「釜トン(1)の出口は雪崩の巣だ、慎重に行こうぜ」。地の底からアニイ(2)の声がきこえる。まったく、こいつはひどい穴ぐらだ。真っ暗やみ、凍てついた路面、ヤワな車じゃ気息えんえんという急登、おまけに冬場にはちょくちょくアレが出るというではないか。 沢渡から先は歩きと覚悟はしていたのだが、幸いに車はかなり奥、坂巻温泉のあたりまで入った。この分だと陽の高いうちに木村小屋、と気分も軽く、夜行の疲れもすっかり忘れていたのだ、この釜トンにかかるまでは……。 あえぎながらトンネルを出てみると、上高地の積雪は案じたほどでもない。雪崩の名所も何なく通過できた。先行者の踏み後も1つ、2つ。白一色に閉じこめられた大正池の傍らを、背負子に1斗罐を積みあげた強力(3)が行く。 この年の7月、アニイに連られて丹沢山に登った。「ポリタンは臭くてダメ。冷蔵庫で麦茶を冷すやつがあるだろう。水筒にはあれがいい……」実に気くばりの行きとどいたリーダーではないか、しかしたっぷり2リットルの水も瞬く間、しっかり皮下脂肪を着こんだからだには、真夏の丹沢はいかにもきつかった。そのうえひと月前の豪雨禍で玄倉川沿いの林道はズタズタ、買ったばかりのピッカピッカの山靴は容赦なく目己主張を始める. 惨憺たる「初めての山(4)」であった。 * 暖かくて、かけ値なしの静寂につつまれた |
木村小屋、適度な(5)酔いも手伝ってぐっすり寝た。翌朝は小雪、ピッケル、ワカンの点検も済まして、いよいよ本番。先行パーティの踏み跡を計算にいれる才覚があったわけではないが、何となく、少し遅めに小屋を出た。いやらしいブン屋(6)の視線を背に感じながら梓川を渡る。 歩程約5時間、最後の斜面をワカンで強引に突っ切って、西穂小屋の前に勢いよくとび出した。稜線上とはいえ、小屋全体が丸ごと凍みついた感じ。羽毛服など見たこともなく、碌な防寒具を持たない身には、寒さが随までしみとおる。ゆうべの炬燵がなつかしい。とにかく眠るに如かず。 西穗はこれが二度目。丹沢山の翌月に来ている。秋には慶応の学生にまじって岳沢に入り、南稜から奥穂に引っぱり上げられた(7)。この半年、ただがむしゃらに、勤め先からは「気違い」扱いきれるほど、ムキになって登った。 勢いというものであろうか、ひたすら面白くて仕方がなかった。 * 飛騨側から吹きつける雪まじりの風に、左の目はきかない。指先からは感覚が遠ざかり、鼻には小さなツララ。とはいえ、クラストした雪面に食いこむアイゼンのきしみの、何と心地よいことか。独標を過ぎたところで、注意事項を復唱。ここからが正念場である。 山頂、握手、記念撮影(8)。風はいぜん強く、木綿のヤッケはバリバリ.下りは軽快、昼すぎ一気に小屋にもどる。 |
-1- |
「きょうは大晦日、高山から名古屋に出れば、今年中に帰れるぞ」 「よし、急げ」 あたふたと荷物をまとめ、新穗(9)めがけて駆けおりた。 * ビルの谷間の古ぼけた病院のベッド、仰向けでこいつを書いている(10)。入院、きょうでちょうど3週間。巷ではインフルエンザとrスキー熱」が大流行とか、不幸にして双方ともに無縁。夏にはぜひ気楽な山旅に出かけたいもの……。 あの西穂から、ちょうど10年が過ぎた。 (S.57-2) ◆ (1)釜トンネル上高地側出口に、現在堅牢 なシェルターが築かれているところ。 それまで何度も遭難者が出た。 (2)橋元兄を「オジサン」というのは、緒婚 後、彼のオカミサンが用い始めた呼称。 当時はこう呼ぶのが一般的であった。 (3)この御仁とは木村小屋で同宿した。岡 山県津山市役所勤務、推定24・5歳。 缶の1つにはパンがぎっしり。西穂ピス トン、単独行にこの装備。尋ねると、 こともなげに「わしゃあ、人の世話にな るのきらいじゃけえ」。ゆかしき人物で あった。 |
(4)初めての人を山に案内する場合、一気 に3000メートル級をお勧めしたい。この ときのショック、感激は、その後の山行 の糧となること間違いなし. (5)文字どおりに読んでいただきたい。 まだ「謙虚」が支配していたのだ。 (6)当時、暮れから正月のシーズン、木村 小屋には数社の記者がたむろして(遭 難を待って)いた。駆け出しのやまヤに は、何だか目星をつけられたようで、イ ヤーな気分がしたものである。 (7)南稜のちょっとした壁を前に、私は学生 (KVA田島君)に問うた。目の前にはザ イルが1本ぶら下がっている。「この綱 につかまって登って良いのか」「別に支 障はない。ただしスポーツマンシップに は反する」。この話はそれから数年しつ っこくKVAの語り草となった。 (8)この山行の写真は、ことごとくピンボ ケ、露出不足であった。バカチョンカメラ の電池が凍るなどという知識は、もとよ りあるはずがない。 (9)あわただしいなか、風呂にだけはちゃん と入ってきた。下山路の温泉にこだわ る性癖はこの頃からのものである。 (10)昭和57年1月末、肝臓をわずらって入 院する羽目になった。長女の誕生と重 なったこともあって、「梓」の仲間にはひ とかたならぬお世話になった。この場を 借りて、多謝。 |
-2- |
次の作品へ |
目次へ |