Message Boad Memorandum before at 2003/12/31

2001年以前の記事は
こちら

転勤    Kame  2003/12/03 (水)

本日会社より、仙台勤務を拝命しました。

来年2月より単身赴任します。

来年は、東北山行をたくさん企画しましょう!

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齋藤 

私の生まれ故郷。

仙台近辺で,大いに騒ぎましょう。

私は,うれしいが,亀さんしばらく辛い日々か続きますね。

ガンバつてください。

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OJ 

仙台はいいとこらしいね。

出張で仙台へ行って、出張所は廃止になったのに、

そのまま居着いたやつがいたなあ。それにしても、

梓関係で他県へ単身赴任というのははじめてかな。

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putin 

ごくろうさんですね。

仙台は美しい街ですよ。歴史ある文化の程度も高いところです。

舟形山は半日コースで近郊に楽しい山がたくさんあります。

温泉もたくさん。食べ物はうまい米、魚、漬け魚、牡蠣、蒲鉾、

菓子、冷麺(これは発祥の地)みんな洗練されています。

新幹線で2時間、近いところです。

私も娘の聡子が住んでいますので遠いところとは感じません。

東北山行をたくさん企画してください。

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tomi 

それは大変だが、まあ昔と違って時間的に近くなったし、

それほど心配することはないけれど、体調管理に気をつけないと

太るぞ。

これで宿願の早池峰は来年は必ず行こう。

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 omori 

確かに、仙台を中継点にすれば、東北の山もスキーもずいぶん

身近になる。

亀ちゃん、お覚悟召され。

それにしても、いーなぁー。生涯、転勤とは縁がなかっただけに、

ウラヤマシイかぎり。

しかも仙台なんて。そのまま住み着く人が多いらしいよ、あそこは。




還暦雑感    橋元武雄  2003/11/11 (火)


カラオケはストレス解消には絶好だろうが、こればかりはやる気にならない。

理由は周知の如し。歌の唄えないOJとしては、その代わりに漢詩を暗唱する。

還暦のボケ脳にカツを入れるため、ときどき新しい漢詩を憶える。適当な漢

詩の解説本を開いて眺めていると、ときどきすーっと頭に入ってくるやつが

ある。しめたと思って、それを憶えることにしている。最近は次の詩だ。



半夜

回首五十有余年/人間是非一夢中/山房五月黄梅雨/半夜蕭蕭灑虚空



こうべを回らせば五十有余年

人間(じんかん)の是非は一夢のうち

山房五月、黄梅の雨

半夜、蕭々として虚窓に灑(そそ)ぐ



山中の庵(自宅だろう)で夜中に目覚め、闇にぽっかり空いた窓に侘びしげ

な雨が降りそそぐ。そんなとき、ふと人生をふり返っての感慨。人間の是非

は、世上の毀誉褒貶。



誰の作だと思います。何と良寛。彼は平仄や押韻に拘らずに漢詩を作ったと

いう。もちろん、こっちもそんな規則に無縁だ。三句目が、旧暦五月、梅雨

時の梅が黄ばんでくる頃だから、ちょっと季節感がしっくりしない。そこで、

こう替えてみた(失礼、良寛さま)。



山房五月黄梅雨 → 山房初冬落葉雨



これを昨今、散歩のときなど口ずさんでいる。




佐久のそば畑援農隊    橋元武雄  2003/10/20 (月)

遊び半分の援農隊ではあったが、それなりにきっちりお手伝いをしてきまし

た。



農場主の川喜多さん(大森氏の高校の1年先輩。つまり、Ojと同じ年)は、

好人物を絵に描いたような方で、話しているとこちらまでのんびりしそう。



お天気はすばらしく、作業は順調に運びました。



ソバはすでに刈り終えてあり、作業は脱穀。手動で、ソバ束を叩いて実を落

とす組(チャウ)と、脱穀機で脱穀する組(大森、橋元)に分かれる。脱穀

して多くの枝や葉、それに虫も混ざった実を唐箕にかけて(数度)、実だけ

を選別する。玄ソバは、日に干すが、これは水分をとばすだけでなく、膨大

な数の虫(芋虫数種、テントウムシ数種、クモ数種、アリなど)を追い出す

ため。



ははは、厄年エッセイ    橋元武雄  2003/09/02(火)

還暦か厄年か

梅雨の百花園もよかろうと向島へ行ったときに、ついでに白髭神社に参った。

その鳥居に、植物で編んだ大きな輪が括り付けてあり、鳥居を潜ると、自然

にその輪を潜るようになっていた。その傍の説明で、これが茅の輪であり、

この輪をくぐることで、“夏の祓え”ができるということを、はじめて知っ

たのだった。さらに、境内の看板に厄年の表があり、60歳(数えで61歳)

は大厄とあった。へえ、還暦は同時に大厄なのかと、これも始めての知見だ

った。あとで調べると厄年というのはやたらにあって、本厄が3回もある。

そのうち20代と40代の本厄は、意識もせずに過ぎたが、まだ残っていた

んだの思いがした(いまさら何をいっていると、笑われるかもしれないが、

そのあたりとんと疎い)。



そのときは、それで終わったが、その後、続々と厄年現象が起きた。



まず、糠味噌を腐らせてしまった。今年は、30年来使ってきた樽のタガが

朽ちてしまったので、餅つきで開けた酒樽を糠味噌に転用した。多少手抜き

したせいもあったが、だんだん臭いが悪くなって、ついに諦めざるをえなく

なって、仕込み直した。糠味噌を腐らせたのは二回目だ。



つぎに、ラッキョがふやけてしまった。例年、砂付きのまま2週間ほど荒漬

けにして、それから形を整えて本漬けにするのだが、荒漬けの段階でクラゲ

のようになってしまった。梅雨の晴れ間に、少し気温が高めに推移したこと

があった。荒漬けの頃は、その時期と一致する。ラッキョの暑気中りか。ラ

ッキョの失敗ははじめてだ。10キロのラッキョをダメにすると、あとの始

末も大変だし、悔しくてなかなか棄てる気にならない。しかも、今年はラッ

キョが高くていつもの倍もした。



さらに、日除けに毎年植えるニガウリがうどん粉病になってしまった。ニガ

ウリは丈夫な植物で、例年だと、苗の頃、虫にやられないように注意すると、

あとは勝手にすくすくと育って、食べきれないほどの実を着ける。それが、

今年の長梅雨で、日照不足のわりには成長したが、うどん粉病に罹ってしま

った。日がカッと差せば直るだろうと高を括っていたら、あっというまに全

体に広がってしまった。ニガウリの病気もはじめて。



そういえば、茅の輪は何回か潜る作法があるのに、通過しただけだったと思

い出しつつ、ついに決心して今日表でラッキョの始末をしていたら、病院の

庭師のオジイサンが通りかかった。顔を会わせれば一言二言話すのがつねで

ある。どうも今年は付いていない、ラッキョはダメにするは、糠味噌は腐ら

せるは、ニガウリは病気になるは………還暦で大厄だからかなあ、といった

ら、オジイサンは、俺よりも20年以上若いのかとケラケラ笑った。これに

は驚いた、とてもそんな歳には見えない。庭師をしているのだから身体は動

くし、いつも快活で話は機知に富んでいる。このひとを見ていると、「鼓腹

撃壌して曰く。日出て作し、日暮れて休む。井を穿ちて飲み、田を耕して喰

らう。帝力何ぞ我において有らんや」という堯帝の逸話の老人を思い出して

しまう(高校の漢文で習ったよね)。この話自体は皇帝の行政のあり方を論じ

ているのだが、それより市井の老人の生活が彷彿として好ましい。60歳と

いうのは、なにかと鬱陶しいこともあるが、庭師のオジイサンを見ていると、

ま、いっかと思うのだった。




続お盆狂奏曲    後藤文明  2003/08/04 (月)

きのう3日にわたるNPOネイチャースクールの活動を終えて帰宅したのは

午後10時ころであった。長い冷たい梅雨もおわり、蒸し暑い夏の夜気に

辟易しながらもどり、一風呂あびて落ち着いたちゃぶ台のうえに1通のは

がきが載っていた。北海道在住のkさんという女性からのもので、彼女は

わたしの中学時代の同級生である。もちろん結婚して子らにもめぐまれ、

よき夫との幸せな生活を過ごしてきた。



そのKさんが6年ほど前突然にわたしを訪ねてきて、そのころの身辺の様

子をいろいろ話していった。家は新座市だが、老いた母が自分の生まれた

岩手で一人暮らしをしていること、息子が札幌にいて救急医師で最近離婚

をして不自由なひとり暮らしをしていることなどで東京、岩手、札幌と腰

の落ち着かない生活が大変だと話していた。また夫が定年をむかえ北海道

に住みたいと言っているので新座の家は処分することになるがとても不安

であること・・だがなんとなくわたしは彼女の夫との食い違いを訴えるよ

うな響きを感じていた。



その後2回ほど音信があり、彼女の生きがいであった札幌の子息が亡くな

ったことを知った。そしてくだんのはがきには・・・・



   いつ明けるかわからない梅雨期ですが、いかがお過ごし

   でしょうか、お伺い申し上げます。

   五月末梅雨のない北海道からプチ家出をしてきました。

   今は与野駅から二分のロフト付ワンルームアパートで蒸し

   暑い生活をしています。

   一昨年、宇宙旅行にいった息子の墓参りがしたいのと、

   北海道での生活に波長が合わなくなったので、深呼吸を

   しにきました。

   又、北海道で暮らすようになりますが、その後三十年まえに

   入手した所沢聖地霊園で息子と一緒になりましょう.

   時節柄ご自愛ください。



お盆狂想曲    橋元武雄  2003/08/01 (金)

梅雨明けは八月にずれ込んだが、今日は少し日が差した。表の落ち葉が気

になったので掃除をした。めずらしく、うちの前のOさんの垣根の辺りを、

Oさんの奥の家のZさんの奥さんが、掃除している。ざっとならともかく、

時間をかけて丁寧に草を抜いている。隣家とはいえ、なぜよその家の周り

を掃除しているのか、ちょっと不思議だった。こちらも、表の掃除が終わ

って、伸び過ぎたテイカカヅラ、スイカズラなどを剪定する。ニガウリも

少し伸びすぎたところは摘んだ。不順な天候が続いたせいで、ニガウリに

うどん粉病が出ている。はじめてのことだ。それでも、小さい実が沢山着

いていた。あとは、カッと暑くなるのを待つばかり。



最後に、箒やちり取りを片づけていると、その奥さんがうちの近くのゴミ

集積場に雑草を捨てに来た。普段なら会釈するだけだが、何かいいたげに

近寄ってくる。なんでも昨夜、8年前に亡くなったOさんの奥さんの夢を

見た。その夢で、彼女に“お願いしますね”といわれて、“何を?”と聞

こうとしたら目が覚めたという。頼まれることといったら、Oさんの庭に

放置してある奥さんの墓石のことくらいだろうと思い、その周りを掃除し

ていたのだという。



墓が庭に?と思うかも知れないが、実はわけがある。奥さんが亡くなって

しばらくして、Oさんは再婚した。家が先の奥さんの持ちものだったので、

彼は少し離れた町に新居を建てて引っ越し、うちの前のO家には、末の娘

さんが一人残った。姉の方は、すでに嫁いで家を出ている。



一昨年だったか、散歩がてら近所の墓地へ行き、Oさんの奥さんの墓を探し

たことがあった。初七日に墓参したことがあり、おおよその見当はついて

いた。しかし、たいして広くない墓地なのだが、どうしても墓がみつから

なかった。



不思議だとは思ったが、そのまま忘れていた。その後、ある時、Oさんの垣

根の白ツバキが見事に咲いたので、花を眺めていた。ふと、ツバキの根本

を見ると、その奥に墓石が横たえてある。家と垣根の間は、人が一人やっ

と通れるくらいだが、そこに解体された墓が、いくつかの石の塊に還元さ

れて置いてあった。これで、墓が見つからなかった謎は解けた。



しかし、何で墓を取り壊したのか?ここからは、推定になる。奥さんが亡

くなったあと、Oさんの御主人が“女房は、生きているうちに自分で墓を建

てて、さっさと先へ入っちゃった”と話していたことがあった。家も墓も

御主人は関与してなかったのだ。奥さんのご両親は健在というから、再婚

の話が出たときに、実家がお骨を引き取ってしまったのではないだろうか。

そうした墓なら、後妻といっしょに入るわけにもいかず、二人の娘さんは

いずれ嫁いでしまう。要は、墓が要らなくなったわけだ。実態のなくなっ

た墓を廃して、墓石が庭に……となったのではないか。



お盆も近く、時分らしい話か。


あるピアノ演奏会    橋元武雄  2003/07/19 (土)


