'86 夏山 黒部〜高天ケ原

橋元武雄     '86/08/07〜12


メンバー  冨山 高橋 大森
      中村 橋元 (小鍋)

8月7日
 上野でカメの見送りを受けて夜行で富山に出発。山行用にと酒を差し入れてくれたが、酒は十分過ぎるほど用意してあるから余るはずと、みんなで車中で処分してしまった。

8月8日
 夏山最盛期は、富山から折立まで直通バスがある。便利になったものだ。有峰口でバスにするか、タクシーを手配しておくかなどと心配する必要はなくなった。折立から太郎兵衛平までは、日陰の少ない山道を延々と登る。久しぶりの太郎兵衛平の小屋には、伊藤新道が通行不能と掲示があった。この小屋は、TBS.Bにいた頃、夏山を始めて、まだ2回目の本格的な縦走をしたとき、わが山と植物の師匠であった川田と泊まったし、大森と双六を遡行したときにも通過した。しかしあの頃に比べると小屋の周辺はずいぶん荒れて、高山植物のかげもなく、すっかり裸地になってしまった。川田と来たときの記念写真と今の情景が、とくに自分の頭髪のあたりでだぶってくる。
 太郎兵衛平を下って、薬師沢左股を遡行し幕営地を探す。少し狭いが手頃なサイトがあった。しかし、薬師沢左股にはあまり快適なテン場はない。黒部源流全域が幕営禁止になっているらしいが、薬師沢の小
屋などに泊まるのはまっぴらだ。

8月9日
 カベッケが原を通って黒部本流まで下る。カベッケが原は、荒れ果てて泥炭質の土壌がむき出しになっていた。はじめて川田とここを通った1972年の夏は、湿原の草むらを分けて歩くよう状態で、本当にカベッケ(河童)がでるような雰囲気の場所だった。
 薬師沢出合いから本流を少し遡行し、赤木沢出合いから赤木沢をさらに遡行する。出合いの風景といい、途中の景観といい赤木沢は文句なく美しい沢だ。この沢は、人形師井上君と二人で上の廊下をやったついでに遡行して、途中でビバークして以来だ。あのときは、沢の中で天も焦げるほど盛大に焚火をしたっけ。
 相変らず美しい赤木沢を堪能し、赤木平で大休止。赤木平をトラバースして贅沢に高山植物を踏みしだく。縦走路では考えられないが、道というものがないのだから許してもらおう。薬師沢左股の源流に出て、沢筋を下降してテントに戻る。日帰りのエクスペディションとしては格好のコースだ。
 1日遅れて追いかけて来るチャウをつかまえるため、ぼくは一足先に下りる。なにしろ、一般ルートから奥に入っているから、出迎えなければ絶対会えない。必死の思いで飛ばして登山道まで下りる。やや時間があったので太郎兵衛平から下る道が最初に薬師沢右股に出合うところまで引き返して待つ。大分待っても来ないので、少し
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心配になってきた頃、大きな麦わら帽子がゆらゆらと下りて来る。真っ赤な顔で御機嫌である。話しを聞くと、太郎兵衛平で一人でビールで乾杯し、昼寝をしてきたそうである。コンニャロと思ったが、まあ会えてなにより。

8月10日
 今日は、高天ケ原まで。昨日同様、あまりに荒れ果てたカベッケが原を嘆きながら薬師沢出合い下る。そこで薬師小屋の缶ビールを横目に吊橋を渡って対岸へ。しかし、我慢できずに吊橋を戻り、缶ビールを買ってみんなで乾杯。
 高天ケ原への登りは思ったより急登で、みんな苦しむ。岩苔小谷を少し遡行して幕営。当初目的だった、日本一高所にある高天ケ原の温泉なんてとうに諦めたが、なんとしてもビールが欲しい。高天ケ原の小屋までビールの買い出しに走る。全域幕営禁止なのにビールを買いに来るやつがいると、うさんくさげな目で見られながらも、めげずに大量の缶ビールを買って戻る。しかし、岩苔小谷の水は絶品で、ウイスキーの水割りがまっこと美味。無理してビールを買いに走ることはなかったと感じたほどだ。上流が花崗岩質のためだろう。甲斐駒山麓の白州町、六甲山麓の灘の水がうまいのと同じ理由だ。

