思い出をたどる山旅 八ヶ岳

後藤文明     '90/08/11〜13


メンバー  後藤文明

稲子湯〜みどり池〜本沢温泉〜天狗岳
〜本沢温泉〜硫黄岳〜赤岳鉱泉
〜美濃戸口

 8月12日、八ヶ岳の標高2,150mにある「本沢温泉」の、おせじにも綺麗とはいえない「硫黄1」という洒落っけのない名前の部屋で筆を取っている。
 時刻はまだ午後2時、ガタピシあけた窓から少々の風もはいるが、さきほど入浴したほとぼりがのこり、チビチビやっているウイスキーがまわってきだして暑く、せみしぐれがそれを助長する。
 今日あたりスイスアルプス組はそろそろ行程の終わりにちかづいて、元気に旅を楽しんでいるだろうか、8月9日からの「剣」山行計画は、あいにく冨山さんと橋元さんの都合が悪くなり中止となった。私は職務の関係上、また娘の結婚などもあって、ここ数年メッキリ山行回数がへっているので「剣」は大変楽しみであったのだが…。
 次回の山行はスイスアルプス組の帰朝報告をかね、あらためて総勢で計画を立てようということになった。
 ということで、今回は淋しく一人ののんびり旅ということである。が、体力、気力のおとろえに愕然としている。たった12sの荷に肩は痛いし、思う調子が出ないし、急登では足が上がらない。

 第1日、早朝に混雑のあずさ号で新宿をたち、小淵沢から小海線のディーゼルで松原湖駅へ、さらにバスに乗り継いで稲子湯についたのが正午であった。
 歩き良い道を1時間40分ほどでみどり池。これでバテバテとは一体ドウナッテイルノと言ってみてもはじまらない。真面目に減酒減量と頻繁な山行を実行するしかないのだ!。
ひっそりと静寂なみどり池、小鳥やりすの来る気持のよいシラビソ小屋、眉をあげればなつかしの天狗岳の峰が招く。それではまずはビール!?。小屋の前のテーブルでウォークマンでモーツァルトを聴きつつ、ひとり「山を恋うれば人恋し」とばかり梓の面々を「慕いつつ」夕刻まで水割りを飲る。持参のつまみ類はたっぷり??

 「八ヶ岳」と言えば、ひとむかし前の1981年(昭和56年)1月15日から18日にかけて、「八ヶ岳集中登山」が実施された。
 この回の山行記録は冨山さんの「会報第1号・スキーブームの始まり」に詳しいが、この冬は大雪で国鉄(JR)各線で不通や間引き運転があり、交通途絶による生活被害も多大であった。山の遭難が相次ぎ、谷川マチガ沢東南稜付近の雪崩事故を皮切りに、12月28日からの豪雪のため剣、八方尾根、唐松、白馬、穂高、越後三山で、八ヶ岳ではソフィアヒュッテ付近で女性の遭難死があった。八方尾根では逗子開成高校のパーティの痛ましい全員遭難、栂池での山スキーパーティの15日ぶり
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全員救助などの事故が相次いだ。
 さて、その時の山行では、私は赤岳鉱泉〜硫黄岳〜天狗岳〜中山峠〜みどり池〜ソフィアヒュッテのコースに参加した。前日のうちに入った赤岳鉱泉を午前7時30分に出発した。冨山、鈴木、高橋、大森、中村、私の6名が中山峠からの深雪になやまされつつシラビソ小屋についたのは15時30分頃であった。この日私は体調をくずし、皆に庇ってもらいながらここまで辿り着いたのだが、早い冬の夕暮のせまるみどり池畔の小さな小屋を、そして煙突からでるむらさきいろのけむりを見たときの、安堵の思いを忘れることができない。
 あったかーいホットカルピスを頼み、小屋のおやじにソフィアヒュッテまでと言うと「それはきついなー」という。その時私はほんとうに小屋に泊まりたかったが、「いつかこんな静かな小屋に来てみたいな」と思ったものであった。

 翌朝はシラビソ小屋を午前6時30分発、天気快晴で天狗岳のモルゲンロートがひときわ美しい。本沢温泉まで1時間10分、気持の良い照葉樹林がつづくが、やがて少しの登りで尾根を越え深い栂の森の斜面をくだり、稲子から本沢温泉への林道を辿るとすぐに温泉が在った。
 余分な荷を置き夏沢峠に向う。左手に湯川の谷をへだてて硫黄岳の爆裂跡が凄じくそそり立っている。
 峠まで1時間、今日は日曜日なので下山の人が多い。八ヶ岳は小振りで、小屋が岳
で、交通の便もよいからだろう、中年のおじさんやおばさんグループが多いが、イヤイヤそれが結構元気君たちである。「こんにちは、こんちは、コンチワー、ごくろうさん」挙げ句の果ては「あと10分ですよ、がんばってー」と茶黄色い声を浴びせてくる。
 夏沢峠には本沢温泉グループのやまびこ荘があり、もう1軒のこまくさ荘は閉じていた。蓑冠山、根石岳を経由して天狗岳着11時であった。
 12時30分まで、懐かしき八ッの連峰をながめつつ、山頂の憩を満喫するが、アルプスは遠くけぶってよく見えない。
 帰りは天狗と根石の鞍部から急直下の近道を選ぶ。温泉まで1時間である。季節に温泉で切り開く夏道で、ひどく急な下りが続く。下りがどうして苦手なのかしらと考えながらどすんどすんと下る。「梓には私より少なくとも股下の短いと思われるT氏、Tさん、T君たちがいるが、もっとうまい。それぞれに別の身体的特徴を活用しているのかな」などとぼやきつつ、温泉の真うらにでたのであった。