墨田トリフォニーホール  デヴィッド・ヘルフゴット ピアノ演奏会。



久しぶりにピアノの生の音が聴きたくて、デヴィッド・ヘルフゴットのピ

アノ演奏会へ出かけた。会場は、墨田トリフォニーホール。ここは、ぼく

には、はじめてのホールで、その興味もあった。新日フィルのフランチャ

イズで、かの小澤征爾も年に一度くらいは、ここで振るらしい。どうせな

ら、小澤の新日フィルがいいが、こちらの切符は簡単には入手できそうに

ない。チャウの地元なので、切符を手配してもらって、いっしょに出かけ

た。



このピアニストは、青春の一時期に精神を病んで、しばらく演奏会から離

れ、その後、奇跡の復帰を遂げたとかで、その半生が映画化されて評判を

呼んだという。実は、フジコ・ヘミングではないが、ストーリー性のある

人生を過ごした芸術家は、それだけで、ちょっと不安要因なのだ。そのひ

との演奏が、何によって評価されているのか、よくわからないことがまま

あるから。しかし、いちがいにそうとも限るまいと念じながら出かけた。



ホールは、錦糸町の駅の間近、旧そごうの並びにあり、総武線に平行して

両国の東京江戸博へ通じる(葛飾)北斎通りに面している。北斎通りの歩道

から、その上を通るペデストリアン・デッキに上がって、東武のホテルの

入り口を過ぎると、すぐにホールの玄関があった。ドアを入るとあまり広

くはないホワイエがあって、右側が座席への入口で、すぐにホールに見参

する。大ホールというほどでもないが、まあ大きい方か。われらが席は、

前後、左右、どちらからもほぼ中央。舞台奥のパイプオルガンに張り付い

たダビデの星のような装飾が真正面に見える。天井と壁面はくすんだ白を

基調にしている。左右の壁面には、斜めに舞台へ向かって下降する直線的

な客席が2層(二階と三階)になっている。まさに張り付いたという風情

で、幅は座席一列分しかないようだ。各階の側壁は、焦げ茶色の木質の造

りで、その色の濃さがホール全体の印象を引き締めている。感じは悪くな

いが、いかんせん天井がいかにもチープ(チャウの言)である。観客のざ

わめきから推して、新しいホールにしては残響は長くない。音楽専用とい

うより、多目的を意識しているのかもしれない。客は女性が圧倒的、それ

も若い女性が多いようであった。演奏開始時には、ホールはほぼ満員だっ

た。



プログラムは、ショパン、ファリャ、リストなどの小曲と、リストのハン

ガリー狂詩曲第2番、ベートーヴェンのピアノソナタ第21番「ワルトシュ

タイン」などで、いかにも軽い演奏会という予想はつく。



さて、ピアニストのヘルフゴット氏の登場だ。青緑色の光沢のある、手品

師のような上着をきて、ステージ下手からヒョコヨコと飛び出してきた。

一瞬、回復したのはウソ??という印象。手を振り、小躍りして、まこと

に愛想がよろしい。拍手もそこそこに演奏が始まったが、最初のショパン

のワルツで、うむーーーっつ。これは、なんだ。



とにかく指先はよく動く。というより、一応、プロのピアニストなら、こ

のくらいは当たり前という程度。それにしても、一聴、きらびやかな音の

背後に、何にも見えてこない。ただ、数多くの音が、意味もなく噴出して

くる。指先の器用な子供が弾いているようなものだ(それでは、子供に失

礼か)。はじめは、調子が乗らないのかと斟酌していたが、いつまでたっ

ても同じ調子だ。チャウも、何を聴いても同じに聞こえるという。演奏開

始前に曲順に変更があると、アナウンスがあったが、ワルトシュタインの

替わりにリストの狂詩曲二番があって休憩に入った。これがタダ券なら帰

るところだが、8千円である。それに、ワルトシュタインは嫌いではない

し、根っからピアノの“音”が好きなので、最後まで聴いてみることにし

た。



休憩後も似たようなものだったが、驚いたのは最後のワルトシュタイン。

第一楽章が終わったところで、なぜか拍手が入ると、ピアニスト氏、両手

の親指を立ててガッツポーズし、ぴょこんと立ち上がって愛嬌を振りまき

だした。もちろん盛大な拍手だ。楽章の間で感極まって拍手がくるのはわ

かるが、これはそれとは違うだろう。再開された第二楽章からは、まるで

別の曲が始まるような有様である。アンコールに応えて三曲ほど同じ趣向

の演奏があったが、その都度、盛大な拍手があり、客席通路には花束贈呈

の列ができる。全員女性か子供だ。こちらは、完全に孤立して、ドッチラ

ケである。通路側の席なら、とうに席を立つところを、たまたまど真ん中

であったために、この奇妙な騒ぎにつきあわされる羽目になった。この大

勢の女性達は、何をしに来ているのだろうか。ピアノが聴きたいのか、あ

るいは、演奏はどうあれ、この薄幸のピアニストの人生を応援したいのか。

ぼくには、聴衆のだれよりピアニストが幸福にみえた。



日本は、世界でも有数の聴衆のレベルが高い国だそうだ。


二岐温泉とホツマ文字    鈴木善三  2003/04/12(土)


ありし日の二岐温泉

 本を読んでいたら面白い記述を見つけた。その一部を書き写しました。

昔二岐山に行ったときに知っていたらと残念に思います。

 それにしてもちょっと不思議だ?後藤さんどう思われますか?



 因に文中『??????』とあるのは、ホツマ文字(古代文字?)で

『ほつまつたゑ』と読む。意味は忘れた(ごめん)



 二岐温泉へ

 平成7年の秋のよく晴れた朝、私は東北自動車道を盛岡から南にむかっ

て走っていた。行く先は福島県の山中にある二岐温泉である。この温泉を

訪れたいという思いは、ここ数年来私の脳裏から離れなかった。

 東京のホツマ研究会の仲間の1人からこんな話を聞いていた。

「たまたまこの福島県の山奥にある二岐温泉に何度か湯治に行っているう

ちに、その旅館の主人と親しくなり、こんなことを聞いた。



 今から20年ほど前、この宿の御主人はSさんというが、新しく旅館を

建てようとして古い家を取り壊したところ、この旧家には“開かずの間”

