船形連峰

橋元武雄     '93/07/16〜18


07月16日 曇りがちの晴れ
7時半、JR東川口を出発。
冨山、後藤、中村、亀村。善さんが急な社用で参加できなくなったのが心残りだ。

今回の山行は、当初の予定では栗駒山だったが、後藤さんが面白そうな山があるといって資料を送ってくれた。宮城県の船形山だ。栗駒山は、ぼくの単独行の記録が梓の会報にも載っている。駒の湯、須川など温泉は素晴らしいものがあるが、山自体はそれほど感心しなかったので、さっそく後藤さんの提案に乗った。

関東地方は曇りがちの晴れだったが、東北道を北上するうち、激しい雨になる。北に押上げられていた梅雨前線に突っ込んでしまったのかと心配したが、福島盆地を過ぎる頃には小止みになり、やがて道路は乾いてきてほっとする。はじめての場所に夜中に到着して、雨のなかをテントを張るのはたまらない。

不安な夜の林道、キツネの出迎え
まだ今日のうちに、東北道を古川で降りる。国道4号経由でUターンして347号線に入り尾花沢方面へ向かう。途中の中新田(なかにいだ)から左折して色麻(しかま)方面へ南下する。運転は亀ちゃん、ぼくがナビである。なにせ初めての所だから、地図を調べながら進むが、地図の地名がさっぱり見えない。といっても地図のせいで
はなく、このところ急速に進んでいるこちらの老眼のせいだ。冨山さんの眼鏡を借りて見直すと、地名は明瞭このうえなく、歴然。こちらは愕然。車外の眺めは裸眼で、膝の上に置いた地図は老眼鏡でと、交互に見返しているうちに、頭がクラクラしてきた。

艱難辛苦のナビの末、地方道小栗山線へ入り快適な舗装道路を進む。人家も見当たらなくなると急に道幅が狭まる。しばらく進むと、突如1車線ぎりぎりの細い林道が右に別れる。入口の標識に、船形山方面への林道とあるから、間違いなかろう。しかし、半信半疑である。人家などはまったくないし、まして人通りなどないから、確認のしようもない。もちろん未舗装だ。黒々とした林の中を、車のライトが光のトンネルを作りながら進んで行く。路上遥かに何か動物がいると思ったら、キツネがキラキラと眼を光らせてキッとこちらを見据えている。何かをくわえていると思ったら子キツネだった。急なライトに驚いたはずなのだが、さして慌てるでもなく道端の叢に消えた。夜道でタヌキには何度も会っているが、キツネは記憶にない。それだけ、山が深いのか。

林道は、行けども行けども終わらぬかにみえたが、ついに「ふるさと緑の道」の標識が見つかる。これは、地図の案内にも一致する。これでほっと安堵する。それからしばらくして周囲の林の様子が変わり、道
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路の周囲が開けた感じになる。ブナ林に入ったのだ。分岐から約6Kの山道をゆくと、また分岐がある。そこに吾妻屋があって、右に野営場の標識が見える。そこから、何故か突如として舗装道路が始まる。道幅は狭いが、つい最近舗装されたとみえて、まったく路面に傷みはない。地図に“一部舗装”とあったのはこのことだったのだ。

大滝野営場着、12時半着。夜中のことで、全景は把握できないが、舗装された広い駐車場があり、中央に直径6mほどもある大きなキャンプファイヤ用のサークルがある。これが地図に“駐車50台”とある駐車場なのだろう。広場の北側に、人程度は同時に使える屋根付きの洗い場がある。洗い場には似つかないほど大口径の塩ビの蛇口があり、赤いバルブをひねるとどっと水が流れ出してくる。右側の水場には、さらに大口径の水道管から水がたえまなく流れ出し、貯水槽には水が溢れかえっている。あまりに水量が多く、水音がうるさいくらいなので、少しバルブを絞ったほどだった。水場の東側に亭があり、中央の石造りの丸テーブルを4つのベンチが囲んでいる。8人ほどがらくに宴会ができる。みんながテントを張っているあいだに、こちらはヘッドランプで照しながら刺身の用意をする。明石のタコ、活きじめのコチ、フッコ、マグロなど。ビールで乾杯し、酒は三千盛だ。この小宴会は3時近くまで続いた。
大らかなブナ林、豪奢なサラサドウダン
07月17日 曇り、時々日差しがこぼれ、夕方から雨

