この大らかな峰々へー飯豊連峰縦走

後藤文明     '81/08/29〜09/02


メンバー:大森、冨山、橋元、中村、後藤

 「飯豊」-イイデ-、この個性的な山名の為か私は以前からこの山に惹かれていた。いつかはと焦がれていたが、飯豊は遠い山であつた。
 仲間と訪れることができると決まった時から、いつにない山恋いの想いが湧いてきた、初老の男の憂愁の山旅にはぴったりの豊かで満ちたりた山々である。
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 8月29日(日)、子供逹の夏休みももう終る、雑踏と喧噪にあふれたであろう上野駅も土曜目の午後というのにさすがに人の数も少ない。
 16時06分発の私達の「ばんだい7号」は一路北へ向かった。磐越西線・喜多方着21時15分:北会津の「蔵の町」は盆地特有の夜の蒸し暑さに包まれていた、その時刻にはすでに家々は戸締りをして人々はひっそりとし、駅前の大通りも寂しく、さらに私達の旅情をかきたてた。
 ただ1軒、尻ながの酔客のために燈を消しかねていた店で生ビールにありつき、いささかのつまみで前途に乾杯をする。ほの暗い店の中の安物のテーブルに黒い大きなコオロギが歓迎に跳んで出る、けだるく首を振る扇風機が調理場特有の匂いを運ぶ。天井の低い店内の壁はカレンダーの展示会、なんと13点の名品がずらりと並んでいる、「美尻」-ビデンブ-のおねえちゃんと「段々とかんばんです」の女将の店を出たのは11時を廻っていた。
一夜の夢を喜多方駅の待合室で結んだ私逹は、一番の列車で1つ先の山都へ向う、豊かな稲田のつづく盆地をぬけ小さな峠を越えるこのあたりは桐の木が多い、猛威をふるった15号台風のためか大きな桐が根こそぎ倒されて痛ましい。
 しかし目を転ずれば朝靄を透して「飯豊」の山々が根張りも大きく、山腹には今も残雪をおいた姿で遠く眺められた、それは飯豊本山から大日岳へ続く長大な稜線である。
 山都駅のKIOSKのおばさんの心尽しのお茶を戴き、早々にマイクロバスで川入まで一ノ戸川添いにすすむが、いかにも魚影の濃い感じがする、あとで冨山さんが岩魚を見るのもこの上流である、約50分川入部落の民宿の中をぬけ飯豊鉱泉で車を捨てる。
 さあ、ここから「飯豊」の山旅が始まるのだ。
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 「飯豊」とは遠く望んで豊かに飯を盛るが如しと飯豊山神社々伝に言うとあるが、隆起山塊の峰々が福島、山形、新潟の三県境に悠揚たる拡がりをみせている。しかし「飯豊は遠く重い山」と言われるのは標高こそ最高峰の大日岳が2128m、飯豊本山2105m、私達が取りついた山都口の地蔵山に至っては1485mにすぎないこの2000m級の中級山脈が、主稜線をたどるだけで5万分の1の地図12枚を要し、40キロメートル四方に及ぶ大山塊であることと、その位置する緯度と特有の気象による
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のである。主稜線は花崗岩からなり、ゆるやかに起伏がつづき花と雪田と湿原と池沼が山を飾り、そこから流れ出る谷はあくまで深い、森林限界は低く高山植物が種類も量も極めて豊富である、亜高山帯に針葉樹林がないのも飯豊の特徴であろうか。