というまったく入口のない部屋があって、この中から大量のホツマ文字で

書かれた古文書が出てきた。この文書は、現在宮内庁に運ばれて保管され

ており、そのマイクロフィルムが富士銀行の地下金庫に預けられていて、

宮内庁とSさんの双方で持っている鍵がなければ開けられないという」、ざ

っとこんな話であった。この話の真偽については私も判断できず、是非自

分の耳で確かめたいという思いを抱き続けていた。



 10年近く掛りきりになっていた私本『ほつまつたゑ』もようやく上梓で

き、かねて思いの中にあった福島への旅に出かけたのだった。予約もとら

ず、いきなりの訪れで、はたしてそのSさんにお会いできるのか、将又お話

を聞けるのか一抹の不安もあったが、お天気もよいし、もともと自動車旅

行が好きな私は旅を楽しめばいいんだというつもりで車を走らせた。

 地図をたよりの旅行で、福島県に入り、須賀川ICで下りればよいものを、

次の矢吹ICの方が近いと思ってここで下り、近道を行ったところ、これが

ひどい道で、車が一台やっと通れるだけの狭い山道で、ようやくの思いで

山を越え、下りた所が羽鳥湖という人造湖で青少年旅行村キャンプ場、ス

キー場などリクリエーション施設があった。この湖を一廻りして国道118号

線を西に向かい、羽鳥湖から10粁程で二岐温泉への入口に到達した。こ

こからさらに南側の山道を約5粁、二岐川の渓谷に沿って登ると、昔は平

家の落人の隠れ里という、渓谷の崖にへばりついたような形で息ずいてい

る山の秘湯、二岐温泉があった。

 東京の友人に旅館の名前を聞いたがわからず、温泉の一番奥の突きあた

りの旅館ということだったので温泉の一番奥の旅館に入ったところ、玄関

内の壁に「高松宮殿下御宿泊所」の木の看板立て掛けられていた。玄関に

いたこの宿の息子らしい若者に尋ねたら、ここではないらしい。Sさんとい

う名をいったらSさんという旅館は2軒あるという。秘湯の会をやっている

方の旅館というと、それはA荘です、といい、温泉の一番手前にある旅館だ

と教えてくれた。来た方向に戻ると温泉の入口にたしかに看板があった。

そこの急坂を左に渓谷を降りた途中に、崖に鼻先をこするようにして旅館

の玄関があった。

 玄関に出てきた仲居さんに「ご主人はいらっしゃいますか」とたずねる

と、いまは他出で、夜でないと帰らないという。それで「20年ほど前に

古文書が発見されたというのはこちらでしょうか」と尋ねたら中年のその

中居さんは、私ではなんともいえないという。その口ぶりからこの旅館で

あることは間違いないと思った。しかしご主人が間違いなく今日帰ってく

るのか、話が聞けるのかもわからない。部屋が空いているかときくと、今

一杯で一番高い部屋が一つ空いているとのこと。話が聞けるなら2泊くら

いしてもよいと思って、それくらいの用意はしてきたが、これでは1泊し

かできない。一瞬迷ったがここまできて帰るわけにもゆかず、泊まること

に決めた。

 時間はまだ2時を過ぎたばかりで夕方までだいぶ時間があり、紅葉の美

しい渓谷を流れる川辺の露天風呂にひたったり、旅館の内風呂に入ったり、

折角高い部屋に泊まったんだからと部屋付きの岩風呂に少々肌寒かったが

わざわざお湯を入れてはいったり、短い時間に3度も温泉の湯につかった。

 夕刻になって食事の案内にきた若い女中さんが、主人が食事のあとにお

会いするそうですと伝えてくれた。ようやく一安心したが、今度はどんな

話がきけるかという思いに胸がふくらんで食事もそぞろに終え、フロント

にいったところ、ご主人の方がまだ食事が済んでおらず、8時に来てほし

いという。

 これはお話を聞いてわかったことだが、私はご主人をだいぶ年配の七十

近い方と思っていた。しかしお会いしたご主人は、五十年配の小柄で品の

あるやさしそうな感じの方であった。以下はA荘のご主人Sさんからお聞き

した話をまとめたものである。



 「私は当家の四男で、当時旅館をやっていたのは長男でした。あれが発

見されたのは、私がアメリカ留学から帰って来たのが昭和44年ですから、

その2年前、42年だと思います。

 S家がどんな家かについては、そんなに古いことはわからないのです。し

かし木地挽きとしての歴史はわりあいはっきりしています。約千三百年前

近江の国から木地挽きとしてこの地に移ってきました。その頃の墓もあり

ます。

 あれが発見された家は何時建てたのか、はっきりしませんが、鎌倉時代

のことと思われます。近隣の人々が総出で二岐山に生えていたアスナロを

伐って建てたもので、柱の太さも30センチくらいありました。この天栄

村周辺の土地は戦前まで全部うちのものだったのです。戦後の土地開放で

これらの財産は無くなり、国債だけがトランク一杯にあるのを見ましたが、

現金収入はほとんどありませんでした。しかし、父は私達兄弟全部を最高

学府までやらせました。一体どこにそんな金があるのか、父にきいたこと

があるのですが、話してはくれませんでした。その外のことでも不思議な

家だなと思っていました。

 あの家は国の文化財の指定になっていたのですが、家の背後の崖が崩れ、

後ろの建物が壊れてしまったのです。それで修理するかどうか検討したら、

修理するには当時で三千万円もかかるということで、文化財の仮指定を解

き、取り壊すことに決まりました。

 解体のときには、宮内庁や文化庁の係官が立ち会っていました。この家

の三階には“開かずの間”というのがあることは、前から知られていて、

これまでにも某工業大学でファイバースコープを使って中を調べようとし

たことがあるんです。ところが、この部屋は厚さが10センチもある部厚

い板に溝を刻って組み合わせてあり、建物を壊さないかぎり中を見ること

はできませんでした。

 この建物の取り壊しには、この近隣の人たちが大勢かり出されていたの

ですが、解体が始まり茅葺きの屋根が取り払われ、この部屋の中のものを

見た途端、宮内庁の係官から工事中止が申し渡されたのです。これから先

は宮内庁直属の者で工事をやるということで、地元の人たちはこの解体工

事から外されてしまいました。

 なお、この作業には京都大学で主に古文書を研究している某教授や奈良

女子大学の考古学専門の某教授なども参加していました。

 この開かずの間から出てきた文書は漆塗りの大きな櫃に47個もあり、

雨漏りのため3個は腐っていましたが、中は大丈夫でした。この中の文書

はほとんど桐のうすい柾板のようなものに書かれていました。文字は間違

いなくホツマ文字です。一部漢字で書かれたもの、紙に書かれたものもあ

りましたが、紙はボロボロでした。家は一切釘を使わず、屋根は科の木の

皮をなめして作った科綱で組まれており、これは本当に丈夫なもので、ま

ったく痛んでいませんでした。あるいはこの木の皮をなめして板状にした

ものに字を書いたのかもしれません。

 この発見された文書は宮内庁に運び込まれたのです。そのマイクロフィ

ルムが撮られて富士銀行の地下金庫に保管されているのですが、この金庫

は宮内庁と私の方で持っている二つの鍵がなければ開けることができませ

ん。銀行に保管されて以来、まだ一度も私は見ておりません。マイクロフ

ィルムの長さは4000メートルあります。実は私の兄もこの文書と一緒

に宮内庁に入ってしまったのです。兄に尋ねても、お前は関係ないんだか

らといって詳しいことは何も話してくれません。また、担当の元東大教授

の式部官某氏も、いずれ時が来たら発表するからといって教えてくれません。

 この建物が取り壊された後は、旅館をやめるつもりだったのですが、私

が引き継いでやることになりました。取り壊しの後、高松の宮殿下が訪ね

てこられ、「A荘」という今の名も殿下の命名です。

 建物に使った大きな木の矢羽根にはホツマ文字が書かれてありました。

また漢字で年号が入っていて、それは約480年前のものでしたが、これ

は修理のとき書いたと思われますので、最初建てられたのはもっと古いと

思います。」



 夜8時から11時頃まで3時間近くにわたって、いろいろとお話をお伺い

できたのは望外の幸せであり、想像していたよりずっと重大なその内容に

はただ驚くばかりであった。

 平家の落人が隠れ住んでいたとも伝えられていたこの二岐地区では、人

目につきやすい祭の幟や煙の出る狼煙、時を告げる鶏の飼育は禁じられて

いて、今でも二岐地区には祭がないという。二岐温泉から、さらに四粁ほ

ど登った二岐山の中腹に巨大な戦陣用の鍋が祀られている御鍋神社がある。

この神社は平将門の乱の折、その残党が戦いに敗れてこの地に逃れきて、

再起を図ってこの鍋を祀ったといわれている。平将門とSさんのご先祖、そ

してホツマ文書を直接結びつけるような史実は見当たらない。しかし、平

将門の一門が、この地に逃れ隠れたのは事実と思われるので、これにはSさ

んのご先祖の手引きがあってのことと考えられる。

  現在、二岐温泉には7軒の旅館があり、その他には民芸品店と食料品

店の2軒があるだけで全部で9軒、住民数十人の静かな山奥の集落である。

 平安時代には、すでに温泉が湧いていたと伝えられ、その歴史は長い。

古くは「二俣」と記され、徳川時代から明治時代にかけては「二股」、そ

して現在は「二岐」と記されている。「二岐」の名は、上の写真でご覧の

通り二岐山に由来するとおもわれるが、ここは白河の方から来る古道が会

津若松の方に往く道と二岐山の方に登っていく道とに別れているので二股

といわれたのかもしれない。すでに徳川時代に発行された、二岐山は、わ

が国最初の山岳本『日本名山図会』に、全国90の名山の一つとして載せ

られている。

 徳川時代から旅館を営んでいたのは、S家の営むA宿ただ一軒だけであっ

た。この建物の3階の屋根裏部屋に例の大量のホツマ文書が隠され、六百

年もの間眠っていたのである。それが発見されたのが昭和42年、松本善

之助氏が『??????』を発見されたのが昭和41年と、ほぼ時を同じ

くして世に現われたということに、何かしら不思議な因縁が感じられる。

これは、真実、世紀の大発見であり、世界的な大発見なのである。私には

21世紀へ向けての大いなるものの配慮と思われて仕方がない。

 いずれ宮内庁の公開があるものと思う。そうなれば日本の歴史は明々白

々となるだろう。しかしそれにはもう暫く時間がかかりそうである。

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[ホツマ文字]という言葉を始めて聴きました。



雨の二岐山にのぼり、二岐温泉に泊まったのはいつのことだったか。

善さんの「羽鳥湖周辺は一大歓楽街ですよ」の発言は語り草。翌日は会津

若松へ出てそばを食って帰った。

文中A荘とは「大丸あすなろ荘・長男さんの名前はたぶん佐藤利右衛門さ

ん」高級宿であるから、われわれが泊まった宿ではない。すこしインター

ネットなどでみたら・・・



*ホツマ文字 表音文字の一種。神代文字の一つとして、わが国で、漢字

渡来以前に行われたと称するが証拠はない。

                 国語大辞典(新装版)小学館 1988



* ホツマ(秀真) 神代文字のひとつ、落合直澄の認めたもので、

イロハ・・の順に配列した48の表音文字         広辞苑

 ホツマ文字

* ほつまつたえ ホツマ(ヲシテ文献)日本の漢字以前に使用されていた、

ヲシテ(ホツマ文字)によって編纂されている文献。1966年に松本 善之助

によって発見された。現在『ホツマツタエ』、『ミカサフミ』、『フトマニ』

の三文献の発見がなされている。  これ以外の神代文字の類は、近世から

現代にかけてつくられたものである。このためヲシテ文献と、その他の神代

文字の類とは厳密な区別が必要となる。



* 松本善之助(まつもと・よしのすけ=ホツマ研究家)

この人、奇しくも平成15年4月7日、心不全のため死去、83歳。

                      後藤記


夜桜能    橋元武雄さん  2003/04/10(木)


  去年の夜桜能(弱法師 梅若六郎)

毎年この時期、靖国神社で夜桜能が三晩続けてある。神への奉納(だった

ら無料で開放しろといいたいが1万円前後の席料を取る)と称して、火入

れの神事で始まるいわゆる薪能である。今年は、この7〜9日で、その中

日8日の番組を見に行った。



去年は、今頃はもう葉っぱばかりで、夜桜は名ばかりだった。今年はの桜

はまだまだ楽しめる。期待していたのだが、朝から暴風雨。これは、らく

だ坂花見に続いてついていない。 

しかし、主催者の開催条件は、「当日東京地方午後 6 時から翌午前 0 時

までの1ミリ以上の降水確率が 51 %以上の場合日比谷公会堂へ変更」と

なっている。窓の外は、雨混じりの強風が吹き荒れているというのに、予

報の降水確率はいつになっても 50% である。当然、問い合わせの電話が

殺到しているとみえて、開催事務局の電話は何度かけても話し中だ。 

なにせ痛風の足を引きづってだから余計な行程は避けたいが、どちらでも

対応できるように雨具を用意して早めに家を出た。だが、九段下の駅につ

いても、会場変更の掲示はない。地下鉄を出ですぐのビルの前で、激しい

突風に見舞われ雨傘の骨が2本も折れてしまう。これでやるのかよ!、と

半信半疑で、九段坂を上がっていった。左足は踏みしめられないので、普

通のひとの半分くらいのペースだから、九段坂は長い。しかし途中から引

き返してくるらしいきひとがほとんどいない。へえ、やるんだと思いなが

ら神門(日本一というどでかい鳥居の奥の、どでかい庇をもつ門)が見え

るところまで近づくと、やはり人混みができている。会場はその奥の右側

にある。

主催者がいいわけがましく、意味もないアナウンスをしている。確かに開

催条件は満たしているのだが、実際に吹き荒れているこの天気を押して屋

外で強行するというのは、いかにも非常識だ。開催条件が、こうした状況

を想定していたとは思えない。しかし、どうしてもここでやるというのな

ら、こっちも山屋のなれの果てだと、腹をくくって雨具を身につけた。会

場で雨具も売っているらしいが、膝までくらいしかない半透明のやつだ。

この風雨ではひとたまりもなかろう。日比谷へ行ってしまった人も多いら

しく、その到着を待つために開場は大分遅れた。 

待たされついでに、神門から少し九段よりに戻ったところにあるトイレへ

いって用を足した。トイレを出ると、ほんのわずかのあいだに、天気が急

変した。もう雨が止んでいる。それに空を見上げると、せわしげに流れる

雲を透かして月が見える。天気図では、寒冷前線が通過すれば確かに急速

に天気は回復するはずだが、夜桜能開演に合わせて、これほど劇的に回復

するとは期待しなかった。ましてや、主催者の判断が的確だったとはまっ

たく思えない。これは望外の仕合わせである。 



実は薪能などというのは邪道だと思っている。能というのは、何度観ても

おおむね退屈なもので、同じ金を払うなら、クラシックでも聴いたほうが

よぼどすんなり感動するのだが。自分でも不思議なことに能が観たくなる。

1時間前後も眠気と格闘して、そのなかにじわーっと、ああ良いなあ、と

思える一瞬があれば幸運だ、といったたぐいの芸能である。薪能は、能の

本質的な部分より、薪の明かりで観る能という幻想的なイメージが先行し

ているように思う。メインディッシュはまずいがデザートと雰囲気で人気

のあるレストランのようなものだ。 



だが、この夜桜能だけは抗しがたい魅力があって、毎年観ている。陽光に

照らされた桜と違って、仰ぐように照明された桜が暗い空を背景に浮かび

上がる情景はひとしお妖艶である。靖国神社の能舞台は、そんな桜林のど

真ん中にあるのだ。まして、今年は桜の状態がいつになく良かったから期

待もなおさらだった。しかし、この荒天で、しかも、この急転の回復であ

る。期待と失望の波に翻弄され、ギリギリで良い目が出た。 



その夜の番組は、舞囃し『巻絹』、狂言『清水』、能『清経』の3番。狂

言のシテは野村萬、能のシテは梅若六郎。現在の能狂言界でこれ以上の配

役は望めない。野村萬の諧謔は、熟成しきって透明度さえ感じさせる。梅

若六郎の身体は、これ以外ありようもない確度で舞台に軌跡を描き、面の

中から響くその声は、朗々として空間を支配する。時折の風で、桜吹雪に

浮かぶ能舞台の趣は、いくら否定的な理屈をつけても感動的であった。


四十雀営巣  亀村 通さん  2003/04/09(水)


我が家の庭に面した雨戸の戸袋の上に巣箱を置いたのはもう2〜3年前の

事だけど、ホントに野鳥が巣篭もるとは思いもしなかった。

先週のある日母親が発見したのだが、すずめより小さなグレイの小鳥がひ

としきり囀ると、件の巣箱からこれに応じる声がすると言う。確かに日曜

日の夕方、そのかわいい鳥が庭のラティスの縁から巣箱に向かってピーピ

ーと啼いているのを僕も見た。恐らく巣箱の中で卵を抱いている新妻に声

をかけているところなのだろう。まだヒナの鳴き声は聞こえない。早速写

真を撮り、インターネットで調べたら、四十雀(シジュウカラ)であった。

人家や巣箱にもしばしば営巣すると言う。ヒナが孵り、育って、巣立ちす

るのが楽しみだ。

ところで、僕の寝室はこの巣箱のすぐそばにあるので今日も昨日も、夜明

けとともにラティスの端からピーピーと呼びかける新郎の声におこされた。

ここのところただでさえ仕事のストレスで眠りが浅いのに、これからしば

らく、さらに安眠を妨害されそうだ。まぁいいか。


実 盛 (OJ)2003/03/24 (月)


いつだか芭蕉のことを書いた。そのとき、実盛を詠んだ“むざんやな兜の

下のきりぎりす”の句に触れた。最近、実盛について、また新しいことを

知ったので書いてみる。もちろん、古典に造詣の深い諸氏には、周知の事

実かもしれないが。



先ほどの掲示にも出したが、昨日、亡くなった友人を偲んで、元の会社の

同僚2人と吉野の梅郷を訪ねた。この梅郷には、彼の企画で何度か来たこ

とがある。酒好きで自然を好んだ彼には、墓参よりふさわしかろうと、去

年からここで観梅の宴をはることにしている。今回、仲間のリーダー格だ

ったN氏が、一本の梅の木の下のベンチを祭壇と見立てて、故人の大好物

のビールを供え、平家物語の一部を朗読した。「真盛」と「惟盛入水」で

ある。前者が能『実盛』などの鬢洗い物語の原典になる。



これには伏線がある。去年の観梅のおり、彼の友人が亡くなる直前、電話

のなかで涙ながらに、かってはそのほとんどを暗唱していたという平家物

語を語ってくれたと、話をしたのだ。そのときN氏は、自身も平家物語に

造詣が深く、いったいどの個所を読んだのかとしきりに気にしていた。能

には、平家物といわれるジャンルがあるほど、平家物語からテーマを取っ

た曲が多いので主立った武者公達の名前は聞き覚えがあっても、恥ずかし

ながら、平家物語は教科書以外では知らず、答えられなかった。



そこでN氏は、やむなく自身の推定で、上記二個所を朗読し、手向けたの

であった。その朗読のおり、「樋口次郎一目見て、“あなむざんや、斎藤

別当で候けり”」という一節が耳に残った。そうか、芭蕉はこの部分を踏

まえてあの句を詠んだのだなあと。日本の古典は、意味に厚みを与えるた

めに、引用がひとつの手法として確立している。例え、引用に気づかなく

ても、表面的な意味は理解できるが、知っているとさらに作品の世界が広

がった気がする。



今日、最近買った岩波文庫の『平家物語』をくって該当個所を読んだり、

Webで実盛を調べていたところ、こんな記述があった。芭蕉のあの句は、最

初は“あなむざんやな…………”と破格だったが、あとになって自身で“

あな”を取ったという。(注)このことの真偽のほどは知らない。しかし、

これでまたひとつ、あの句と能『実盛』が、面白くなったことは間違いな

い。

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(注)http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/sakuhin22.htm から・・



実盛の運命



1)あなむざんやな



「あなむざんやな冑の下のきりぎりす」、芭蕉の句であります。芭蕉が

石川県小松市の多太神社で斎藤実盛のものと伝えられる冑を見て詠んだ

ものです。後に芭蕉は初句の「あな」を省いてしまいました。今の我々

のよく知っているのはそちらの方です。これは調子を整えて改作された

ものより、最初のままの「あなむざんやな・・・」の方が無限によろし

い。



どうして芭蕉は「あな」を省いてしまったのでしょうか。「あなむざん

やな」、この部分は字余りで五七五が破綻していますが、これは実は謡

曲「実盛」の一節「樋口参りてただ一目見て、涙をはらはらと流いて、

あなむざんやな、斎藤別当実盛にて候ひけるぞや」から取ったものだそ

うです。謡曲からの拝借なのが見え見えなので芭蕉は「あな」を省いた

としか思えません。「あなむざんやな・・・」には語調が崩れたところ

に「人生の無常への慟哭」が聞こえてくるようで、捨て難い味わいがあ

ると思います。



寿永2年(1183)、斎藤実盛は、木曾(源)義仲と平家との戦いで

平家方について戦い、加賀の国江沼郡篠原の地で討ち死にしました。こ

の時代は戦いに臨んで名乗りをするのが習いでしたが、実盛は「存ずる

旨ありければ」と名乗りをせずに奮戦したといいます。「木曾殿は御覧

じ知るべし」、首はだいじにお目にかけよと、独り武者のままで戦い、

身を投げ出すように木曾方の勇士手塚太郎光盛と組み打ち、討死しまし

た。



義仲はその首を見て実盛の首であると直感します。しかしそれならば白

髪首のはずであるのに、鬢髪は黒く、髭も黒い。首実検に呼ばれた樋口

次郎兼光は首を見るなり「あなむざんやな」とうめきました。「老い故

によき敵と思われないのは悔しい、最後の戦いでは鬢も髭も黒く染めて

出陣したい」と実盛が言っていたことを樋口はよく覚えていたのでした。



このように実盛が平家方でありながら、木曾義仲に心を寄せこの戦いを

最後と覚悟していたのには訳がありました。ひとつには坂東武者であり

ながら平家に仕えなければならなかった時代のわが身の不運を嘆く気持

ちです。もうひとつは平家追討の名乗りをあげた木曾義仲にならば、勝

ち戦をさせてやりたいという気持ちです。実は、義仲の父義賢が同じ源

氏の甥義平(頼朝の兄)に殺された時(久寿2年:1155)に、まだ

2歳であった幼い義仲をかくまって、木曾の中原兼遠(義仲の養父となる)