7時起床。まだ寝不足だが、そうそう寝てはいられない。日帰りコースとはいえ、山に登るのだ。しかし、だれも急がない。雲は多いが明るい空の下でのんびり朝食をとる。“おめざ”のビールは当然として、昨夜の残りの三千盛も出回っているようだ。朝食は、チャウ担当の冨山風ニラうどん。秋田の稻庭うどんを使い、たっぷりの水ですすいだので、冨山風とは言い難い上品なニラうどんになってしまった。やはり、あれは乾麺のゆで汁をそのまま使うがよろしい(ただし、昨年の剣の経験では、ゆで汁のままでは塩が効き過ぎるので、多少の調整が必要だ)。

朝になって周囲を見渡すと、われわれがテントを張った場所は、山の斜面を削って切り開いた広場である。西側が山でブナ巨木の林に囲まれいるが、東側は視野が開けている。昨夜は気付かなかったが、水場には掲示があり、この水は“霊水”として名高い貴重な水だと書いてある。あとで知ったが、この水を取りにわざわざ、下界から大勢人が来るらしく、あの大口径の水道はそのためだったのだ。

出発は10時半頃だったか。おおらかなブ
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ナ林を、緑に浸りながらのんびり歩く。地図で見ても、前半はそれほど斜度はなく、後半多少きつくなる程度だ。近頃はなにかとブナ林の話を聞く。白神山地の保護にからんでTVがさかんに映像を流したせいだろうか。関東以南で極相林となる常緑照葉樹林は、樹高が低く葉が厚いシイノキやツバキが主体なので、雰囲気が欝っとおしい。しかし、北の山地で極相林となるブナは樹高が高く、薄い葉を通して光がこぼれるので、明るくおおらかだ。ぼくは血筋からいうと南方系なのだが、どうも北国の雰囲気が好きだ。ただ、時期が時期だけに湿度は高く、虫が多い。集中的にこちらに集ってくるので閉口した。一番汗をかいているせいか、とも思ったが、あとで誰かが最後尾を歩いていたからだろう、と分析していた。つまり、集団の発生する炭酸ガスの流れを検知した虫が、それを遡ってきて、最初にいたのを襲撃する、ということになる。

この山はサラサドウダン(フウリンツツジ)が多い。山道の両側はこの樹で取り囲まれているようだ。山を登るににつれて、季節を遡るように咲き誇ってゆく。満開の花の蜜を求めて蜂が蝟集し、その羽音が低い唸りをたてる。実際、あとで亀ちゃんが“飛行機が飛んできたかと思った”と話していた。サラサドウダンの薄赤い鐘形の花冠には、さらに濃い赤の縦筋が入り、その花の1つ1つが、入念な工芸品であるかのように美しい。しかもそれが、夥しく樹全体
を覆い、散り去っては惜しげもなく山道を埋めつくしている。自然の営みの何と豪奢であることか。山頂近くには白花の品種(シロバナフウリンツツジ)もあり、紅白のサラサドウダンが見事な対をなしていた(山頂付近にはベニサラサドウダンもあった)。

