八甲田単独行

橋元武雄     '93/05/01


05月01日 快晴
天気は申し分ないが、昨夜の雪が相当積もっている。山の上ではさらに深いだろう。この時期の新雪では、快適な滑りはあまり期待できない。今日のツアーは、箒場コース。田茂萢から赤倉へは、われわれがいつも使っている縱走路を行かない。いったん宮様コースを下ってから、途中の尾根に取り付いて、それを回り込むようにして、大井戸沢の頭に出る。シール組には良いコースかもしれないが、つぼ足のトレールがなければ、縱走したほうがよさそうだ。

宮様コースへの下りがけに、2羽の鴉が巴になって落下してゆくのが見えた。空中戦だ。雪面に衝突する寸前に、ぱっとはなれて別々の方向へ飛び去った。こんなに激しい鴉の喧嘩ははじめて見た。都会と違って喧嘩のスケールも大きくなるのか。そんなことを考えながら、尾根の登りにかかると、争いの痕跡を示す黒い羽毛が新雪の上に点々と落ちていた。

昨日と一昨日は茂木さんの板を担いだが、今日はアシスタントの雨宮君が代ってくれた。荷が軽いので足取りも軽い。ちょうど昼時に箒場コースのスタート地点に着いた。ここで昼食をとる。池田さんとチャウが居れば、ビールだワインだと始まるのだが、今回はひとりで黙々とビールを飲む。不思議にツアーのメンバーは、だれもアルコールをもってこない。もちろん、宿では飲んでいるのだろうが。風のない静かな場所
に陣取った。しかし、条件が良かったので周囲をいくつかのグループに包囲されてしまった。隣りで騒いでいる小母さんがやけに煩く思える。この小母さんが、冗談だか気取っているのか分からない声音で、“カトリーヌ、カトリーヌ”とやたらに叫んでいる。愛玩犬でも連れてきたのかとおもって見たら、似たような疲れた顔の小母さんが返事をしていた。とにかく、1人の食事は八つ当たりしたくなるほど侘しい。

しかし、景色は文句ない。快晴の空の下、高田の北斜面が白く輝いて見える。通常の滑走コースは南東斜面だから、その裏側になる。北斜面は、10年以上前に、池田さんと、チャウと3人で下部だけ滑ったことがある。斜面は上部にむかうにしたがって3角形に収束して尾根に合流し、高田の頂上まで続いている。しばらく眺めていると、どうにか登れそうだという気がしてきた。はじめは、赤倉を滑ったら小岳に登り返えすつもりだった。しかし、この斜面を見たら、高田に登ってみたくなった。北斜面は、高田大岳としてははじめてのルートだ。

スクールは、赤倉の通常コースより、左の斜面を下るらしい。ツアー軍団は、スタート地点から一滑りしたところで、ばらばらになった体制を立て直している。また時間がかかりそうだ。そこで、アシスタントの雨宮君に、ここから別コースを取りたいと伝えた。しかし、彼には判断が下せない。トランシーバーで園田さんにうかがいをたててい
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る。園田さんには、ロープウエイを降りたところで話してあったので、すぐに“よろしいですよ”の答えが返ってきた。雨宮君はにっこり笑って、“どうぞ”といってくれた。ツアーと別れて、ぼそぼそに荒れた箒場コースを下りる。曲げにくいが、よく滑る雪だ。急斜面での素速いターンが必要で、すぐに息が上がってしまう。いっぺんには滑り切れない。途中何度か立止まった。大岳の裾野のプラトーを回ったところからは、高田北斜面の下部を目指して滑り込む。多少の上り下りを覚悟していたが、一気に下部まで到達できた。