に送り届けたのが実盛でありました。義仲は実盛の首を前にして、自分

に今があるのはみな実盛のはからいによるもので、実盛は自分の「七箇

日の養父」でもあったと言ってさまざめと泣き、その首を手厚く供養す

ることを命じたといいます。



2)実盛の無念



実盛は最後の戦いに臨み、老武者とあなどられぬように白髪を黒く染め

て出陣しました。この話は「平家物語」によって人々によく知られてい

ました。今でも田舎へ行きますと、稲に害虫がつくのは悪霊の仕業と考

えて、虫をとらえ田のあぜ道を通って村の外へ送り出す「虫送り」とい

う行事を伝えているところがあります。地域によってはこれを「実盛祭」

と呼ぶそうです。その起源は、最後の戦いで実盛は稲の切り株に足をと

られて転び、そのために手塚太郎に討たれた、その怨みから虫が出て稲

を害するのだという怨霊信仰から来ています。人々は実盛の非業の最期

に涙し、その無念を想ったのでしょう。



世阿弥作の謡曲「実盛」では、実盛の霊がその執心を捨てきれずにこの

世に現れます。実盛の霊は僧に向って往生できない苦しみを語ります。

「その妄執の修羅の道、巡り巡りてまたここに、木曾と組まんとたくみ

しを、手塚めに隔たられし、無念は今にあり。」つまり、最後は木曾の

大将義仲と闘おうとしたのに下っ端の手塚太郎に邪魔されて討たれてし

まった、その悔しさに死ぬに死ねない、というのです。



実盛の霊は最後の戦いの様子をありありと語ります。そして「終に首を

ば掻き落とされて、篠原の土となって、影も形も亡き後の、影も形も南

無阿弥陀仏、弔いて賜び給へ、跡弔いて賜び給へ」で、実盛の霊は消え

去るのでした。



3)歌舞伎での実盛



歌舞伎の「源平布引滝」の三段目切「九郎助住居の場」(通称:「実盛

物語」)も同じく、この実盛の討ち死の話をもとに創られています。幕

切れ近くで、「母(小万)の敵」と言って迫る太郎吉(後の手塚太郎)

を実盛は「オオ、出かる出かす、成人して母の仇、顔見覚えて恨みを晴

らせ。」と軽くいなして、後日に手塚太郎に討たれることを誓います。

横にいた九郎助が「もうし実盛さま、孫めがおおきゅうなる時は、おま

えさまには顔に皺、髪は白髪でその顔変わる」と言いますと、



「ムウなるほど、その時は実盛が鬢髪を黒に染め、若やいで勝負をとげ

ん、坂東声の首とらば、池の溜まりで洗うて見よ、いくさの場所は北国

篠原、加賀の国にて見参見参。」



謡曲の実盛は手塚太郎に討たれたことを悔いて往生できないのですが、

歌舞伎の設定は逆で、実盛は28年後に太郎に再会し、討たれることでそ

の約束を果たすのです。この場で実盛は自らの死の有様を予言するわけ

ですが、ここでは謡曲と違って陰惨な感じがまったくしません。自らの

「鬢髪を黒に染め、若やいで」勝負しようという所などには、壮年の男

の色気さえ感じさせます。実盛のその潔さに、どこかさわやかな感動を

感じさせます。



むしろ私が気になるのは太郎吉の方です。瀬尾は平家方の悪役として登

場しますが、太郎吉が自分の孫であることを知った瀬尾は、孫の手でわ

ざと討たれることで太郎吉に功をたてさせて死にます。これで太郎吉は

葵の上に義仲(と言っても生まれたばかりだが)の家来になることを許

されるわけですが、すぐさま太郎吉は実盛に仇を討つと宣言するわけで

す。この子供は単純一途で、自分の祖父を殺しておいて何の感慨も示さ

ず、今度は実盛の首を取ろうと言う。どうも血に飢えているだけみたい

で、太郎吉が実盛に迫る場面だけは私はいつ見ても気持ち良くありませ

ん。



まあ子役の演技だからあんまり気にすることもないでしょうが、私はこ

の箇所だけにチラリと陰惨な影を見るのです。しかし、実盛は懐紙を出

して太郎吉の鼻をかんでやったりして、これがまたえらく親切。おまけ

に太郎吉を馬にまで乗せる大サービスで、陰惨な気分はまったく吹っ飛

んでしまいます。馬の足は観客を沸かせる楽しい見世物ですし、花道で

の馬上で実盛が扇子をかざしての幕切れはいつ見ても格好良くて素敵で

す。



この華やかな「実盛物語」の幕切れのなかに、ちょっとだけ実盛の運命

を想い起してみたいと思います。謡曲「実盛」では「救いようのない運

命の非情さ」が描かれています。しかし、歌舞伎「実盛物語」での実盛

は28年後の自分の死の光景を語り、「自らの髪を黒く染め、場所は加

賀の国篠原、池の溜まりで洗うて見よ」と言っています。実盛はその言

った通りに死ぬわけです。もしかしたら、実盛は自ら運命を選び取った

のかも知れません。そしてその運命に従容として殉じたのです。



さらにこんなことも考えてみたいと思います。私には歌舞伎の実盛の方

が、謡曲の実盛よりも意思的・理知的な感じがします。歌舞伎の実盛は

運命に突き動かされているのではなく、間違いなく自分の意志で動いて

います。その行動の軌跡が「運命」として後の世に記録されるに過ぎな

い、そんな感じです。このような違いは、室町時代から江戸時代への民

衆の感性・あるいは人生観の変化を表しているのに違いありません。そ

してそのような観点から、「平家物語」の挿話の意味を、「実盛物語」

の作者は遊び心と多少の科学性で解き明かそうとしている、と思います。

「熊谷陣屋」も「義経千本桜」も、そのような江戸の庶民の健康な精神

が生み出したものだと感じています。


大江戸八百八町展(OJ)2003/02/06 (木)


 昨日(2003年1/5日)、両国江戸博の『大江戸八百八町展』を覗いてき

た(丁度、同日の朝日の夕刊に高階秀爾がコメントをよせていた)。江

戸開都以来、幕末にいたるまでの盛衰を多角的な資料により展示してい

る。

http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/2002/ki_1-5.htm

                  ←Web ページの最後に写真あり

平日の午後だし、それほど人気の出そうなテーマとも思えなかったが、

予想外の混雑だった。その理由は、会場に入ってすぐに合点がいった。

この展覧会は、展示品を見るより、解説文を読むほうに意味があるのだ。

展示物には、視覚的な充実もあるのだが、それより文書資料の類が多く、

その中身が面白い。もちろん江戸時代の資料とはいえ、達筆の墨痕を判

読する能力は当方持ち合わせないが、ポイントはすべてそばに添えられ

た解説文で理解できるようになっている。この解説が普通の展覧会より

はるかに多く、しかも中身が濃い。だから、立ち止まる時間が長くなり、

滞留するのだ。おそらくこの博物館の学芸員や、さまざまな分野の研究

者たちの最近の成果がたっぷり盛り込まれているのだろう。



気軽にでかけたが、膨大な展示であって、そう簡単に消化しきれる情報

量ではなかった。いくつか印象に残ったことを書いてみよう。



目玉は、『熈代勝覧(きだいしょうらん)』(“?”の左に縦長の“ノ”

がつく)という、無名の画家による長大な巻物だ。江戸の日本橋界隈(今

の三越のあたり)の街角の模様が克明に描写されている。路上や店舗内に

細密に描き込まれた人物が生き生きしていて、物売りの呼び声が聞こえて

きそうだ。見ていてなぜか心がなごむ。



単に、歴史的な視点からの資料だけでなく、長谷川平蔵の業績、遠山金四

郎の出自や痔を理由とした(馬でなく)籠での登城願い、大岡越前守の禄

高上昇の軌跡(2000石程度から出発し、最終的には1万石の大名へ)

など、身近な話題にしやすい展示もある。



あの時代、江戸は世界最大の都市であり、その初期で人口100万人、中

期以降は250万を超えていたという。そして、これだけの人口が一都市

へ集中するためには、政治、行政、経済、都市基盤などのすべてが相当程

度整備されていなければならない。そのすべての面で、実に細密なデータ、

つまり、帳簿が残っているのである。ある大店の帳簿などは、厚さで60

センチくらいあるだろうか、その各葉に細い毛筆でこまごまと記帳されて

いる。



この国のひとびとが、こうした様々な面での組織的な構成力をもっていた

から、江戸という世界規模の大都市が出現できたのだろうが、逆の弊害も

あった。例えば、火の見櫓のエピソードだ。江戸時代には、武家と町民で、

それぞれ独自の消防組織(武家は定火消し、町方は町火消し)をもってい

た。町火消しの場合なら、例の、い組、め組というやつで、いくつかの町

のグループごとに組織化されていたのは周知だろう。ここで驚くべきは、

火の見櫓の役割だ。現代なら当然、最初に火事を発見した櫓が半鐘を鳴ら

すと思いきや、例え最初の発見者でも、町火消しの櫓は、定火消しの櫓よ

り先に鐘を鳴らすことは禁じられていたという。もちろん、士農工商の身

分制度を維持するための仕組みといってしまえば、そうだろうが、機能の

本質的な重要性より、本末転倒して、面子が重んじられたということだ。



江戸をひとつの有機的なシステムの消長としてみれば、混沌とした活気が

生き物のように働いて、世界最大の都市を作り上げ、それを維持するため

の組織化の努力が見事に成功するが、それと並行して、硬直化や腐敗が始

まり、その果てに、幕末の外圧による外科手術へと至る、ということなの

だろう。



これは、なんだがいまの金融業界をめぐる騒動に似ている。調和を維持す

るための巧妙な仲良しクラブのシステムが、逆に足かせとなって内部の腐

敗と競争力の低下を招き、自分たちだけではどうにもならなくなって、外

圧頼みで外科手術へと至っている。



いまの日本は、国力の好不調の波の、最低の状況のひとつにあることは間

違いないだろう。しかし、歴史的に見て、波底のレベルははるかに高い。

つまり、いくら景気がわるくても、それで自殺者はでても(これは大半心

理的なもの)、餓死者がでる(これは生存条件の不備)ことはないのだ。



おもえば、日本のような小国が、世界で第二位の経済大国などというのが、

おかしい。過大な自負でもなんでもなく、客観的に見てこの国の組織的な

能力(とくに工業生産のそれ)が優れているのは、間違いない事実だとお

もう。それは、この展覧会に示された、世界に突出した江戸の繁栄によっ

て実証されている。



しかし、戦後からバブルへといたる勤労者の姿勢は、あまりに盲目的であ

った。自分のプライベートな生活を、犠牲にしたとも思わず顧みなかった。

その果ての、経済繁栄だったのだ。そんなに背伸びをしなくてもいい。ア

ジアの大国など、中国にまかせておけばいいのだ。日本の社会は、頑張り

すぎて、手を広げすぎてしまったつけを、いま償っているのだと、ぼくに

は見える。もっと地道でまっとうな国の姿へ回帰する(願望!)ための苦

しみのなかにいまいる。



大江戸の世界規模の繁栄、明治維新の急速な西欧化、戦後の目覚ましい経

済復興、どれをとっても、歴史的に見ればほんの短いスパンで、社会的な

目標を達成する能力が日本にはある(例え、きっかけが外的であったとし

ても)ことを示している。展覧会の印象から、すこし風呂敷が広がりすぎ

たが、この国はいま、いたずらに自信をなくしすぎているような気がして

しかたがない。


大レンブラント展鑑賞記(OJ)2002/11/11 (月)


