に答えてくれる橋元さんには感謝(腹の中では、なんて頭の悪い奴だと思っているのかも)。
 歩き出してどれくらいたっただろう、いつのまにか空もどんよりしてきて、雨らしきものも落ちてくる。濡れるほどではないが、(何故だ我々が入った日にかぎって)。此処を歩いたのはもう十年以上も前になり、記憶などない。笹の平まで随分遠かった。雨も本降りになったり、小雨になったりである。五合目小屋に着いたのは四時半を廻っていた。

 早速ビールを仕入れて此処までの乾杯、岩小屋へのルートの状況を聞いて五時に出る。岩小屋へのルートは途中崩壊地があり、また歩く人も少ないとみえて、所どころ踏み跡が判らなくなっている、ルートを確かめながらも六時に岩小屋に着いた。岩小屋にはテントが一張りと三人のパーティの二組の先客がいた。
 岩小屋に着くと、早速水場の確保に橋元さんと大森さんが出かける、河崎さんが水を汲んで来ると行ってなかなか帰ってこない。どうしたのかと思っているとやっと帰ってきた、何のことはない下の本流まで汲みに行ったとのこと、ご苦労さまでした。
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 ビールの冷えるのも待ちきれずに乾杯。今日の夕食は大森さん、つまみは橋元さん、先日苗場に行ったときに舌鼓を打った肉が今回も有る。しかも今日の肉の方がもっと上等なのだそうだ。橋元さんが担ぎ上げたシーバースリーガルで九時半頃まで過ごす。沢登りにこのような豪華な物を食させてもらい、会話と、この雰囲気にと、ホントに至福の時間である。  夜は、町では毎日が暑くてやりきれなかったのが、嘘のように寒くて時々眼が醒める。自分一人だけが寒くてごそごそやっていたのかと思ったが、橋元さんも寒くてどうしようもなかったとのことであった。

 朝五時に眼が醒めた、今日はどうしたのか橋元さんが一番最初に起きた、寒くて寝ていられなかったらしい。我々が起きるとすぐテントのパーティが出かけて行った、こんなに早く大変だなあと思う。
 我々は七時に出発、本流に降りる所でまずは僕が1m程滑落、ずっこける。本流遡行も順調に進み、時間のことは気にならなかった。八時半頃一休み、大森さんが「今日の天気は沢登りには最高だね」とか「沢登り日和だね」とか言っていた。
 それから歩き出してしばらくすると天気が崩れてきた、大森さんが「誉めるとすぐこうなる」と嘆く。それからは、頂上に出るまでずっと重い雲の中、時々霧雨の舞う肌寒い天気で、休んでも直ぐ「寒いからもう行こうよ」となった。
 奥千丈ノ滝に、何時の間にか入っているようだ、両側一面ツルツルの岩場の中を一筋の水が流れ落ちてくる、この水流に沿って登るらしい。傾斜もそんなにあるわけではなし簡単に登れそうではあるが、上は見えなくその先まで続いているようだ、はたして登れるだろうか、橋元さんに「登れるのかね」と聞くと「うん大丈夫」と言って先行する。
 僕もあとに続く、どれくらい登っただろうか、少ししょっぱいところに出た、橋元さんは真直ぐ登って行った。見ると左のほうが少しやさしそうに見えた、其処で左に移る、するとその左がもう少しやさしそうに見えた、また其処に移る、其処で行き詰まった、ホールドもスタンスも細かい、これではそんなに長い時間もちこたえられない。僕に続いていた大森さんに、此処は駄目だと告げる。大森さんは其処からもっと左の薮の中に逃げ込んだが、僕は大森さんの所まで降りられない。見ると左下に少しの出っ張りがある、やっとのことで其処に移る、左足四分の一か五分の一引っ掛かる、とりあえず一安心。
 最後に登ってきた河崎さんに「僕の右2m位の所は大丈夫か」と聞くと「大丈夫だ」と言う、ところが此の2mが移れないのだ。
 下を見ても10mくらいしか見えないし、はたして100mあるか200mあるか、もし落ちれば助かりようがないなあ、落ちるときは転がっていってグシャッとなるのか、ズルズルと滑ってグシャッとなるのか、どんな格