山頂の宴
12時15分、頂上の少し手前の御来光岩(御来迎岩;ごらいげいいわ)に到着。ここは絶好の宴会場だ。登りは、煩わしい虫と蒸すような鈍い日差しで苦しめられたが、ここは終始風が通るので、虫は寄りつかず気温も快適だ。冷却剤で冷やしてきたビールで乾杯。昼飯は冨山さんのキムチと松坂牛の切り落とし炒め。これは、記録によると'90年10月の甲子山での好評以来、冨山さんのレパートリーに定着したものだ。単純な料理だが、牛肉とキムチがともに一定の水準を満たしていないと、バランスの取れた味わいにならない。今回は、キムチにやや難があったが、牛肉の質にカバーされて、上々の仕上りだった。これにハンガリー産の白、赤のワインが加わる。赤は酸味が勝って渋みが足りなかったが、新鮮さで楽しめた。白は薄味の、水のようやワインである。ともあれ、これらのワインは、いずこの方かは知らないが、本人の意図しないところで梓への差し入れになった由、贅沢はいえない。
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今日のチャウは、彼女の会社の創立記念品の双眼鏡と、どこで手に入れたのかレンズ3枚組のルーペを首にかけ、ちょっとした自然科学者のいでたちである。しかしながら、花は手に取って間近にルーペで眺められるからよいが、野鳥となるとそうはいかない。間近でオオルリが高らかに鳴いていても、シジュウカラやコガラが盛んに囀っていても、居場所を突き止めない限り、双眼鏡は何の役にも立たない。そのうち、尾花沢方面から単独行の登山者が山道を登って来た。疾風のように駆け上がってくように見える。チャウは早速、双眼鏡を向けて、“むむ、白のシャツに青いズボン、若い男だ...許す”などとおっしゃっている。たしかに、人間も観察すべき自然の一部ではある。

快適な宴会場での昼食が終わり、300mほど先の船形山山頂へ向かう。頂上周辺は、ミネウスユキソウがあちこちに群落をなし、丁度盛りである。山頂の直下の蛇ヶ岳側に避難小屋がある。使うつもりはないが内部を偵察してみる。東北地方ではどこでも感心するが、ここも丁寧に使われている。心ない登山者というのは、北の地方にはいないらしい。これが上信越の山だったら、ひとたまりもない。

薮こぎ、雨、お花畑
船形山山頂からは、同じコースを戻る手もあったが、時間も早いので蛇ヶ岳経由のコ
ースを目指した。このコースは利用者が少ないせいか、潅木が左右から山道を覆い、路面がよく見えない。しかも、この長雨のために路面はぐずぐずで“ヤバチイ”。ほとんど薮漕ぎに近い状態だった。しかも、何とか保ちそうに思えた天気がくずれだし、急に激しく雨が降りだした。途中で雨具を出したが、薮が雨に濡れているから、上着しかない冨山さんや傘しか持っていないぼくなどは、ズボンがぐしょ濡れだ。

雨の降りだしとタイミングを合せるように、亀ちゃんの靴底がぱっくり口を空けた。チャップリンの映画でドタ靴の先が裂けて、ぱくぱくさせながら、歩いているのがあったが、まさにそれである。プラスチック製のスキーブーツが、割れてしまった例は、黒姫の誠君や、本杉小屋の尚やんや、梓ではないがぼくの友人にも経験者はいるが、普段の靴となると近頃ちょっと珍しい。やはり、あの体躯を支えきれなくなったのだろうか。とてもまともに歩ける状態ではなかった。運の良いことに、後藤さんが自分の捻挫を心配して持参していたテーピング用のテープがあったので、それで靴をまるごとぐるぐる巻にした。亀ちゃんは、却って歩きやすくなったと喜んでいる。何はともあれよかった。

山頂からしばらく下ると、升沢コースと、蛇ヶ岳経由のコースが別れる。これを右にとって、蛇ヶ岳コースへ進む。雨と薮は依然として続く。みんなうんざりして、同じ道を帰
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ればよかったと思いだしたころ、また分岐がある。ここは、左折して草原(という地名)を下り、升沢コースに合流する以外ない。分岐から少し下ったところで、小規模な湿原が現われた。急に歩きやすくなって薮の煩わしさもなくなった。これが草原だった。草原のお花畑はまだ残雪があり、イワカガミ、ショウジョウバカマ、コバイケイソウ、ツマトリソウなどがまだ咲きかけたばかりの風情だ。それに、おおぶりなシラネアオイの群落もある。そして、梓のメンバーには多分、初見参のヒナザクラ、オオバツツジ(これはぼくも実物ははじめてで、エゾツツジなどといってしまったが、まったく似ていない)なども咲いている。丹沢程度の高さの山なので、高山のお花畑というほどの規模はない。しかし、緯度が高く、積雪が多いのでお花畑の雰囲気は十分に出ていた。