2002年11月8日 金曜日

雲の多い晴れ。

雨の予報が外れてよかった。今日は、夕方に、とある会社の株式上場記

念パーティーが大阪である。仕事がらみで新幹線の切符が配給されたの

で、少し早めに出て京都の国立博物館で『大レンブラント展』

http://www.kyohaku.go.jp/tokuten/rembrandt/index.htmを見ることに

した。この美術展は東京へは来ないのだ。京都のあとは、フランクフル

トへ行ってしまう。9時頃に家を出て、のぞみで京都へ。切符は新大阪

までだが、回数券なので途中下車前途無効である。しゃくに障るがいた

しかたなし。



京都駅前からバスで京都国博へ向かう。西宮の仕事をしていた頃に奈良

の国博は行ったことがあるが、こちらははじめてだ。時間にして10分

とかからなかった。道路を隔てて南側に三十三間堂がある。真新しい入

口は、洒落たデザインで東京の国博より洗練された感じがする。あとで

気づいたのだが、バス停近くの入口とは別に正門があった。どうせなら

そちらからはいるべきだった(ただし、出口専門かもしれない)。



本館と新館(といっても相当古い)があって、大レンブラント展の開か

れている本館は明治時代の洋風建築の代表的な様式であるフレンチルネ

ッサンス風で(因みに奈良国博も同様式)、ファサード中央に丸屋根の

玄関をもち、煉瓦積の壁面の赤茶色が印象的だ。



入場門こそ新しかったが、内装はいかにも古びて、みすぼらしいと言っ

てしまいたくなるほどだ。しかし、全体の雰囲気が静謐で、空間がのび

やかであるためか、かえって懐かしい風情に思えた。平日とはいえ観客

は東京とは比較にならないくらい少ない。ひとつの絵の前に、せいぜい

数人のひとだかりがするくらいで、同じ壁の並びには鑑賞者の誰もいな

い絵があったりする。絵画の展覧会は、こうありたいなあと思った。

あれだけ充実した展覧会を、あれだけゆったりと見られるのは、東京で

は考えられない。おそらくこのレベルの展覧会だと、東京の場合、上野

駅から会場までひっきりなしの人の流れができるに違いない。美術展は

まずザーッと全体像を見て、それからまた引き返してめぼしいものをじ

っくり見るのがOJのやり方であるが、ここでは3回ほどゆっくりと反

芻するように見ることができた。



『大レンブラント展』と称するだけあって、レンブラントの10代から

晩年までの作品が年代を追って展示されている。現在の所有者を見ると、

世界中の名だたる美術館やコレクションが網羅されている(MOAのあ

の自画像は含まれていない/そういえば、佐倉の川村記念美術館にも一点

自画像がある)。レンブラントといえば、その一点だけあっても美術展の

目玉になる。それをレンブラントだけ50点近くが一挙に見られるのだ。

これだけのスケールで展示品を収集できるこの美術館の実力はたいしたも

のだ。もちろんオランダの密接な協力がなければ実現できなかったに違い

はないが。東京国博もがんばらなくっちゃね。なにせ独立行政法人なんだ

から。



話は本題をそれるが、レンブラントにはめずらしい風景画が一点だけあっ

た。その所有者をみると、チャルトレスキ公財団だった。今年の3月に横

浜美術館で見た、レオナルドの『白貂を抱く貴婦人の寓意』(ミラノ公ル

ドヴィーコ・スフォルツアーの愛妾リチェルカーレ・ガッレラーニの肖像

とされる)を所有する財団だった。



こうして一生の仕事を通覧してみると、すでに20代前半で技術的にはほ

とんど完成されているかに見える(もちろんOJが絵画技術の実際を知って

いるはずはないが)。貴金属や絹のもつ独特の光沢や、あの時代の正装に

多用されるレースの微細な質感の描写といった技術は若い頃にすでに身に

つけているようだ。



 以前新宿の伊勢丹美術館で『横顔のサスキア』を見たときの感想を日記

にこう書いている。



1998年10月25日 日曜日

素晴らしい。フェルメールの『青いターバンの女』以来の感動。羽毛、毛

皮、ビロードの柔らかさ、手首の真珠や耳飾りの真珠の輝き。胸を覆う絹

の艶やかさ。装身具の質感の描写をあそこまで高めていった情熱に感動する。 



この画家が成熟を見せるのは、複雑な登場人物を、それぞれの性格を浮き

彫りにするように描き分け、あのレンブラント光を駆使してそのコントラ

スを強調する、その構成力においてではないか。それに関しては、残念な

がら今回の展示にはない「夜警」(この画題は誤りであったことが近年分

かったが、馴染みがないのでママとする)を描いた30代後半で頂点に達

するのかもしれない。



晩年になるにつれて細部は大胆に省略される。表面的な細部が消失するの

に反比例するかのように、内面の精神的な描写が深みをまして行くようだ。

彼は63歳で亡くなっているが、偶然にも、いまのOJと同じ58歳のと

きの自画像は、あまりにも老化している(絵が老化しているわけではない)。

彼が描き出した数々の名画に、精力を消耗されてしまったかのようだ。



ゆったりとした時間を過ごして、満たされた気分で外へ出る。噴水の前の

楓と欅が、一本の木の中で上から下へ、赤、黄、緑と3段染めに紅葉して

いた。ああ、京都だなあ…………


ビリケン発見(kame)2002/11/17(日)


 野田のビリケン

最近自転車であちこち徘徊する事が多いのですが、我が家から駅に行く

途中のいつも通る道から10メートルも離れていない運河の土手の道端に、

なんとビリケンさんがまつられているのを発見しました。この辺は日光

街道の旧道が通っているので、馬頭観音や、弘法様や、見猿聞か猿言わ

猿の彫り物や、いろいろと面白い石仏が多いのですが、ビリケンさんと

は驚きました。まさか江戸時代からあったはずもなく(ヨーク見ると欠

けているけど英語でBILIKENと書いてある)、どういういきさつなのかこ

れから調べてみたいと思います。こんな石仏は通天閣だけでなくてあち

らこちらにあるのでしょうか?

天城登山変じて宴会のはしご(OJ)2002/10/01(火)