8月11日
 今日は、岩苔小谷から雲の平を経て、三俣蓮華へ向かう。昔の雲の平のイメージが
鮮明で、どうもピンとこない。一面に咲き乱れていたはずのイブキジャコウソウが1本も見当たらない。
 雲の平の小屋に、「生ビールあります」の掲示がある。たちまち、小屋の食堂に上がり込み、ジョッキで乾杯。ジョッキといっても、2g入りの市販の容器から、アルバイトが慣れない手付きで注いだものだが、雲の平ではだれもそんなこと気にしない。
 雲の平は、黒部川にぐるーっと取り囲まれている。昨日薬師沢出合いまで下って高天ケ原へ登ったのと逆に、今日は、さらに上流で黒部の河原まで下って三俣へ登り返す。
 三俣の小屋の管理する幕営地に落着いて、使用届けに小屋まででかけると、周囲が騒がしい。数日前に行方不明になったセスナ機がこの近辺で発見されたとかで、上空をヘリが行来していた。
 山上の最後の宴会は、結局酒が不足して小屋までウイスキーを買いにいった。カメは先見の明があったことになる。宴もたけなわのころ、隣のテントの単独行が少し静かにしてくれといってくる。冨山さん、少しも騒がず、「君は酒を飲むか」と声をかける。結局、この単独行は、われらがテントに拉致されて酒を飲まされ、あげくは、酒が飲めなくて山などへ来るななどと説教され、相当に酩酊して自分のテントに帰った。翌朝、縦走にしては相当に朝の遅いわれわれが出発するときにも、彼はテントから出てこなかった。きっと二日酔いだったろう。運の悪い場所にテントを張ったものだ。
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8月12日
 今日は新穂高温泉へ下るだけだ。双六から分岐する小池新道は閉鎖されていたが、登山者を鏡平を通過させる謀略とみて、強引に進む。確かに荒れているがそれほどひどくはない。大ノマ乗越からの岩だらけのいやな急下降はあいかわらずだ。
 もう一下りで車道に出る手前で水量の豊かな広い沢に出る。冷たい沢水で顔を洗ったりして十分休憩し、出発しようとしたとき事件が起きた。冨山さんが、ザックを背負おうとした拍子に腰骨を痛めたのだ。相当悪いらしく、ザックはおろか空身でも十分に歩けなくなってしまった。どうも救援が必要かもしれない。
 そこで、冨山さんのザックをぼくが担いで一足さきにワサビ平に下り、救助隊に連絡することになった。自分のザックの上に冨山さんのザックを載せて、汗だらけになって車道を急いだ。ワサビ平の小屋で事態を説明して、無線で警察に連絡を取ってもらう。一般車は入れないが救急車でも来てくれれば、大分助かる。気分は落着かなかったが、ぼくが引き返すと警察との連絡が取れなくなるので、そのまま小屋に残った。もっともビールはしっかり飲みながら待ったが。
 やきもきしながら待っていると、何と、大森に肩を借り、急こしらえの杖を突きながら冨山さんが歩いてくるではないか。話しを聞くと、最初は本当に歩けなくて、大森が冨山さんを背負っ下りたらしいが、途中から自力で歩けるまで回復してきたという。ほっとすると同時に、小屋番に話した内容がオーバーに思われるのではと多少照れ臭くもあった。丁度そのときにパトカーが着いて、冨山さんと付添いで尚やんが乗っていくことになった。
 残りのメンバーは歩きで新穂高へ向かう。新穂高のバス待合所で、大分回復した冨山さんの話に安心し、河原に湧き出している野天の温泉に入り、汗を流した。
 帰りは松本に出る。駅ビルのレストラン五千尺で打ち上げの夕食。一時はどうなるかと思っただけに、ここで無事宴をはれる喜びはひとしおだった。それに、このレストランからは、松本駅の構内を前景に、遥か遠くに茜色に染まったアルプスが望める。山旅の最後に相応しい光景であった。

追記:86年当時の山行メモをもとに、90年8月現在、相当かすれてきた記憶を頼りに書き直したので、細部は多少あやふやなところもある。ご勘弁を。
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