あれ、こんなところに山小屋が
お花畑を下ってしばらく、もうそろそろ升沢コースと合流するはずだと思っていたら、地図にない山小屋が出てきた。小屋の壁に打ちつけてある看板に大雑把な地図が描いてあるが、この小屋が何という名前なのかが書いてない。持参の地図で、いくら調べても近くに建物はない。あるとすれば升沢小屋だが、とすれば、われわれはいつのまにか升沢コースに合流していて、合流点を右折するところを、反対に左折し山頂に向かって戻っていることになる。小屋
を行き過ごして進むと沢に入り、コースは沢を遡行している。升沢小屋コースというのは、“沢のなかを歩く”とメモが付いている。どうやら道を間違ったらしい。時間も5時を回っているし、雨も降ったり止んだりしている。いくら簡単な山でも、暗くなってはまずい。少し焦った。残りのメンバーには小屋の近くに居てもらい、もと来た道を偵察に戻る。大分戻ったところで、どうも見慣れない道になった。地図を出してみると、地形からみてどうも合流点を過ぎている。山側に注意しながら取って返すと、やっと分かった。われわれが下山してきた道は、升沢小屋の方向を向くように合流しているので、そのまま山頂方向へ進んでしまったのだ。それに、われわれが降りてきた道は、探しながら戻っても見逃してしまうほど細い山道だった。そういえば、先程みんなで歩いているときに、男女の登山者とすれ違った。あのとき、“これから登るのか、今夜は避難小屋泊りかな”などと話し合っていたのは、実は自分たち自身のことだったのである。彼らこそ、同じ話をしていたに違いない。

やれやれ、お疲れ様
とんだ間違いはあったが、それでも暗くなる前に野営場に帰着。今朝、食事をとった亭には、男ばかりの若い連中が4、5人、バーベキューを楽しんでいる。彼らだけで、広場にほかに人はいない。彼らも今夜はここに泊るらしい。亭のテーブルの半分は
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彼らの食器や酒で占拠されていたが、残りには今朝のわれわれの装備が置いてある。ちょっと嫌な気分だったが、彼らはなかなか感じが良く、礼儀も弁えている。そこで、そのままテーブル半分をわれわれが使って、大宴会の準備に入った。ビールの乾杯から、八海山に移り、冨山さんのオカカと醤油風味のミョウガとキュウリの和風サラダ、ブツ切りメンタイコなどのつまみで酒へ進む。今夜は、まず八海山から始まる。

若い連中は、戸外の食事は早々に切り上げで、車にランタンをともして中で宴会を始めた。水場に大きな西瓜が2つ冷やしてあったが、“参加するはずの人数が減ったので”とその半分をわれわれにプレゼントしてくれた。ますます良い若者だと、身勝手に感心する。後藤さんの手羽の焼き鳥が終わるころには、雨が本格的になってきた。テントはアスファルトの上なので、雨が降り続けば床は水浸しになるのは目に見えている。亀ちゃんが、昨夜到着したときに見たバンガローの戸が開いていたというので、2人で偵察に行く。バンガローは、広場から50mほど離れて、道を隔てて反対側にある。高床の頑丈な丸太小屋で、1間だが6、7人はゆっくり泊れる板敷である。それに屋根裏に上がれる階段があって、そこでも4人ほどは寝られる。階段といっても、1本の丸太に足場の横木を打ちつけただけなので、酩酊したわれわれにはちょっと不安定だが、濡れたテントに寝ることに比
べれば、天国である。

宴会中、雨の大引越し作戦
早速、引越しすることに決定。しかし、夕食の最中に移動するというのは、そう簡単なことではない。5人それぞれに食べかけで、あちこちに散乱した食器や、水に漬けてある米や、味噌汁用に火を入れたアサリや、半分に割った西瓜などに加えて、テント内に蟠る呆然とするほど夥しい数の品々があるのだ。それにみんなもう相当酒が入っている。しかし、梓はただの酒飲み集団ではない。瞬く間にこれらの品々をデリカに詰め込み、2回の往復で、テント以外はほとんど跡形もなく引越しを完了した。ただし、みな相当な酩酊状態ではあるので多少の失敗はあった。その1つを紹介する。小屋の前で、デリカのバックゲートを開けたとたんに、鍋がころげ落ちた。鍋だけなら問題ないが、中にはといだ米が水に浸してあったのだ。あわてて途中で受け止めたが、半分近くが大散乱。夜目にも鮮やかな白い米粒が、デリカのデッキと真っ暗な路上に散乱したのである。しかし、残りの米で夕食は、十分まにあい、朝のオジヤにも使えたことを言い添えておこう。