 横浜中華街にて

2002年9月28日 土曜日 

曇り、ときどき雨。



梓、熱海集会。

冨山、後藤、鈴木、金谷、高橋、中村、亀村、橋元



雨模様で、天城山(万三郎、万次郎)ハイクは予定変更。TBS.B熱海寮

のある紀州鉄道伊豆山オーナーズビラで宴会となった。



10時33分の快速で東京駅発。横浜で後藤さん、辻堂で冨山さんが合

流。

熱海駅から歩いて世界救世教MOA美術館を見学。入口から延々とエスカレ

ーターを乗り継ぐ。エスカレータの終点フロアには、秀吉の金ぴかの茶

室と能楽堂がある。眩暈のしそうなこの茶室で何がわび茶なのか知らな

いが、この悪趣味を再現する悪趣味に驚かされる。能楽堂の公演案内に

は、梅若六郎や友枝昭世、野村萬など超一流のシテ方が出ている。金が

あれば、おおよそのことはできるということか。



まずは腹ごしらえと、レストランへ。ヒレカツサンドを頼んだが、今晩

の後藤さんのメニューはトンカツだったことを、あとで知る。このカツ

サンドすごい量。2人分はたっぷりありそう。ただ、味と素材は合格。

なんでもこの宗教は、自然農法を実践し“食”には力を入れているらし

い。レストランの従業員は、慇懃であるが、どうもなじめない感覚があ

る。まるで自分は人ならぬものの傍らにあって、いましていることは、

よそ事というような印象なのだ。解脱したと誤解しているものへの違和

感、隔離感とでもいおうか。



器の図体がでかいのに比例して、コレクションも散漫だが、いくつか目

玉はあるらしい。有名な野々村仁清の国宝藤花紋の壺はこの美術館の所

有だったのだ。記録を読むと、創設者の岡田某氏が死の2日前に入手し

ている。これで世界は救われたか。



驚いたのは、レンブラントの若い頃の帽子を被った自画像があったこと。

これはめっけもの。じっくりと見させてもらう。絵の状態は非常にいい。

ざっと400年は前の絵が、いま描き上げたばかりのような光沢を放っ

ている。ただ、あの照明はセンスを疑う。レンブラント独特の光線の扱

いを強調するつもりなのだろうか、顔面にスポットを当てたりして、余

計なお世話である。絵の保存にも悪かろう。



あと記憶に残ったのは、色鍋島の皿(鉢?)や織部のかわいい香合。色

鍋島は、ちょっと日本の陶器の色彩センスから離れているような印象だ

った。冷色系統を主調として、細身の線がで描かれている。古久谷(実

は古伊万里)の収集が多かったようだが、あの黄色はいつ見ての独特。



美術館が終わって、後藤さんとカメちゃんが買い出しに町に降り、残り

は歩いてTBS.Bの寮のある紀州鉄道伊豆山オーナーズビラへ。金谷氏は、

到着するなりオックステールの煮込みをはじめる。それはそうだ、これ

が喰える状態になるには、少なくとも4時間はかかる。後藤さん、スー

パーの品ぞろえにはいたくご不満だったようだが、手料理いろいろで宴

会がはじまる。メインはもちろんトンカツだ。昼がヒレカツなら、こち

らはロースだ。この肉もなかなか旨かった。



OJは宴会の冒頭は寝こけていたが、カメちゃん、チャウ、善さん、後

藤さんと、次々寝入るなか、後半になって目が覚めてきた。珍しく冨山

さんと尚やんが盛り上がり、金谷氏とOJはご高説拝聴の格好になる。

冨山さんは、アメリカが自分の赤字を日本に肩代わりさせた経済手法の

告発、竹中経済への批判、尚やんはアングロサクソンの徹底糾弾と忙し

い。しまいには、寝付いている後藤さんを起こして、ペペロンチーノ

(金谷氏の希望だそうだ)を作ってもらい、腹を仕上げる。



3時を過ぎて就寝したが、夜中突発事件。寝付いて間もないころだろう

か、冨山さんがトイレに立った(らしい)。暗闇の中、隣に寝ている誰

かを跨いだつもりで、大きく踏み出したその一歩が、OJの鳩尾を直撃。

深夜、ただならぬ悲鳴を発する。こちらは驚天動地、目から火が出ると

いうのは、まっこと正鵠を得ている。真っ暗な室内に一瞬、火花が散っ

たかと思った。この絶叫にもかかわらす、梓諸氏がこともなげに寝入っ

ていたのは言うまでもない。しばし、唸りと痛みがおさまらなかった。



2002年9月29日 日曜日

曇りがち、やや晴れま。

昨夜は、10時頃にビラ内の温泉が終わっていて、だれも入っていない。

早起きした順に温泉に浸る。善さんが、このビラの屋上が開放されてい

ることを発見し、湯上がりにみんなが次々と屋上に集まる。丸テーブル

を囲んで、ちょうど八人分の椅子があって、朝食前の軽い一杯となる。

OJの別の仲間では、これをプレ食事という。つまみは、金谷風オック

ステール(真水で茹でただけのを岩塩で喰う)。ここの風呂は海の展望

が素晴らしいが、屋上はそれに輪を掛けている。当然、次回はここで宴

会をという話になる。



カメちゃんのホテルの朝食風。キャンベルは我が家も常備だが、クリー

ムコーンが地元アメリカでは見向きもされず、日本向けの商品であると

は驚きだった。あちらでは、チキンヌードルが一番人気とか。



今日の目標は後藤さんの発案で中華街となった。ビラを後にし、バスで

熱海へ。熱海から各停で横浜。京浜東北線で石川町まで戻る。とくにあ

てもないので、齋藤君推奨の謝甜記を目指す。昔から中華粥で有名な店

だ。バブル期ほどではないにしろ、中華街の雑踏には辟易。少し名の通

った店には、どこも行列ができている。肝心の謝甜記は、本店も近頃で

きた貳号店も行列。諦めて、以前関根さんの企画で上海ガニを食べた大

新園へ。こちらは空いていて、すぐに個室へ通される。多分、前回と同

じ部屋ではないかと、みなの意見が一致する。以前と同じ、壺入りの紹

興酒を頼み、めいめい好みの一品を注文する(あとからの齋藤君の掲示

では、ぷりぷりのエビワンタンや餃子、海鮮関係がお薦めだそうだが知

るよしもない)。



広東系の中華料理店へ行った場合、スキー場のカツカレーと同様、必ず

頼む料理がある。普通、東坡肉(トン・ポォ・ロウ)で通っているが、

広東系の店ではカウヨ(扣肉)という。正確に同じものかどうかは知ら

ないが、まじめにやると煮る、焼く、揚げる、蒸すなど中華の種々料理

手法を駆使する手の込んだ料理だ。OJはこれが大好物。しかし、めっ

たにカウヨの旨い店はない。昔、謝甜記の兄弟店の徳記のカウヨは絶品

だった。それを思い出して近頃行ったところ、痛く失望した。大新園の

カウヨは、合格。ひさびさにまともなカウヨを食した。従業員の対応も

好感がもてたし、味にはおおかた満足したようで、締めくくりの宴会は、

めでたしめでたしであった。



=============



まだ時間も早かったので、運動不足、食い過ぎ、飲み過ぎを補正すべく、

蕨から歩いて帰ってきたところ、鳩ヶ谷の町中で、同じ町会の役員仲間

に遭遇し、また一杯となってしまった。ああ、何のために歩いてきたの

か。


ミステリアス京丸(tomi)2002/09/24 (火) 22:32


zennさんの「京丸紀行」ははなはなだミステリアスでありました。静岡

から山梨に向かうルート、ということは、南アルプスの前山ということ

になるのでしょうが、山深くて人跡稀、太古の趣のあるところが多いで

すね。ン十年前に(もちろん新幹線以前)秋葉山を目ざして行ったこと

がありました。秋葉神社が目的ではなく、「熊切紅茶」の栽培地を訪ね

てのことです。「京丸紀行」を読んでそのときの樹林帯に霧が流れる山

路を思い出しました。導標に「京丸−藤原家」とあるのは凄いですね。

金田一京介(?)の世界みたい。しかし樹林で展望が利かないのは残念

でした。

Re: ミステリアス京丸(omori)2002/09/24 (火) 23:38


> zennさんの「京丸紀行」ははなはなだミステリアスでありました。

まさに出色。こんな紀行は、かつて読んだ記憶がない。

> 秋葉神社が目的ではなく、「熊切紅茶」の栽培地を訪ねてのことです。



金谷さん。例の熊切女史の故郷です。静岡の産と聞いたから、まず間違

いないでしょう。ちなみにクマキリは隈切の意で、湾曲した川が(たぶ

ん洪水のせいで)断ち落とされたような形状の地を指すのだとか。



「山行報告:不思議な世界を覗いてきたような・・・静岡県・京丸山

                 鈴木 善三(2002年9月23日)」

        へのコメントです。



 セイスモサウルスの復元画像

幕張メッセ、世界最大の恐竜博報告
 (OJ)2002/08/30 (金) 19:25


セイモ君に会ってきました



大分前、ジュラシックパークの最初のバージョンが公開される前だった

が、チャウから電話があって、“一番大きい恐竜はなんていうの”と訊

かれたことがある。たしか、仕事がらみの質問だった。そのときは、

“サイズモサウルス(いまのセイスモサウルスをそう発音していた)と

いって、歩くと地震が起きるくらい大きいという学名のついたのが現在

発掘中で、それが最大といわれている”と答えた。



そのセイモ君が、発掘を終えて今度の幕張の恐竜博の目玉になっている。

夏休みもそろそおろ終わりに近づいて、混雑もピークは過ぎた頃だろう

と、平日に出かけた。ところがどっこい、親御さんに連れられたチビッ

コたちで、そんな魂胆は、ふっとぶほどの込みようだった。



会場がいくら混んでいても、全長35m、推定体重42トンの巨大なセイモ

君の骨格を見上げるのに、何の支障もない(絵の展覧会とは違うから

ね)。最終的に発掘できた骨格は、全体の30パーセント程度で、残りは

近縁のディプロドクスやバロサウルスから類推である。なんだウソみた

いと思われるかもしれないが、恐竜の再現骨格や想像図などは、みんな

その程度のものだ。子供の頃に憶えたトリケラトプスやステゴザウルス

のように、間違えようのない特徴のある恐竜でさえ、最近の研究で細部

が大分変わってきている。



それにしても、この巨大な生物やその仲間が、現実にこの地球上を(多

分)群れをなして跋扈していたのだ。人間の想像力なんて、ちいせー、

ちいせー。



とにかく最近の恐竜ブームは、学会巻き込んですさまじい勢いだ。そう

でもなければ、こんな大規模な展覧会はできないだろう。現在、国内の

主立った植物が6000種といわれているが、それでさえ憶えきれない

のに、敵は何億年もかけて進化してきた系統だ。発掘が進めば進むほど、

種類は増えて数千どころではなくなるはずだ。やれやれ、どれほど憶え

ると、おおよそ恐竜が分かっていると言えるのか、気の遠くなるような

話になってきた。



それにしても、柔軟な頭脳で、この知識を吸収できる、いまの子供達が

うらやましい。記憶力の衰えたオジサンは、あと何回か行かないと、全

貌を掴みきれないかもしれない。


スピーカー購入 顛末記(OJ)2002/07/04 (木) 01:38


最近、うちのオーディオはまったく鳴かず飛ばず状態だった。アンプは、

プリもメインも修理に修理を重ね、もはや累積修理費は購入金額をとう

に超えているだろうとい状態。ただ、あまりたびたび修理に出すもので、

向こうも少しは良心の仮借があったのか、いかれそうな部品を全取っ替

えするほどのオーバーホールをやってくれた。おかげで、アンプはなん

とか正常である。



スピーカーは、まず低音用ウーハーがイカレて(合成樹脂の疲労でエッ

ジが破けた)ユニット交換、次に高音用のツイーターがぶっ飛んだが、

もうすでに交換部品は在庫がない。別のツイーターを買って、ネットワ

ークのパラメータをいじるほどの熱意はもはやない。TVに使っていた

スピーカー(イギリス製のスペンドールBCUという一世を風靡したもの

だが、いかにせん音が古い)を二階に持ってこようかと考えたが、とき

を同じくして、こちらも音がかすれだした。スピーカーは、お手上げだ。



次に、CDプレーヤーもトラブルの連続だった。暑くなると再生トラック

が飛び、最終的に、エジェクトボタンを押しても、ウーンなどと唸るだ

けで、CDトレイが出てこなくなった。すでに何度か修理しているし、ア

ンプほどの品質の製品ではないので、いまさら修理という気になれない。



こんな状態でしばらく過ごしてきたが、ついに意を決した。ハイビジョ

ンはまだ諦めるとして、せめてオーディオをなんとかしよう。アンプは

まだ使いたいし、実のことを言うと、いままでのCDプレイヤーとスピー

カーでは、このアンプの実力の半分も出していない状態だった。そこで、

スピーカーとCDプレイヤーを買うことにした。



まずスピーカーだが、これはもうあまり大きな物はいやだ。小型でまと

もな音の出るものをねらった。早速、オーディオ誌で最近の機器の評判

をチェックしたり、インターネットで関連サイトを探ってみた。どうや

らB&Wというイギリスのメーカーのブックシェルフ型にターゲットが絞ら

れてきた。実際に秋葉原で試聴してみた。正面から見た面積は、ブリタ

ニカくらいしかない。しかし、目隠しをすればサイズからはまったく想

像できないスケールの音がでる。音色も自然だ。一昔前のブックシェル

フからは想像できない音だった。



で、すんなりそれに決まるかというと、そうはいかない。すぐに、欲が

出るのだ。これを基準とすれば、同じ価格帯で他にもっと良いものはな

いか。それから、また彷徨が始まる。インターネットで価格サーチをし

ているうちに、『吉田苑』という福岡のオーディオショップのWeb ペー

ジに出会った。秋葉原価格や他の通販より大分安い。焼き肉屋みたいな

名前だなあと思いながらもページの内容を読むと、相当なキャリヤと、

なによりも見識がある。さまざまに検索してみると、それなりに有名な

店で、東京で独自の試聴会を開くなどの実績もあった。信じやすいOJ

としては、この店に賭けることにして、質問のメールを出した。実は、

B&Wのこれこれを目指しているが、同じ価格帯でお薦めの製品はあるか?

