熟年、山旅を行く

冨 山 八 十 八


 秋の静かな山歩き、ということで選んだ裏巻機だった。「巻機」の名前も山深い陋屋で未通女がハタを織ることを連想さして奥床しいではないか。途中スケッチでもしようと2人ともスケッチブックを用意した。ところがはじめの優しさに相い反して大変な山行となった。「ニューギニア高地人と越後の人間は山を直登しよる」。前を行く後藤さんのビブラムの黄印ばかり見ながら登った「松の廊下」の悪戦苦闘。
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 11月5日 晴 六日町駅9:10=タクシー=永松発電所9:50一調整池10:40一取入口11:50(昼食)12:10発一三合目12:55一下り船13:35一松の廊下一上の滝沢16:00ビバーク。
 この年の秋は晴天続きで暖かかった。4日にめずらしく雨が降り、5日午前4時に家を出たときはまだぬか雨が残っていたものの雲は切れ、半月が空にかかっていた。
 上野発6:30「とき1号」で六日町に向かう。この頃は快晴で車窓から眺められる山々を2人で策定する。トンネルを抜けると一変して新潟県側は雲が多かったが進むほどに晴れてきた。
 六日町で下車。駅に登山カードがぶら下っていたので後藤さんが記入する。傍にたずね人の貼り紙。8月に苗場山から縦走して行方不明の学生のものである。タクシーで永松発電所に向う。
「自分ら、山のなかに住んでいると、タクシーにまで乗ってわざわざ山へ登る人の気持がわからない」運転手が話す。
 道路は狭まり自動車1台が通れる山道となる。左手下に学校の校舎のような建物が現われたが、それが永松発電所だった。発電所にしてはずい分変わった建物だ。9:50歩きだす。右の斜面に銀色に光る導水管が発電所までのびている。この導水管をはさんでジグザグに登る。よく手入された道だ。広葉樹の黄葉が陽をうけて美しい。30分ほどで調整池に着き、ひと休みする。
 池の周りには芝生が植わり、プールの様に端正な長方形の池に枯葉が浮かびわずかに動いている。前方、山峡の彼方になだらかな山が逆光線に煙って見える。巻機山のようだ。
 全く瀞かで、この五十沢の裏巻機の山域にはわれわれ2人きりのほか人はいないようだ。晩秋の静かな山旅にふきわしい山域だと喜び合う。
 池から五十沢の左岸中腹に坦々とした山路が続く。ガイドブックによれば「蜀の山道を想わせる」とあるが、岩をくり抜いて崖淵に道がつけられ、左下はるかに五十沢の流れが岩を噛む。対岸の急斜面を切り込んで沢が落ちている。あたりの紅葉、黄葉を楽しみながら約1時間で取入口に着き、昼食をとる。
 取入口にかかると今までの秋の山旅に酔っていた気分は一ぺんに水をあびせられた。取入口は五十沢の両岸からコンクリートの壁が張り出し、中央部は厚い板をさし込んで水門となっている。右側はせき止められだ水が濃い緑色の水をたたえ、
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左側は20mほど切り落とされた岩だらけの沢底が露呈している。対岸には道らしいものはなく、ただ岩まじりの斜面だけである。
 ルートはこのコンクリートの壁と水門の板の上を伝ってゆくしかない。あまりゾッとしないが綱渡りよろしくコンクリートと板の厚みの上を慎重に渡る。落ちるのならダム側だが、水面まで3mほどあり、ザックの重さでどうなることやら。
 やっとの思いで右岸にたどり着くと、今度はスラブの岩壁を針金に伝って10mばかりのトラバース。それから針金、木の根、岩をつかんで直登することになる。「3合目、展望台」と書かれた標識のところまで45分かかった。ところがガイドタイムではここまで20分となっている。五十沢からここまでの標高は100mは充分にあるだろう。
 対岸に松の生えた急な尾根が望まれる。あれが「松の廊下」らしい。
 展望台から一気に直下降のルートとなり再び五十沢のほとりに着いた。ここは「下り船」とよぱれるところである。
 五十沢を大高捲きしたわけだ。だが沢登りの準備をしていても沢通しには行けないだろう。水が深く、両岸に岩が迫っているから、沢通しでは流れに逆らって泳ぐしかないわけだ。
 取水口から「下り船」までの高巻きがガイドタイムで40分のところ、倍近い75分かかっている。どうやら越後の山はガイドタイムが当てにならないな、と2人で話す。
 五十沢を石をひろって渡ると早速急な直登となる。「尾恨に出るまでの辛抱」と頑張
り、松の木が現れてきて「松の廊下」となる。その名前と尾根筋にでたら傾斜は少し緩やかになるだろう、という期特はまたまた裏切られた。松の根を足がかりとして靴をのせ、両手を使ってグイグイ登り続ける。まるで笛吹川東沢の詰だ。
 「ナンデこんなところに松の廊下なんて名前をつけたんですかね」
