大菩薩峠登山レース参加の記

池田 実     '91/08/18


メンバー  池田実

 いつもながら、長距離レースでスタート順が後ろだと格好がつかない。ピストルが鳴っても、しばらくは裏返しになった亀のように空しく手足をばたばたするだけだ。5分もたつ頃、ようやく身体の端々まで血液がめぐり、すみっこに押込まれていた野性が微かに頭をもたげる。

 8月18日無風快晴、早くも気温は30度を越えていそうだ。つづれ折のコースを右に左に曲る度に、僅かな木陰を求めてランナーの列が揺れる。
 周囲の苦しげな息づかいも間遠くなって、心臓の鼓動が全てを圧して響く。足元に広がった自分だけの小さな世界、したたり落ちる汗がアスファルトの路面に小さな点を描く。

 やがて訪れる静謐な時間、苛烈な動中の静。

<ボストン残照>
 夕闇のけはいが支配し始めた街角のバー、きりりと冷えたグラスの底からワィンハードの泡がもったりと、わいては消えてゆく。
 何度目だろう、また通りの信号が変った。
 向いのテラスで談笑する娘らのうなじに、力を失う直前の夕日がキラキラ舞う。光と時が融け合い、ゆっくりと煌めきながら流
れていく。

 梢をならして吹き上げる一瞬の涼風が、ともすればあてどもなく漂い出そうになる心を、アスリートの本能にたち返させる。
 レースも中盤に近付くと、高度も出てきてさすがの暑さも後退してきた。この辺で自分のペースを作っておかないと、あとが苦しい。いつもなら、意志に逆うのは手足なのに、どうしたのだろう、今日は意識がちっとも前に出ようとしない。
 まぁいいさ、こんな事もあるさ。と、ペースを落とす。
 東西から腕のように伸びた2本の尾根に抱かれ、あの盆地が鈍く光る。

<晩夏>
 残り少なになった夏が、最後の情熱を傾けて陽光を注ぎかける黄色い小道、静かに土埃が舞う。
 葡萄畑に踏み入れば、そこは幾重にも重なった葉が作り出す和らいだ空気に満ちた薄明の世界。丹精の房がずっしりと実り、蜂や小さな昆虫が収穫に忙しい。
 年を経た葡萄の木の下、無数の木もれ日を受けて柔らかく浮び上がる君。その細い肩が細かく震えている。
 ただ、声もなく立ちつくすだけの僕・・・
しっとりと薄闇につつまれ、静寂の時が去っていく。
 たおやかな山々に見守られたこの郷の人になって、今、母となる君の幸せを祈ろう、豊穣な大地への賛歌を添えて。
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 16kmレースの残り4km程は本格的な山道だ、狭いので追越す事もままならない。長い単調な登りが尽き、平坦になったかと思うと、パッと視界が開け稜線に飛びだす。そこはもう標高1300m、大菩薩峠のゴールだ。  峠から20分程の山頂近く、豊かに広がるお花畑と、塩山の市街を一望しながらのビールが至福の時を与えてくれる。
 こうして、1時間58分の短く熱い、私の旅は終ったのである。
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