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 8月30日(日)飯豊鉱泉から10分程の路傍の叢で軽い朝食をとるが、すでに7時30分、空は碧く陽は高く日差しが強い、行く方にはこれから取付く長坂尾根が見えるが地蔵山とおぼしきところまで一投足の感じで、たとえば丹沢の大倉から塔ノ岳を望むより近いのである。緑はまだ濃いがきすがに秋の気配があり、畑には白い蕎の花が満開で道端にはツリフネソウやハギが咲き、夥しいイナゴが跳んでいる。
1匹のイナゴが私のニッカーホースの膝にとまったが、脚の動きに目でも廻したのか10分もそのままで、沢すじから離れて御沢小屋のところから尾根に取りついてから、やっとどこかへ跳んでいってしまった。
 長坂尾根はさきほど見えたほどは近くはなく、その名の通り長かったが、それでも主稜線へ出るにはあらゆる登山口の内でも最もコースタイムが短い、ところどころに下十五里、中十五里、上十五里、笹平などの名が付けられて気を紛らわすようになっている、これは丹沢の馬鹿尾根と同様である。
 それにしても地蔵山に登りつくまでどれほどの汗を絞ったことであろうか、まあ真
夏の無風の丹沢大倉尾根を重い荷で登るのを想像してみて戴きたい、中村さん持参のオレンジは本当に口に甘く命の水であった。
ところが地蔵山直下で会った男女2人づれの情報で、これから先飯豊本山(行程4.5hr)まで水が無いと言う、誰の水筒も中身はウイスキーまたは酒である、大森さん・橋元さんの2人が桑の沢源頭へ下って、チョロチョロ水を20分程もかかり約2リットル確保した。
 やっとの思いで地蔵小屋のある稜線上の小広いところへとび出したが、小屋は1週間前にシーズンも終わり、夏期以外は解体してしまうので寂しい光景であった。剣ケ峰との鞍部で遅い昼食をとるが、水不足でバン類は喉を通りにくい、中村さんが用意のコーヒーを立てるがイタリア風とかで苦みがあり、山で飲むにはたいへん美味い。
 ここで今日の行程を三国山頂付近で幕営と決めて気が楽になり、周りの風景を見渡す余裕がでてきた。
 西北方向に飯豊本山らしいピークを遠望するが、それよりも目の下を東へ流れている七森沢の深さと、8月の末だというのに、そしてたった1400mの標高に残雪をまだ抱えているのと、豪雪に磨かれた岩のすごさに目を奪われてしまう。山容は他の山域に比較すれぱ、谷川連峰に似ているとも言えよう。
 そこからは剣ケ峰を経て、約1時間ほどやさしい岩稜の縦走路であったが、そよ風
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があるのと、途中で会ったパーティーに三国岳付近に十分な水場があることを教わり、行程もすすんだ。
 水場にも立寄って十分に水と涼を得て三国岳へ着いたのは14時50分であった。私達は三国小屋をのぞいて、その素晴らしい小屋に1泊お世話になることにした。三国小屋は三国岳(1644m)のさして広くない頂上の一画を占め、7月15日から8月25目の間は番人が入るが今は無人である、総2階で収容50人の冬も使用可能な優秀な小屋である。同夜は私逹5名だけの快適で愉快な1夜を過ごすことができた。
 8月31日(月)今日は主稜からはずれた最高峰の大日岳ヘピストンする予定の行程を割愛することにしたが、昨日のうちに踏破できなかった飯豊本山までの所要時間3:40hrを加えて、行動予定時間はガイドブックのコースタイムによれば9:10hrとなっている。
 本土接近中の台風18号の影響はあまりないが、西から東へ高層雲の移動が激しい、稜線でもあまり風は強くなく気温はかなり高いようだ。
 左前方には大きく両翼を広げたような大日岳が、阿賀野川支流の実川の源流を隔てて、真近かに望むことができる。
約1時間、あまりきつくもない登りを続けると種蒔山(1791m)ののびやかな斜面に着いた、はるか前方には切合小屋がみえる、このあたりは残雪も豊冨で飲料水を得るにも問題はない。