小屋の入口に半畳ほどの掘り込みがあり、半分の幅の可動式の板蓋がついている。入口に穴が開いているのは危険だなと思ったが、よく考えてみると便利なのだ。今日のように雨に濡れて入ってきたとき
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は、そこで雫を拭えるし、冬なら雪を落とせる。床にゴミがたまれば、そこに落とせるし、短く切ったコンクリート管が埋めてあるので、いざというときはイロリ代りに使える。あとで一人屋根裏に寝てわかったが、合掌作りの屋根には空気抜き間隙もあって、煙もこもらない工夫がしてあった。

引越しは、大正解だった。乾いた気持ちの良い小屋で、宴会を続行する。酒は、3升目の久保田に移り、それもそろそろ残り少なくなる頃、アサリの味噌汁をすする。これがまた、おおぶりのたっぷりしたアサリで旨い。御飯が焚き上がり、後藤さんがお手製のハヤシライスを温めていると、昨夜の寝不足と今日の疲れで、あちらにごろり、こちらにごろり。ぼくは、珍しく後藤さんにつきあって起きていたがそれでも相当眠い。このままみんな寝込んでしまうのではないかと心配したが、“ごはんだよ”と叫ぶと、一斉に起き出して、ハヤシライスを堪能する。それに、食後は彼らから差し入れの西瓜だ。甘みは少なかったが、水を飲んでいるようにたっぷりの果汁だった。

朝酒で、中宴会
07月18日 雨激しく
夜中にも数台、車が上がってくる。途中に渡渉箇所があったので、夜中に目覚めたときは、帰りが心配になったが、この激しい雨でも懐の深いブナ林のおかげで水位は安定しているのだろう。
“7時だよ”の後藤さんの声で起床する。早めに寝たから睡眠はたっぷりだ。小屋のベランダに出て外を見ると、前の草原でもぞもぞしている男がいる。まさかこの雨の中をキジ打ちか、さぞかし尻も濡れるだろうと見ていたら、フキ取りだった。そのあたり一面に野性のフキが群生しているのだ。他にもジモティの車が上がってくる。軽ワンボックスが3台連なって上がってきたので、みんな水取りかとおもったら、総勢10人ほどが雨具をつけ、山に上って行った。この元気には驚かされる。広場に顔を洗いにいった冨山さんの話では、若者たちは小さな車内で寝ないで一夜を明した模様だ。

朝食は善さんの予定していたとおり、オジヤである。ホタテ味のタマゴ入りオジヤはとうにできあがり、あとはミツバをまぶすだけなのだが、だれも手をだそうとしない。朝ビールから、じわじわと酒へ移行しているようなのだ。昨夜は寝不足で早めに寝てしまい、酒が飲み足りなかったとみえる。そのうち、残りの肴を総動員して中宴会が始まった。ミッチー(三千盛)、ハッチー(八海山)がしまいに、ミチヤッコ、ハチヤッコになり、チョッチー(長陵)が開けられて宴たけなわとなる。冨山さんは、“わしらの年配のものには、昼酒は罪悪感がある”といいつつも、昨夜より盛り上がり、チョッチーを一人で抱え込んでしまった。結局、大、中、小と3回の宴会で、酒4升はほぼなくなり、500_gが1ケースあった缶ビールが、4
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本を残すのみになった。そろそろ切り上げないと、この先の時間がきつくなる。

雨のなか小屋を片付け、テントを撤収し、いよいよ、大滝野営場をあとにする。前半の運転はぼくだ。車のすれ違いがやっとの部分がほとんどの林道だから、登ってくる車が多いといやだなと思ったが、ほとんど対向車はなかった。たった1台出会った対向車は、林道が十分広くなってからだった。夜中には心細さもあって、ずいぶん長いと思った林道も、明るい昼日中だとさほどではない。30分ほどで、あっけなく、舗装道路にでた。