 「ニューギニア高地人は山をジグザグでなくまっ直ぐ一直線に登ると本多勝一があきれていますがね、これでは新潟岳連はニューギニア高地人なみですな」
 立ち停ると対岸の稜線が目の高さになる。両岸から急斜面が深い裂目をつくって五十沢の流れがわかる。
 松の木がいつの間にかブナの木に変わっている。太陽は山影にかくれ陽は当たらないが相変わらず両手で木をつかんで登りつづける。先行者の後藤さんの靴底の黄色いマークだけが視野を上下に横切り、それについて行く。喉が渇くが水筒は松の廊下で空にしてしまった。手を使わず両足だけで歩いてみたいと思う。
足元しか見ていない単調な登りのさなかに、突然「水場,キャンプ場」の標識に出くわす。格好な平地もある。ザックをおいて水を求める。しかし湿った地面のみで水はなく、岩影に水滴が間遠に落ちているだけだ。これでは水も飲めず余計に渇きをおぼえ、腹が立つ。
 この場所をあきらめとにかく「上の滝沢」まで行くことにし、再びブナ林のなかの急登が続く。時間は3時を廻り、晩秋の山で
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はぼちぼちビバークサイトを見つけなければならない。それに水場に水がなかったのだからはたして「上の滝沢」で水にありつけるかどうか。次から次へ雑念が重複して横切り、身体は相変わらず手で木の枝をつかみながらひたすら単調な登りを続ける。黙々と1時間ばかりも経っただろうか、左手に沢音が聞こえてきた。
「沢の音が聞こえますね」
「とにかく水はありますね」
 まだ距離はどれほどか判らない。山の中で沢音はよく響く、しかし水があるのは一安心だ。時間からいっても疲れ具合からもビバークをはじめる時期にあった。
 突然、沢音が大きくなりブナの林越しに意外と近いところに水の流れが現われた。スラブ状の岩の上を水が流れ落ちている。曲ったブナの木をのり越し、沢に近づき、先ず水を飲む。
 それから結構な斜面のスラブを滑りながらトラバースする。ザックを置いてツエルトの張れる場所をさがすが、両岸はブナと樺の密生しだ急斜面が沢に落ちこんでいるだけだ。薄暗くなったなかで沢のやや下流に木立が切れた空地を見つける。その向うには六日町の町外れの灯が見える。
 そこは雪崩の通り道らしい。樺の木も笹も全て沢の方へ寝るように曲っている。後藤さんの山刀で熊笹を切ってツエルトを張ったが傾斜地の上である。
 寒さで震えながらタ食の支度をしているうちにすっかり暗くなった。あまり寒いのでツエルトヘ入る。空は見事な星空だ。
 寝ると下は傾斜のうえに熊笹を下に敷いたので身体がずり落ちる。両足で身体をつっ張っていなければならない。風が出てきて上方でゴーゴーと鳴る。しばらく経つとその風が吹き下りてきてツエルトをゆるがす。ツエルトのナイロンが顔にピタピタと当たる。ゴーゴー、ヒュー、ヒュー、ピタピタのくの返しとずり下った身体を戻すことのくり返しで眠れたものではない。
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 11月6目. 6:30起床、ビバーク地の「上ノ滝沢」を8:15発。曲りくねった樺の繁みをやぶこぎして登山路に出た。きのうに続き今日も先行者の靴裏を眺めながらの急登である。八海山、中岳、駒の越後三山が朝の斜光を受けて美しい。路の両側の木がだんだん低くなりやがて熊笹となる。行く手スカイラインを切っているところまで行けば急登は終わるかと近づくとまた向こうにスカイラインが現れる。
 右手に五十沢上流が望まれる。それは見專に長い急斜面のスラブである。緑一色の斜面を切って褐色の岩岩盤が稜線へつき上げている。
 10時、牛ガ岳の稜線へ到着する。一ペんに視界が開け牛ガ岳から割引山への緑のスカイラインの向こうに越後三山、燧、至仏、ひときわ高い会津駒、谷川の山に、苗場と見渡せる。
 風が寒く巻機の避難小屋へ急ぎ、昼食。スケッチなどして時間を喰い、15時のバスを目指して汗だくになりながら急いで清水部落へ下った。〔1977.11.5-6〕
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メンバー 後藤、冨山
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 翌年の夏、米子沢をやった下りにこのコースをとった、後藤、冨山が登ったんだからとみな気楽に巻機の稜線漫歩を楽しんだ後、下るにつれて、急な下りの連続で約束が違うんではないかという風に変わって
きた。「上ノ滝沢」あたりから「本当に登ったのか」と疑う者も出てくる。「松の廊下」では足が滑って悲鳴の連続。そこから対岸のルートを指し「下り船」からの大高捲きを説明すると「嘘だ」と信用されない。頑健なH氏が足を痛めた。全員クタクタで永松発電所へたどり着いた。
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