とね。素早い返事が来て、デンマークのディナウディオ社の製品がよろ

しいとのご託宣。



また、OJは秋葉原の試聴にでかけた。こいつが、良いのである。文句

なく良いのである(いままでの自分の装置に比べれば当然で、なんとい

っても試聴室では、ウン百万のアンプとプレイヤーを使っているから、

その分を差し引く必要がある)。ところで、この製品には、まったく同

じサイズでユニットとネットワークを改良したSpecial Editionがある。

どうせならと、そいつも聴いてみた。こういうときは、絶対に上を見て

はいけないのだ。パンドラのハコなのである。でも聴いてしまった。一

皮むけた音といおうか、音がより素直で、ディテールが鮮明。ノーマル

TVとハイビジョンとまではいわないが、もう後戻りはできなくなった。



数日の逡巡の果てに、こいつを買うと決断し、問い合わせると、なんと

在庫がなくて8月まで待てという。しかし、スタインウエイ塗装のブラ

ックピアノ仕上げの特製品ならあるという。ああ、また高くなってしま

う。ピアノ好きのOJは、われながら浅はかと思いつつも、スタインウ

エイにつられて注文してしまった。CDプレーヤーは、向こうまかせで、

CEC製のベルトドライブ(なんて懐かしい響き)のものにした。CECは、

日本のメーカーだが、レコードプレイヤーのモーターでは、知る人ぞ知

る古参のメーカーだ。今を去る数十年前にこの社のターンテーブルでプ

レーヤーを作った覚えがある。



というようなわけで、我が家のオーディオ装置は一新した。自宅で聴い

た第一印象は、CDにはこんなに沢山音が詰まっていたんだ、だった。な

んだか、風が吹き出してくるように音がわき出してくるのである。最初

に聴いたポルリーニのクライスレリアーナでは、彼のハミングやペダル

の音までがごく自然に聞こえて来たものだ。そうか、オーディオ装置と

いうものは、忠実に音を再生するというよりは、余計な音を出さない物

なんだなあと、変な感心の仕方をしてしまった。



音楽好きの皆さん、ええ音しまっせ。


『四代目松禄襲名披露雑感』(OJ)2002/06/24 (月) 11:11


辰之助が四代目松禄を継いだ。いわゆる、当代の三之助(新之助、菊之

助、辰之助)のなかでは初襲名だ。歌舞伎は世襲制だから、幼少の頃か

ら英才教育をほどこし、名門になるほど、年を追って継いでいく名前が

決まっている。こないだ話にでたヨコワみたいなものだ。先代三之助と

して、それぞれの実の父になるのは、現在の団十郎、菊五郎、それにい

まは亡き先代辰之助(贈り名三世松禄)だ。さらに現団十郎の父は長ら

く海老様で親しまれ、団十郎を継いですぐに亡くなってしまった。菊五

郎の父は梅幸で、本来は菊五郎を継ぐべき所を養子ということで自分は

継がずに現在の菊五郎に七代目を継がせた。早世した先代辰之助の父が、

われわれの世代がよく知る松禄だ。それほど歌舞伎ファンでもないし、

実演を見てもいないのに、どうも戦後の歌舞伎を代表する役者というと、

先代の団十郎や幸四郎よりも、松禄の名前が浮かんでくる(この三人は、

実の兄弟になる)。



三之助とはいっても、三拍子そろっている新、菊とはちがい、辰は少々

見劣りがする。背は高いが、ぎょろ目の丸顔、歌舞伎の立ち役よりむし

ろ喜劇役者が向く風貌。それに声も悪いし、発音は舌足らずである。梨

園名門の御曹司でなければ、端役数十年で終わりといったところだろう。



この襲名、孝夫の仁左衛門や、八十助の三津五郎の襲名が機熟して、と

いうのとはちょっと趣を異にする。いってみれば、松竹の襲名披露戦略

(襲名公演はだいたい連日満員となる)の一環で、このあとに続く新之

助の海老蔵、鴈治郎の藤十郎、勘九郎の勘三郎、それぞれ襲名への露払

いといったところか。他の襲名が順当な成り行きであるのに比して、い

まの辰之助の実力が松禄の名に相応しいとはおもえない。



四代目松禄の襲名披露は五月、六月と歌舞伎座で行われている。今月の

それの夜の部を見に行った。新之助、菊之助の踊りがあって、襲名披露

の口上がある。なぜか引き回し役の雀右衛門がしどろもどろで、高齢と

はいえ百戦錬磨の国宝役者らしくもない。もう夜と昼とで一月半もやっ

ているのに、なんでこんなにとちるのだろうか。座が白けてしまいそう

になるが、なんとか威勢のいい“京屋!”の掛け声で盛り返している。

口上というのは、当代の人気役者が勢揃いし、襲名する役者との間柄や

エピソードを語ったりして、華やかなものだ。主だったところでは、父

親代わりの菊五郎は当然として、団十郎、芝翫、鴈治郎、吉右衛門、最

近国宝になったばかりの田之助などが顔を揃えている。



夜の部は『船弁慶』がメイン。船弁慶は同名の能を下敷きにした芝居で、

松禄が前場では静御前を、後場では平知盛を演じる。どちらも舞が見せ

場だ。知盛は、能で言う早舞で、恐ろしげな隈取りで、甲冑もどきの銀

色つくしの衣装に身をつつみ、薙刀を振り回す勇壮な舞だから、若さの

勢いでなんとかなる。しかし、静御前の舞となると、もう見てはいられ

ない。能の舞を踏まえて、型はきっちりなぞっているのだろうけど、間

延びして退屈。松禄は、藤間流の家元である。いくら世襲制とはいえ、

こんな舞で日本全国の門人がなっとくするのだろうか。



一月半ほどを、昼夜主役で出ずっぱりだし、とくに今月の昼の部の『蘭

平物狂』は、アクロバットさながらの殺陣があるので、蓄積した疲れは

相当なものだろうけど、それを差し引いても、いかにも動きに切れがな

い。



祖父の松禄が富士山頂とすると、現松禄は美保の松原を、足もとおぼつ

かなく歩き出したといったところか。現団十郎も早くに先代を亡くして、

若くして大名跡を継いだ。当時も、襲名が妥当かどうか議論かまびすし

かった。実際に、失礼ながら、とてもとてもの役者だったが、いまでは

団十郎の名に恥じない大看板になっている。よい鑑が眼前にある。世襲

制の英才教育という、歌舞伎の育成システムが、生得の資質をしのいで、

現在でも機能するのか、今後が見物だ。


ハイビジョンを見てしまった不幸(OJ)2002/06/15 (土) 02:18


知人宅でワールドカップサッカーを見た。ハイビジョンでだ。横長のプ

ロフィールだから、競技者が、球が、フィールドを縦横に疾走するサッ

カーのようなゲームに、ハイビジョンが向いているのは当然だ。映像が

精細なことは贅言を要しない。目が洗われるようである。まあ、技術的

にも値段からも当たり前だ(標準TVしかないものの負け惜しみ)。



サッカーの興奮冷めてしばし後、やはりハイビジョンで歴史的な画家の

作品を紹介する番組が始まった。画家は、ヨハネス・フェルメールだっ

た。この画家については、おきまりの解説で、マルセル・プルーストが

再発見して云々と。実は、OJがフェルメールを知ったのも、プルース

トのおかげだった。あの長大な『失われた時を求めて』という小説の中

には、音楽家、絵描き、小説家などが数多くの芸術家が出てくる。それ

ぞれに、プルーストと同時代の卓越した個性が的確に、またシニカルに

描写されていて(多分ね、実物を知るよしもないが)、同時代のひとが

読めば、これは誰のことかとすぐピンときて、下世話な興味からも面白

かったろう。しかし、後世まで残る小説の凄いところは、そうした低次

元の興味を満たしながら、新しい美の発見を宣言しているところだ。あ

の小説の中では、フェルメールしかり、ルノアールしかり、ビュッシー

しかり、アナトール・フランス(彼だけは逆の意味で)しかり。同時代

人がまだ感知できない、新しい様式の美を見いだした喜びを語っている。

同じことを、トーマス・マンは『ファウスト博士』のなかで、シェーン

ベルクについて、さらに徹底的に綿密に行っている。



おっと、好きなフェルメールがたまたま主役だったので、話がそれてし

まった。書きたかったのは、画家のことではない。ハイビジョンのこと

だった。



カメラは、アップで絵画をなめ回すように写す。ニスの透明感や照りや

亀裂までもが克明に映し出される。透明な皮膜の下に描かれた、絵の具

の凹凸までもが歴然としている。テレビという媒体を通しての映像であ

る以上、裸眼で実物を見るのと同じはずはない。しかし、克明さにおい

て、裸眼ではここまでは見えないだろう。写真で見慣れた『デルフトの

風景』や、室内の人物像、とくに女性を描いた絵が何枚か映し出された。

フェルメールが目玉の展覧会は何回となくあったから、紹介された絵の

いくつかは実物を見ている。しかし、こんなに微細なところまでは見え

なかった。そんなに接近して見たら、警報が鳴るか、近くのガードマン

が飛んでくるだろう。ふーん、ハイビジョンってすごいなあと、あらた

めて感心しながら、知人宅を辞した。



何の偶然か、家に帰ってTVをつけると、衛星放送で同じ番組が始まっ

た。放送の内容は全く同じだ。愕然。これが同じ絵だろうか。ニスの質

感などまったくわからない。それよりなにより、ニスが塗られているこ

とすらわからない。つい数時間前の映像の記憶がまだ鮮明だったから、

まるで絵の前に紗の幕がかかっているようだった。あるいは、急に老眼

になってしまったようだった、といってもいい。これは、残酷である。

少なくとも家のTVは、放送局のモニタに使っている機種だから、スタ

ジオのカメラの違いがはっきり区別できるほどの画質だと自負していた。

そんなレベルの話ではないのだ。



なんだって、ハイビジョンと同じ番組を、しかも、絵画がテーマの番組

を、同じ晩に見なければならなかったのか。知らなければよかった。



あいみての のちのこころに くらぶれば むかしはものを おもわざ

りけり



この歌は、別に男女の仲を歌っただけではないのだ。それが古典たるも

のの普遍性である。などと、関係のないことをつぶやきつつ、いや、買

いません、ハイビジョンなど。いまのTVは、まだまだ、十分きれいな

のだからと、ひとりごちた。


『百名山の人 深田久弥伝』(OJ)2002/06/09 (日) 01:42


金谷さんに頂戴したおかげで、久しぶりに本を読んだ。



恥ずかしながら深田久弥が小説家だったとは知らなかった。もちろん

『日本百名山』は読んでいるので、山屋にしてはずいぶん文章が旨いな

あ、くらいに思っていた。



前半はやや抵抗があった。なにせ、女房に小説を書かせて、自分の名前

で出していたなんて、そんなうじゃうじゃした男の話を読むのも鬱陶し

いなあと。しかし、あの頃の山登りや、文学者仲間の交際がいろいろわ

かって面白い。あの赫奕たる小林秀雄と、かくも親しい仲であったのか。

あの中島敦を世に出したのが、このひとだったのかと。山月記や李陵の、

漢文調の流麗な文体が原稿用紙が真っ黒になるほど推敲に推敲を重ねた

結果だったとは。半ば週刊誌的な興味で読み続けた。



救われるのは、この男、言い訳をしない。相当な誹謗中傷(ではなく真

相の指摘か?)があったが、一切説明しない。少なくも、この田澤とい

う著者の取材範囲ではね(何かの目的で文章を書いた経験があると、す

ぐに勘ぐってしまうが、意図的にある面を強調したか、あるいは、別の

面を無視したか)。



そして、自分の意見が時代に流されない。さらに、自分の嗜好に極めて

忠実。要するに、わがままといえば、確かにそうだが、ただそれだけで

はない魅力がある。読み進むうちに、だんだん惹かれてくる。まあ、こ

んは人間がたまには居てもいいのではないか。ただし、二番目の聡明な

奥さんがいないと、鬱屈した人生で終わったのではないかとも思うが。



多少異論もある。帯の説明にあったように、“山を歩きまわらずにはい

られなかった背後にある日常生活はどうだったのか”という問いは、見

当違いな気がする 。境遇が幸せだろうが、不幸だろうが、家庭が居心

地がよかろが、火宅だろうが、このひとは山へでかけたろう。それは深

田久弥自身の文章(p-15)に引用されている高村光太郎の歌に言い尽く

されている。それにしても、この歌はいいね“みしみし歩き、水飲んで

くる”だって(最近の我らは、善さんは別として、“よたよた歩き。酒

飲んでくる”かな)。マロリーの“山がそこにあるからだ”はカッコい

いけど、こっちのほうが、山好きにはじわーっと気持ちに浸みてくる。

もっとも、これで片づけては本が一冊できないけどね。



というわけで、結構楽しく読ませてもらいました。金谷さんに感謝。


大阪紀行 ビリケン拝見
    (OJ)2002/06/04 (火) 01:23
   読者の反響絶大!(当編末尾に掲載)


ビリケンさん拝見



先週、大阪の豊野へ仕事で(仕事ですぞ!)出かけた。ちょっとした取

材で、すぐに終わって、3時頃梅田へ戻った。まだ時間に余裕はあるし、

これを予期して東京駅で『大阪まっぷる』というガイドを買っておいた

ので、大阪縦断を試みた。縦断はちっとオーバーだが、要はJR環状線

(東京の山手線に相当する)の梅田(キタ)から御堂筋を南下して、環

状線の中央にある難波(ミナミ)を通過し、反対側の新今宮か天王寺

(安部野)あたりまで歩いて、環状線で戻って来てみるかと思った。



御堂筋は立派だ。東京などと道路のスケールが違う。中央に4車線(そ

れもすべて一方通行)、その両側に新緑の並木があり、さらに側路があ

る。つまり、車道は6車線で、東京なら並木の部分も路にしちゃうだろ

うから、10車線分くらいの道幅がある。もちろん歩道は別だ。どうも、

名古屋にしろ大阪にしろ、道路では決定的に負けているね、東京は。



この立派な御堂筋をしばらく下り、川を二つ越えて中之島を通過すると、

西本願寺の北御堂、南御堂があった。見るべき景観はないが、なんだか

スケールは壮大だ。そう言えば、築地の本願寺も似たようなものか。そ

れで御堂筋なんだろうねと、独りで納得する。



コイさんだかイトはんだかのいた船場を過ぎると心斎橋だ。さらに進む

と、左側に大丸デパートがあり、その奥に心斎橋筋が並行するようにな

る。もちろん中間に建物があるので御堂筋から直接は見えないが、例の

ガイドと首っ引きで歩いているので、地図上の判断。



また、御堂筋を中心に、心斎橋筋と反対側に、丁度、原宿の竹下通りを

引き伸ばしたような若者街が展開している。茶髪、金髪(というからに

は日本人)、白人、黒人がたむろし、両側の店からガンガンとラップが

流れてくる。なんだか、若者街のスケールも、東京は負けてるようだ。



大阪で、銀座四丁目辺りに相当するのは、心斎橋筋の戎橋か?。阪神フ

ァンが、感極まってどぶ川に飛び込むところであり、最近では、グリコ

のランナーがサッカー日本代表のウエアに着替えたネオンサインの輝く

ところだ。これは、是非見ておきたいので、心斎橋筋へ進路を変えた。

戎橋にしばし佇み、通り過ぎる人の流れを見る。戎橋が少し高くなって

いるので、心斎橋筋が見下ろせる。蟻んこの行列のように人が流れてい

るのは、渋谷、新宿と似たようなもので、いまどき、日本全国大都会は

同じだろうか。飛び降りる阪神ファンの心境を思いやりつつ、戎橋を後

にする。



この近くに、国立文楽劇場があるので、敬意を表していくことにする。

三宅坂の国立小劇場は、文楽東京公演で毎度だが、本家で文楽はまだ見

たことがない。せめて、小屋だけでもご尊顔を拝しておこうと思った。

東京の国立劇場が皇居前の、最高の立地にあるのに比して、この劇場は、

なんとラブホテル街と高速道路に挟まれてある。いかにも大阪的なたく

ましさを感じてしまう。切符売り場が屋内にあり、食堂も常時営業して

いるので、観劇でなくても小屋の中に入ることができる。これは、入っ

て中を見学せずばやと、闖入した。なるほど、これが本場の文楽劇場か

と、しばし感激。トイレもあったので、小用を足し、初見参を終えた。



それから、難波方向へ戻り、千日前通りを南下する。うっかりして、新

歌舞伎座が近くにあったのを見逃してしまった、残念。後日の再訪を期

す。千日前のどんづまりは、かの有名な吉本会館。そこから路はぐっと

狭くなって、その先に道具屋街が続く。東京でいうと浅草の合羽橋だ。

鍋、釜、調理器具をかいくぐって、表へでると、日本橋電気屋街だ。合

羽橋と秋葉原が隣接しているようなものかな。道具屋街は合羽橋ほどの

スケールはないが、電気屋街は相当広い。秋葉原に密度では負けるが、

面積では負けていないようだ。渋谷へ進出したので話題になっている、

ナカヌキ屋(なんという即物的、大阪的ネーミング)の黄色い看板が目

立った。



電気街の次は、とうとう通天閣に至る。この高さというものは、東京で

はすでに意味がないだろう。大阪でもキタでは、もやは存在価値はなか

ろう。高層建築のないミナミでしか生き残れない名所だ。おそらくそう

長くはない。いまだ東京タワーに登ったことのない、OJが何のためら

いもなく、入場料600円なりを払って、通天閣へ登った。ははは、こ

れが観光客心理というものだ。



展望台からの大阪の眺めは、視野を遮るものがないので、じつに清々し

ている。遙かキタの北にしか高層建築がないからだ。眼下には市立美術

館の直線的な建物が目立ち、その周囲の公園の緑が目にしみる。ここで、

かの有名なビリケンさんのエネルギッシュな姿を拝み(といっても周囲

をオバサン連が取り囲み、記念写真で浮かれていたので通過したのみ)、

これで600円は高いなどとつぶやきながら、そそくさと通天閣を降り

た。



あとは、眼前に立ちふさがるようにそびえる巨大なクアハウス(太閤さ

ん譲りで、やることが何でも大きおまんな)を通り抜けると、新今宮駅

である。これで、環状線縦断は終わったが、日は明るいし、まだ少々時

間がある。脚は大分くたばってはいるが、ここまできたら、もう一足。

四天王寺を訪ねることにした。いわずもがな、聖徳太子が法隆寺ととも

に建てた日本最古の部類に属する寺だ。



天王寺動物園を迂回するようにして、四天王寺へ向かう。途中の道路は、

ホームレスのホーム(???)で占拠されている。丁度新築工事中で、

ホームレスにも元大工がいるのだろう、電動工具などを持ち出して(そ

ういえば電気はどこから取ったのか?)、マイホームの建設にいそしん

でいた。



四天王寺は、内園はすでに閉門していて、中には入れなかった。再三火

災にあい、先次の大戦でも燃えているので、いかにも近頃できあいとい

った風情で有り難みはないが、それでも伽藍の配置に風格を感じさせる。

山門前に、「大日本仏法最初四天王寺」の大きな石碑があった。もっと

も裏に回ると石碑の建立は平成であった。



天王寺の駅近辺に戻り、面白そうな店があたので、今日のとどめに一杯

やる。刺身のリストに、ヨコワとある。こりゃ何ジャと問うと、マグロ

とカツオの中間の魚だという。そんなのあったかと、とりあえずそいつ

とタコ刺しを頼んでみたが、どうもメジらしい(そう言うんですか冨山

さん?)。あまり、飲む気もしなかったので、生ビールとお燗一本でそ

こを出て、たこ焼き(最近OJはこれに凝っている)屋へ入った。焼き

Beerという訳の分からんメニューがあったので訊ねると、焼きそば

+タコ焼き+ビールのセットメニューだという。迷わずそれを頼む。駅

の地下街の、シャビーな店だったが、亭主の愛想は絶品だ。若いのが入

ってくると、おお、学生さんか、ほな負けたろう、そばも野菜たっぷり

やでえ、といいながら、手元を見ると別に量は変わっていない。こうい

うのがリップサービスというのだろう。それでも、若人は嬉しそうに、

実は勤めてます、などと返事をしていた。



ま、雑文、駄文の最たる大阪紀行、このへんでお許されませ。



******大阪紀行にたいする反応******

  (1)putin

忙しくないから読んだが、腹が立つどころか懐かしく楽しかった。

20年近くもまえに勤務先の仕事でずいぶん大阪出張をした。あちこち行

ったが、文楽はおろか歌舞伎も吉本も行かなかった。

串焼き、おでん(関東炊き)、はも、汁そば(ラーメン)何でも安かった。

キタの新地で飲んでも安い。渡海やのオッチャンがわかいころ修行したと

いう「サンボア」、わたしは「北サンボア」だったがホントに立ち飲みの

バーでありました。

いまNHKBS2朝7時45分から古い朝の連ドラ「私の心はラムネ色」

ビリケン(坊やのあだ名・いまは親戚にもらわれてめったに登場しない)

や通天閣界隈が舞台、おもしろいよ。

大阪散歩でいっしょに行きたかったよ〜ん。

  (2)omori

忙しいけど読んだ。補償はいらない。

感想

*大阪のスケールはすべからく東京の1/2。だから感激も濃密なんんだ

  ね、きっと。

*雑文の(も)才あり、だね。

*ボチボチ本腰を入れて、「著作」をものしては?