ひなびたる湯、転じて寿司となる
来がけに、“カッパの湯”という幟が道端に立っていたので、それを探してみることになった。帰る方向とは逆で、大分遠回りになったがカッパの湯にたどり着いた。しかし、“ひなびたる”雰囲気はまったくなく、いわば田舎の公衆浴場である。みんなの意見で、この温泉は却下された。そこで、後藤さんが次なる温泉を地図で探してみたが、適当な候補がない。結局、長駆、塩釜まで飛ばして、港町で旨い寿司を喰おうということになる。古川から高速に乗って大和インターで降り、県道を一路塩釜へ向かう。途中、適当な温泉があれば入ろうということになったが、地図で見つけた2つの温泉の1つは、近くまで行って看板を見ると、ラドン何とかという文字が踊っていて却
下。もう1つは、地図にはあっても実物はなく、結局、温泉は入らずじまいだった。

塩釜は、後藤さんのお嬢さんの嫁ぎ先である。さっそく“婿殿”に電話をかけ、岳父の行きつけと言う寿司屋の情報を仕入れる。その結果、塩釜の魚市場近くに松栄(まつえい)という寿司屋があり、頑固なおやじだが腕は良いらしいということがわかって、そこを目指す。しかし、“頑固”というのがわれら全員の気にかかった。梓のことだ、共鳴できる頑固ならよいが、反発したら血の雨になりかねない。地図をたよりに魚市場の周辺を一周したが、無事松栄寿司を発見する。亀ちゃんが偵察すると満員。しかし、じきに空くというので、近くに車を停めて店に上がり込んだ。板前は主人一人で、色白でぽってり太っている。なるほど自信満々の顔をしている。何はともあれ酒をたのもうとすると、何と“酒はない、ビールは1人1本まで”と宣言されてしまった。一瞬、唖然としてみんなで顔を見合せたが、乗り掛かった舟、ここまで来てジタバタしてもしかたがない。そっと後藤さんに訊いてみたら、“そういえば、あちらの岳父さんが酒を飲むのは見たことがない”という。

ビールを2本と、1人前3,000円なりの松栄セットを人数分たのむ。ところが車でずーっと寝ていたチャウがにわかに不調を訴え、車へ戻ってしまった。昨年のパラグライダーの膝の怪我以来、はじめてのまともな山行で、大分疲れたのだろう。それに、今朝
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の中宴会が効いたのかもしれない。

味気なくビールを飲んでいるあいだにも、客はひっきりなし回転している。来る客を見ると、ジモティも多いが観光ガイドを見て来たような若い女性たちもいる。どうやら、このあたりで有名な店らしい。梓のメンバーには、酒抜きの寿司などは想像もつかないのだが、これだけ繁盛しているのならそれなりのことはあるのだ ろう。大分待たされて出された寿司はまあまあだった。ネタは間違いなく新鮮だが、これはあたりまえ。目の前が魚市場なのだから。しかし、ぼくにはシャリが甘くて粉っぽいし、握りが緩い。この値段でこのネタは、東京ではちょっと無理かなというのが救いである。

もう1本ビールを追加すると、さっそくおやじが“出たものは残さないでね”ときた。たしかに、寿司以外にも余計なものがごそごそと出てくる。しまいには、飴を2つ土産に
持って帰れと強制する。よほど、ここのおやじはお節介が好きらしい。ここに至って、あの“温厚な”冨山さんが痛く不機嫌になる。早々に寿司を片付け、席を蹴るように店を出た。車に戻ってひとしきり、この一風変わった寿司屋の感想を述べあった。とにかく、わざわざ塩釜まで来て、とても貴重な体験をしたことは確かである。“今回の山は、順調過ぎて何かあると思ったが、ヤッパリだったね”というのが、久々に梓山行に参加した後藤さんの締め括りであった(後日、今年の夏山、大雪山の準備会で、この寿司屋、じつは因み氏が塩釜出張の祭の行きつけであることが判明。夜なら酒も出ることがわかったが、窮屈そう)。

帰りは、亀ちゃんの運転で雨の高速を飛ばし、午後7時半無事東川口に帰り着いた。その間ラジオで、曙若貴の巴戦で曙が優勝するのを聞いた。まあ、順当というところか。
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