そこから高山植物のお花畑が始まってい
た、おなじみのニッコウキスゲをはじめオヤマリンドウ、タカネシオガマ、ヨツバシオガマ、ウメバチソウ、ミヤマアキノキリンソウなどが咲き競っている、山はもう秋であろう、7月下旬か8月上旬であれば花はもっと美くしいだろうが、それでもオヤマリンドウの紫はハッとするほど深みを持っていた。
 またここから遙かに延びる支尾根には好もしくソウシカンバが趣きを添えていだが、それは私の好きな山の風情の1つである。
 さて、これから飯豊本山まで2時間の登りであるが行く方は霧に閉ざされている。このコースは本山2105m峰の三角点の少し下ったところにある飯豊神社へ詣でる表登山道であるが、そこで草履を脱いだという「草履塚」、試練の岩場「御秘所」、やがて社にさしかかると、「御前坂」などの名が残っている。
 このあたりから西の風が激しくなり、北上する私遠の左手から霧雨が吹きつけて展望はまったくきかない、やがて本山まで3分の2程も来たかと思ったところで突然に大つぶの雨がはげしく頬を打ち、私の眼鏡はまったく役立ずとなってしまった。私逹は雨具を身につけ、これからの行程にやや不安も感じつつ先を急いだ、ところがおよそ5分も経たないのに、唐突に頂上小屋の前に出てしまったのであった。私は飯豊山神祉に詣で山旅の安全を願った、小屋は前夜お世話になった三国小屋と同じような作りであり、やはりシーズン中は番の居る小屋であるためきれいで居心地の良きそ
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うな感じである。
 私達は雨やどりと昼食を兼ねて1時間半程も休息したが、私の持参した抹茶で茶を立てたところ大好評で、今後「梓」の標準装備にしょうとの声が出たほどであった。
 ここでは今日の目的地カイラギ小屋から来た単独行の青年にコースの様子を聞くが楽ではなさそうである。
 やがて薄日もさすほど霧もうすらいだが相変わらず展望はない、出発早々に駒形山の草原と露岩のゆるい下りに先頭の私が右に道をそれてしまったが、大事に至らず御西岳への道を急いだ。
 御西岳の小屋は新築で外観はたいへん奇麗であるが、一部窓ガラスが壊れ内部は雨が降り込んで濡れているし、あまり雰囲気は良くない、時刻は14時を回っていだがあと4時間の行程を頑張り、カイラギ小屋まで行くことにした。
 この日の行程が今回の山行の大展望のハイライトの部分であるが、生憎の天候で全くなにも見えない、しかし山道はほぼ山稜の東側につけられているので西風からは守られ、お花畑に咲く高山植物を愛でることはできる。
…タカネマツムシソウ、イワイチョウ、アオノツガザクラ、チングルマ、ミヤマキンポウゲ、モミジカラマツ、シナノキンバイ、ハクサンコザクラ、ムカゴトラノヲ、ヒメウスユキソウ、ウサギギク、タカネナデシコ、イワギキョウ、ハクサンフウロなど。
 驚いたのは私が初夏の花だとばかり思っていたショウジョウバカマやイワカガミな
ども数は少ないが咲いていたことである。
 予定より早く、これも全く突然に霧の中から現われたカイラギ小屋に到着したのは、暮色がたちこみはじめた17時50分であった。
 私達は日地出版のコースタイムを参考にしていたが、比較的にゆったりとした時間が取ってあるようだ。
カイラギ小屋は梅花皮岳-カイラギダケ-と北股岳との間の十文字鞍部に位置し、これも大変気持のよい小屋である、ここも8月26日までは番が居たらしい。
小屋では北大W.Vの青年達5名と一精になったが、彼らは翌日私達と逆コースを辿るとのことであった.