 今から17年前、1973年(昭和48年)の5月、現在私と職場で経理課長として仕事をしているM君と稲子湯〜本沢〜天狗と辿った事があったが、そのころはみどり池から本沢温泉に辿る道は、無残な伐採跡で池から硫黄岳の全貌が望めるほどで、天狗岳の頂上から見てもみにくい地肌が見える盆地であった。
 今回はさきに述べたように美しい照葉樹
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林になっているが、健全な森林になるのはもっと先のことではないだろうか。自然保護の大切さを感じる一事である。
 あのときは、ピッケルを手にいれたばかりで、雪のある山に行きたくてたまらず、残雪の八ヶ岳に来たのであった。本沢温泉から、先に述べた温泉の裏の道を下って天狗岳を目指したのであった。
 途中の雪の倒木帯を苦労して突破したが、M君のリードが良かったのか単に運が良かったのか、天狗と根石の鞍部にポンとでたものであった。これも懐かしい山行の1ページである。

 また、梓結成の数年前にT氏と真冬の黒百合ヒュッテから天狗岳へ縦走した山行の思い出がある。天候に恵まれ、稜線でのスナップや西天狗岳頂上でのピッケルをかまえての記念撮影などが記憶にあるが、これらの写真がいまだに届かないのである。これは、私としてもときどきしでかす、ちょっとした手違い(それは多分高度障害を遠因とする、写真撮影の現場におけるフィルムの必要性に関する認識の欠如が、直接の引金となって生ずる頭脳的誤謬かと思われる)によるものであるという、楽しい思い出も残っている。

 本沢温泉では新築の風呂に入って山の湯を満喫し、明日の山行の幸多きことを念じながら第2夜を迎えた。

 3日目、午前6時ちょうど本沢温泉をで
る。昨日と同じコースで夏沢峠にむかうが、荷が多くなっているのでゆっくりペースで登る。途中ややはげしい雨にあうが、峠まで1時間ときのうと同じタイムで到着して、ゆっくり小屋で休憩する。
 7時40分、硫黄岳頂上付近が見えてきたのですぐ出発する。まもなく潅木帯をぬけ森林限界に達すると、すかっとガスが切れ、左手に足元の断崖をへだてて硫黄岳の爆裂口がのぞめ、振り向けば東天狗岳と西天狗岳とのかなたに、北八ヶ岳の伸びやかな山なみが雨にぬれて涼しげであった。やっと数日の山行に体も慣れたのか順調に頂上を目指し、正1時間で大きなケルンのある2,742mの頂上に達した。
 眼前につづく連峰は横岳から主峰2,899mの赤岳と、その右手に位置する阿彌陀岳である。強い風を避けて少し下ったところで小休止。はい松の樹液の匂いが懐かしい。
 そのあと赤岩の頭から赤岳鉱泉にむかう。鉱泉のテント場は黄、青、橙など色とりどりのテントで賑やかである。ヤナギランの群落が美しい。
 さらに柳沢北沢経由で美濃戸口到着は12時30分であった。

 9年前の「八ヶ岳集中登山」のときは、この逆コースであったわけだが、厳冬期に赤岳鉱泉からソフィアヒュッテまで9時間30分を費やし、中級山域とはいっても厳しいものであった。
 6時30分の出発まえ私は体調悪く朝食
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後もどしてしまい、つらい山行となった。赤岩の頭の手前で第1回の小休止のあと硫黄の頂上に向かったが、「風は強いもののアイゼンがきいて快調な登高」と冨山さんは書いているが、トップにたって私だけは景色も見えず、いるはずのない人影を右手に見つつ一歩一歩もちあげるのがやっとであった。そのあと仲間の皆に荷を分担してもらったりして、やっとソフィアヒュッテに着いたのは19時であった。あの時のつらさは記憶に焼き付いていて、それからの山行できつい時にふと頭をよぎることがある。

 12、3年まえは「兎」でよく冬の八ヶ岳に来たが、慶応K.A.Vの皆さんにお世話になって冬山登山技術の訓練をしたものであった。
 また横岳の石尊峰を登攀して凍てついたジョウゴ沢を下ったりしたことがあったが、そういえばそのとき、偶然に橋元さんの奥様におあいしたり、帰りの列車でTBS.Bの関根さん、河野さんに逢って皆でソフィアヒュッテにおせわになろうという話になったのであった。
 その少し前のこと、柳沢北沢を遡行して林道終点からいくばくもいかない第1の丸木橋で大事故が発生したことがある。橋元さん、大森さんが重たい荷を背にこの現場にさしかかったが、バランスの抜群によい橋元さんが転倒し頭部を切るという信じ難いことが起こったのである。当時最愛の奥様がヒマラヤトレッキングに出掛け、その寂しさゆえというものも居り、身代わりに怪我を身に受けて奥様を守ったのだと主張するものも居り、議論百出であった。

 今回の八ヶ岳一人旅ではいろいろ考えることもあり、それなりに有意義な3日間ではあったし、またいろいろな思い出をたどる静かな山旅ではあった。だが、一番の結論は「私にとって梓の仲間のいない山行は、気の抜けたビールよりもまだひどい」ということである。一人では、酒も食事も楽しみではなく高揚するものでもない。単に酔うための、腹を満たすためだけのものであった。梓の面々には、なにとぞ今後ともに宜しくお引き回しのほど、すみからすみまで、ずずずいーっと、おん願いたてまーつりまする。
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