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好で落ちるのかなあと思う。みんなに迷惑をかけてしまうなあと頭をよぎる。それでも恐怖感はあまり感じなかった。河崎さんが「ザイルを出しましょうか」と言う。悔しい、何とか自分一人で脱出したい、と思ったが諦める。少し間をおいて、お願いする。ところがザイルは斜めになっている、これでは振られて僕が落ちたら河崎さんも巻添えにしてしまう。そこで河崎さんにはもっと上に登ってもらって安全なところで確保してもらい、ザイルに助けられて無事脱出。この間30分か1時間か、ずいぶん待たせてしまった。
 あとで橋元さんに「あそこだけがちょっとしょっぱかった」と言われた、残念。  ところが上に出てみると我々が、朝起きたときに出かけて行ったパーティが、その上ですったもんだやっていた。
 ところで無事通過した所ではみんな二本足ですたすた歩いているのに、僕だけ四つんばい。立っているだけで精一杯、とても動けない。わらじとフェルトではそんなに違うのだろうか、あるいは僕のバランスがそんなに悪いのか?。
 彼等が行ったあと我々も、橋元さんがてこずって、河崎さんにトップが変わった。僕はザイルのお世話になって無事通過。大森さんはまたも薮のなかに入って、ずっと先に行って待っていた。無事奥千丈も通過して、大森さんに追い付いて一休み。昔を思い出して(皆さん御存じですよね最初に黄蓮谷に入ったとき、僕達が、高巻をして、どうしようも無くなって、やむえずアブザイレンで降りたとき大森さんは一人、岩の上で昼寝していた話)大森さんに一言「大森さんは、みんなが高巻くときは一人直登して先に行って寝転んで待っているし、みんなが直登するときは一人高巻いて先に行っているね」。
 さてここで記憶が少し変だ、休憩しながら「あと2時間もしたら頂上に出られるかなあ」と言うと大森さんが「遡行図では奥千丈から3時間半あるからそんなに早くはない」と言う。そのとき2時間で出られたら1時に頂上だなと思った。ところが後藤さんと交信できたのもこの場所だと思ったが、その時は確か12時だった。1時間のずれがある。交信できたのはこの上で休んだときかもしれない。
 とにかくやっと後藤さんとコールできた。橋元さんが呼びかけると直ぐ後藤さんから返事が入った。そんなに直ぐ通じるとは思わなかったので、感激し嬉しくなった。後藤さんは、10時ころ頂上に着いてずっと待っていた。2時頃まで頂上で待ってそれでも会えなかったら先に降りているとのこと、それでも2時頃には着くだろうから頂上で会えるなと思っていた。  しかしそれから、奥の二俣の上で、また苦労してザイルのお世話になり時間は過ぎて行くばかり。そこも無事通過しこれでもう詰めだと思った。この所は、霧雨にけむりウサギギク、ミヤマダイコンソウ、ミヤマアキノキリンソウ、それからちょっと数えて7種類あったけど忘れてしまったが、花が咲き乱れて素晴しいお花畑だった。そこを通って頂上に着いた。僕の記憶では、3時40分だと思ったが4時だったと誰だったか言ってた。
 頂上では残しておいたビールで登頂を祝し乾杯。橋元さんが後藤さんとのコールで、北沢峠は水が不足しているから途中で確保してきて欲しいとの連絡。駒津峰5時、仙水峠6時、仙水小屋で水を確保し北沢峠テント場へ。
 テント場の手前には後藤さんが出迎えに来てくれていた。テント場に着いたのは7時少し過ぎていた。
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 駒ヶ岳からの下りでは、「今日は疲れた」「今日はきつかった」「こんなはずではない」「どうなってしまったのだろう」「やはり年かなあ」「山も考え直さなければいけない、一つの転機かなあ」などと、悔しい嘆きの声ばかり。橋元さんなど、最初にも書いたが「屈辱の山行だった」とも言っていた。それでも「12時間歩き通せたことでよしとするしかないか」という結局さみいしいお 話し、こんな話はもちろん河崎さんだけ一人蚊帳の外であった。テント場に着いて後藤さんの用意してくれた酒、夕食を楽しく済ませ。翌日も甲府で酒を飲んで、のんびりと鈍行で帰り、楽しんだ山行ではあったが。それでも、家に帰ってから寝るときになって思い出し、寝付かれなくてもんもんとした山行でした。
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