 十文字鞍部は石転ビ沢と飯豊川源流の洗濯沢の乗越しとなっていて風の通り道、夜通し風は悲鳴をあげていた。
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 9月1日(日)この日は湯ノ平温泉までの4:30hrをこなせぱよいのでゆっくりである、前夜遅くまで騒いだのと、青年達が早立ちのため早朝から動きまわるので眠りを防げられ、ぐずぐずしているうちに出立は10時20分となっていた。
あまり良い天気とは言えぬが高曇りりで時々陽もさし、もう1つビークハントを、と北股岳を捲かずに頂へ登ったのが今回の山行のハイライトとなった、ほんの20分程の登りで私逹は2025mの北股岳の頂きに着いたが、その眺望の素晴しきは、筆舌に尽くしがたいものがある。
 前日霧雨の中を辿ってきた東南方向に
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目をやれぱ、湿気を含んだ大気を通して鳥帽子岳を手はじめに御西岳から飯豊本山への稜線が灰色がかった緑色に遙かにのび、真南には大日岳がいくつもの支尾根をしだがえてどっしりと座している。東の足もとを見れば、石転ビ沢からまたその下流のカイラギ沢へとまだ雪を残した長大な谷が続いており、はるかかなたには米沢盆地がかすんでいる。
 一方目を転ずれば、門内岳、地神山から杁差岳-エブリサシダケ-への山波が次第に高度を下げながら北へはてしなく延びている、そのむこうは朝日連峰だ。
 今日の行く方を目で辿ると、西南ヘオオインの逆峰がアッブダウンしながらどこまでもどこまでも続き、更に目をこらせば、その先には豊穣の越後平野がその中程に信濃川を蛇行させながら日本海まで拡がり、そして佐渡が大きく横たわっている。
 頂きには社が祀られ、清潔な山頂には紙くずや空カンもなく、何時までも美しい飯豊であってほしいと思う。
 序々に空も碧さを増してくるが、時折驟雨がやってくるので、心残りではあるが北股岳を下ったのであった。
 さて、その日は特望の温泉湯ノ平小屋までであるが、東京を出て4日めのため疲労もあり、高度が下ると天気の回復に伴い気温が昇り、バテ気味で上越裏巻機、五十沢への下りを彷彿とさせる長い長い下りであった。
 その苦労も湯ノ平温泉に着くやすっとんでしまった。
 飯豊川の深い峡谷に建てられた小屋は、豪雪に堪えられるように鉄骨のドーム形であるがなかなかの風情をもつている、炊事場も屋根掛けで小屋に隣接し、谷の対岸からホースで引いた冷たい水がいつでも出ている。
 温泉はすこし上流の激流にのぞむ岩に穿たれた露天風呂である、湯船に流入する沢の水にうしろの岩壁から湯滝が落ちこみ、ほどよい湯加減である、湯は単純泉でやや熱いがさらりとした肌ざわりで、口に含むとうっすらと塩気がする。
 ゆっくりと肩までつかると4日間の山旅の汗も疲れも流れさってしまった。
 同夜の客は私達5名だけであったが、小屋から出て、谷あいから星のきらめく夜空をながめながら食事をすることにした。つきぬ話題に打ち興じながら、豊富な献立に舌鼓をうったのであった、材料は橋元さんが峰々をずっと担ぎ通してきたもので、料理の内容は実に豪華なものである。野菜と帆立貝の天ぷら、冷奴、ソウメン、茗荷と胡瓜の塩もみ、飲みものはウイスキー、ブランデー、日本酒などなど、山旅の終わりを飾るにふさわしいものであった。
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 9月2日(水)、今日を限りでほんとうに楽しかった飯豊の山旅も終わりを告げる、8時ちょうど温泉発、岩をかむ激流を足下に見ながら飯豊川の右岸を下流に向かって登り下りの多い道を行くが、途中11月になると撤去してしまうという吊り橋を渡る。
 やがて山道も平坦となり約1時間で飯豊
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ダムに達した。
 前日無線で呼んでおいたタクシー2台に分乗して、車の揺れに身を委ね、窓の外を後へ流れ去っていくすすきの穂波を見ながら、一途新発田駅へ向かう。
 山あいの道が舗装道路となり人家がみえてくる、人間の生活の匂いがどんどん入ってくると私は今来し方を振りかえった、飯豊は遠く遙けく去っていく、あの峰は、あの尾根はどのあたりだろう、私は想いの残る飯豊の旅を思い熱いものを禁じ得なかった。
 皆それぞれに思い出の山旅となったことであろう、やや寡黙になっていた
のも疲労のためばかりとも言い切れぬように思えるのであった。
◇新潟駅発11:48、とき14号は上野に3時間30分の遅延、橋元氏は臨時停車した大宮で下車、あとの4名は19:30頃上野駅にて解散。
◇山都駅一川入マイクロバス・1台5800円、稜線の小屋は管理人の居る場合・素泊1000-1500円
湯ノ平小屋は新発田市営・素泊400円
飯豊ダムー新発田駅タクシー・(小型3人乗り)5600円(前日4:50市役所との無線交信時に申し込むこと)
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