高田北斜面の登高は素晴らしかった。昨夜積もった純白の雪面、ウサギとカモシカの真新しい足跡、そこに参加する自分のトレール。1歩1歩新雪を踏み締めて登る。コース取りは自由だ。心臓も肺も激しくあえいでいるが、不思議に苦しくない。最終日でやっと体が山に馴染んできたのだ。体が慣れるまでに時間がかかるのは、いつものことだが、年々その時間が長くなっている。 1時間ほど登って一服する。振り返えって、雪の斜面に腰を降ろす。快晴の空の下に、いま滑り降りてきた赤倉の大斜面や、今回は一度も滑らなかった大岳の大斜面が見える。どちらもシュプールでずたずただ。ツアーが向かった田代岱のかなたには、明日から一周する予定の下北半島が伸びている。半島のくびれたあたりに複数の白っぽいタンクのような構造物が横一列に並んでいる。きっと石油の国家備
蓄基地というやつだろう。そのすぐ右は太平洋、左にすこし離れて陸奥湾だ。

登高そのものがこんなに楽しかったのは、はじめてのような気がする。快晴、新雪、単独行、そして自分が見つけたルート。もちろん少し山に慣れていれば、だれにでも読めるルートだ。多分、地元の人には、珍しくもない積雪期のルートだろう。しかし、地図にないルートを、いくつかの可能性のなかから選択し、実行に移すには多少の決断を必要とする。それに、少なからず緊張をともなう。うまくゆけば、その分だけ達成感があり、気分が高揚する。

10分ほど休んで、また頂上をめざす。広い雪面がだんだんオオシラビソに包囲されて狭まってくると、やがて這松の尾根へ抜けた。尾根の上部は、吹き溜まりの軟雪とクラストが複雑に入り組んでいる。クラストは、雪が締っているのでなんなく登ることができるが、吹き溜まりに入り込むとたちまち膝上まで潜り込んでしまう。今日は気温が低いからよいが、これで雪が弛んだら相当なアルバイトを強いられるところだ。高度を上げるほど西風が強くなり、雪面はステップが切りにくいほど締っている。右隣を100mほど離れて平行している通常ルートには、大勢の団体が列をなして登っている。どこかのツアーだろう。頂上に近付くにしたがって、ぼくの目指すルートと、通常ルートはしだいに接近して行く。ある程度通常ルートに近付いたら、そちらを利用した
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ほうが楽なのはわかっている。しかし、最後までトレールを合流させなかった。自分で切り開いたルートを、山頂まで維持したかったからだ。

山頂から、いま登ってきたルートを振り返ったが、ちょっとした地形の悪戯でよく見えない。社のあるピークの手前まで行って、やっと尾根の上部だけが見えた。滑り下りても悪くないコースのように見える。ただし、高田の南東斜面のように長い距離はとれないだろう。

高田南東斜面の下降点に着くと、さっき見たツアーが出発するところだった。いつかTVに出ていたガイドがいる。城ヶ倉の団体だ。彼らが滑りだすのを待っていると、やはり単独行の地元の人が、どのコースを来ましたと訊ねてきた。きっと、登っているところを見ていたのだろう。彼は、別の下降コースを探しているらしい。すこし薮こぎ
をして、南面を滑るのかもしれない。

わいわいと、にぎやかなツアーのしんがりが見えなくなったところで、スタートする。雪は、やはり良くない。きわめて曲げにくいが、雪が滑るのでスキーはどんどん加速する。またたくまに斜面の核心部は終わって、猿倉へ向かう斜面に入る。今回は、滑り荒された核心部よりこの先の樹林帯の滑りのほうが楽しかった。緩斜面でも雪がよく滑るからだ。驚いて飛びだした兎と追いかけっこをしたり、高速で樹間をかいくぐったりして、自由に滑りまくった。ずぶん長く滑ったようだったが、高田の頂上から猿倉まで、ものの10分もかからない。しかし、密度の濃い10分だ。猿倉のバス停に出たときは “やった”とおもわず叫んでしまった。前半の素晴らしい登行、後半の誰もいない広大な斜面の林間滑降。もうこれ以上はない。これが八甲田だ。
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