  (3)tomi

OJのピリケン紀行は懐かしい。大阪の南部でもナンバ(俗にミナミと呼ぶ)

とアベノ(=天王寺)とはちょっと柄が違う。そのミナミもキタとは気質

が違うという狭いなりち域性がある。小生学校からの帰りルートには南海

電車高野線でナンバへ出るのと、国電阪和線で天王寺へ出る2つがあった。

これが同じ場所ながら近鉄ではアベノという。天王寺公園は昔からホーム

レスの巣だった。OJによると今や本格普請のホームまでとは驚き。ところ

で小生は天王寺派で、飲むのは通天閣へ通じる新世界にジャンジャン横丁

といったところ。ヨコワは確かにあったが、それがカツオとマグロの合い

の子とは知らなんだ。それきっとウソ。確認しておきます。アカデミック

にいうと、ミナミは仁徳の時代から開けたところ。キタは大正か昭和にな

って阪急によって宝塚をはじめ開けたところ。つまり新開地ということに

なる。

  (4)OJ

ありました、ありました。

ジャンジャン横町。

JRに沿って新今宮から天王寺へ向かう途中に、

道路から少し下がったところに、

昔の新宿のゴキブリ横町みないな飲屋街が。

ちょっとひかれるものがあったが、

四天王寺を見たかったので、パスしました。

  (5)putin

訂正:大阪での思い出の食べ物に「串焼き」としたのは「串揚げ」の誤り、

カウンタの中でいろんな具をくしに刺し、薄くパン粉をまぶして揚げたも

の。串揚屋のメニューはそれだけ。揚げたての熱々をカウンタの上におい

てあるソースをつけて食す。キャベツのザク切りが置いてあり食べ放題。

ビールかコップ酒で豪勢にやる。いっぺん口につけた串にまたソースに漬

けようとすると店のオッチャンにすかさず「つけたらアカン」としかられ

たものでした。(いまはチューハイもあるんやろね)

ところでビリケン(billiken)はアメリカはミズーリ州のカンザス市生まれ、

Florence Pretzという女性アーティストによって1909年、ビリケンは

幸運の神様としてまた子供達が抱きしめて眠るマスコットとして、Joss

(中国人の礼拝する偶像)という神様が模造されたものとか。これが世界

的に広まり1912年〈明治45年〉オープンした「新世界」の遊園地では、さっ

そく「ビリケン堂」を造りビリケンを安置しました。1979年〈昭和54年〉戦

後通天閣がやっと復活し、そしてシンボルとして、新世界に馴染みの深い

「ビリケン」の復活も決まりました。

  (6) putin

ヨコワとはクロマグロの幼魚のこと0才魚(1〜3kg)が主体、前年発生し

た1才魚(6〜8kg)がある今年も境港で4月末に豊漁に沸いたそうであ

る。

つりキチの対象でもあるみたいです。

  (7)OJ

マグロの幼名総覧

マグロテーマパーク・ツナ館という、変なWeb ページによると、

次のとおりです。

===

「本まぐろの中でマメジとはなんですか?」

「マメジ」は本まぐろの子供の事です。メバチの子供は「ダルマ」、キハ

ダの子供は「キメジ」と呼びます。

===

これに、ヨコワが加わるわけですね。メジが本マグロの幼魚とは知ってま

したが、マグロの種類ごとにあるとはねえ。日本の魚文化、奥深し。

天王寺で食べたヨコワは、たしかにメジに似てましたが、

もう少し身が柔らかな感じでした。

  (8)高橋尚介

20cmぐらいの若魚を”しびこ”といい、50cmぐらいのものを“よこ

わ”といって珍重する。よく見ると、体に横の輪が入っている。少々身は

柔らかいが旨い!刺身に限る。

  (9)tomi

OJの「ビリケン紀行」はえらい反響を呼んでいる。ビリケンにヨコワに串

揚げにジャンジャン横丁に、いろいろ議論をよぶところ。串揚げにはPU

TINにも大いに意見あるところ。小生もありあり。

  (10) OJ

面白いモンですな。

結構、まじめに書いても反響がないのがいつもだけど、

今回のみたいに、仕事が少し早く終わったので、

日誌の代わりに書き殴ったようなのが、

雰囲気が生き生き伝わるんですかね。

もっとも、テーマが大阪で、経験の時間差共有ってやつがあるかな。


恐竜最新事情(OJ)2002/05/31 (金) 01:21


何を隠そう、OJは相当な恐竜フリークである。ジュラシックパークは

すべてみているし、そこに出演する恐竜はすべて名指しできることを、

ここに告白する。



この25日の土曜日に、渋谷の電力館で『恐竜最新事情』と題して、国

立科学博物館の冨田幸光氏の講演があった。この御仁、“冨”がトミー

に通じるせいか、学者ではあるが、なかなか闊達で愉快な人柄らしい。

さらに付け加えると、冨田氏は、数日前の朝日新聞にでかでかとでてい

た、セイスモサウルスの骨格模型の制作を監修した学者である。



冨田幸光インタビュー

これは聴かずばやである。早速、インターネットで申し込み、代金50

0円なりを払って拝聴した。当日、会場に着いて驚いたことに、参加者

は青少年が大半と思いきや、その逆で、OJなど若い部類に属する。最

後尾に陣取ったのだが、おおかたの後ろ姿は、“白頭掻けばさらに短く、

すべて簪にたえざらん欲す”有様。人生黄昏の様相を呈している。そし

て、さらに驚くことに、知的興味に関しては、絶滅種かと思われる中高

年のオバサンまで参加しているのだ。物見遊山気分で出かけた当方とし

ては、居住まいを正さざるを得ない雰囲気である。もっとも、講演が始

まるやいなや、隣のオジサンは大いびきで、気持ちよさそうに居眠りを

してましたが。



恐竜に興味のある方、ない方、いろいろだろうから、詳しい説明はしな

い。あまり恐竜に興味のないひとでも多少は面白いかもしれない話題を

2つ紹介しておく。



ひとつは、世界中に分布している鳥類が、小型の肉食恐竜の子孫である

ことは、現在ほどんど定説となったということ。数年前に、鶏と卵では

ないが、恐竜から鳥が分かれたか、あるいは鳥から恐竜が派生したかな

ど、議論かまびすしかったが、どうやら結論が出たようだ。これには、

分岐分類学という冨田氏の専門の分野の成果が貢献している。



それと、多少関係するが、恐竜温血動物説。恐竜といえば爬虫類だから、

これまでは冷血動物が定説だった。冷血動物は、体を温めるために“ト

カゲ”を決め込む必要がある。すべての恐竜とは言えないまでも、少な

くとも小型の恐竜に、温血のものがいたことは間違いないというのが最

近の結論だ。なぜか?それは、羽の痕跡を持った恐竜の化石がぞくぞく

と見つかっているからだ。羽は、体温を逃がさぬための仕組みだが、逆

に、外からの温度を遮ることにもなる。つまり、冷血動物に羽があって

は、体温を上げる妨げとなる。だから、羽のある恐竜は温血に違いない、

というのだ。



OJの最初の恐竜体験は、小学校の頃に読んだ中西悟道の本だった。書

名は忘れたが、ブロントザウルス(現在では、同種の化石にすでに別名

が付けられていたのでアパトサウルスと呼ぶ)やトリケラトプスなどの

名前は、そのとき脳みそに焼き付いたのである。日本野鳥の会の創始者

とされる中西悟道といえども、その時代、鳥類が恐竜の子孫であるとは、

知るよしもなかったろう。


吉田兄弟コンサート(OJ)2002/05/28 (火) 01:35


吉田兄弟は、津軽三味線のファンをぐーっと若年層へ引き下げたことで、

よく知られている。だからというのではなく、津軽三味線が前から聞い

てみたかったし、東京では、あまりその種のコンサートの開催は情報と

して入ってこないので、飛びついた。



しかし、場所が渋谷文化村オーチャードホールというのがちょっと気に

なった。大編成のオーケストラならまだしも、いくら音の強い津軽三味

線でも、あそこは大きすぎるのではないか。この時点で、気づくべきだ

ったのだ。



入場してまず、しまったと思った。ホール全体に、靄のような霞のよう

なものがうっすらと漂っている。照明の効果を高めるための煙である。

三味線とは似つかわしくない人工的な演出を予感させる。開幕の仕方か

らして、まるでロックコンサート。赤や青やのレーザー光が目まぐるし

く飛び交い、弾き出した三味線は、PAで大音響に増幅され、バチの音

だけが突出して耳に突き刺さる。背後には、和太鼓、エレキギター、ド

ラムス、キーボードなどの訳の分からん編成。アンプで増幅されてスピ

ーカーから放射される音は、確かに刺激的ではあるが、生の演奏を聴き

慣れている人間に、あの機械的な音は耐えられない。よっぽど途中退出

しようかとおもったが、金を払った以上それもしゃくにさわる。結局、

最後まで聴いてしまった。



既存の和楽、洋楽をアレンジしたもの、兄弟がそれぞれに作曲したもの

などにまざって、津軽ジョンガラなど本来の三味線ものも演奏された。

兄弟とはいうものの大分技量が違うようだ。聞き比べると弟は大分劣る。

音が薄く、表面的で、気持ちがこもらず、弾き流してしまっている。作

曲にしても同様。弟のは、あらためて作曲というほどのアイデアは感じ

られないが、兄のほうはそれなりに独自の音の世界を作り出している。



そして、何曲が聞いてゆくと、津軽三味線の音型というのか、きまりき

ったフレーズや展開手法が何度も出てくることに気づく。古典の場合は、

何でも同じだが、同じパターンの繰り返しが飽きずに聴けるのは、そこ

に奏者が表現したい内面があるからだ。残念ながら、この若い兄弟に、

まだそこまでの経験やら精神世界を期待するのは無理なのか。



しかし、最後にPAなしでやった、彼らの出世作という『モダン』とい

う曲はよかった。やはり、生の音でなくては、津軽三味線は生きない。


カンデンスキー展の印象(OJ)2002/05/27 (月) 16:11


前回の雪舟展の後、次はプラドにするか、カンデンスキーかと考えてい

た。うだうだするうちに、後者の展示期間が終わりそうになったので、

25日に国立近代美術館のカンデンスキー展を見に行った。お年寄りの

多かった雪舟展とは明らかに観客層が異なる。こちらは平均年齢も若く、

一見画学生、デザイナといった風体の客が多かった。最終日の前日の土

曜だったが、ほどほどの人数で、雑踏にうんざりするほどではなかった。



ワシリー・カンデンスキーは、いわゆる抽象画といわれるジャンルの先

駆者だ。これまでポスターや画集で見て、その自在な色の構成に好感を

もっていた。画面の中で、様々な色の領域が、互いに緊張関係を維持し

ながら、奔放に躍動している…………とね。うーん、なんか好きだなあ、

と思っていたわけだ。

ところがどっこい、実物はこれまでの印象と大分違っていた。初期の具

象画時代からすでに色遣いの特徴ははっきりしていて、これはこれで好

ましかったのだが、1910年台後半の、明確に抽象画を意識した後の

絵は、どうもだめである。一瞥しただけで、拒否反応が起きてしまう。

写真などの印象より色はややくすんだ感じだが、問題は色ではなく、線

である。この線がどうも猥雑な印象を受けてしまう。もちろん、評論家

などのコメントでそんなことに触れたものはないだろうし、まして画家

本人に、そんな線を描こうとする意図があるはずはない。しかし、自分

の時間と金を使って、無責任に見ているぼくにとっては、そうなのであ

る。美食に隠されたトゲのように、気になって没入を妨げる。彼の抽象

画は、ピエト・モンドリアンやジャクソン・ポロックのように対象の形

状から完全に解放されているわけではない。よく眺めれば、明らかに、

個別の形状を描き込んでいるし、解説を読むと具体的に表現しようとし

た事象がある(例えば、代表作のコンポジションZは、黙示録)。具象

と抽象を分ける線が、ぼくには邪魔に感じられるのかとも思うが、理由

は自分でも分析できない。ただ、“この線は嫌だ”なのである。

ド・スタールのように、TVの日曜美術館で見て、ちょっと興味が湧い

て、展覧会を見に行ったら、たちまちのめり込んでしまうこともあるし、

今度のように、長いこと好きなはずであった絵を、実物を見たがために

嫌になってしまうこともある。実物とコピーの不思議な関係を、再認識

させられたカンデンスキー展だった。



展覧会の期限が過ぎたら、近代美術館のカンデンスキーのページも消え

てしまいました。

下記に、サンプルがあります。

http://www.bsk.ynu.ac.jp/~denkazaikakai/002k/M_03.htm

指輪物語(OJ)2002/05/21 (火) 02:07


先日の集会で後藤さんから、指輪物語(The Load of the Rings)とは、

いったい何ジャという御下問がありましたので説明します。



今回の映画の原作『指輪物語』(翻訳初版は昭和47年、僕の読んだの

は第七刷で昭和56年)は、「旅の仲間」「2つの搭」「王の帰還」の

3部からなり、英語版のペーパーバックで1000ページを越える大作です。

翻訳版は、文庫で9冊になります。今回映画化されたのは第一部旅の仲

間です。残りも撮影は済んでいて、編集中とのことです。



指輪物語は、J.R.R.トールキンというオックスフォード大学の言語学者

がでっちあげた、大人のファンタジーです。同じ頃に、同僚のC.S.ルイ

スはナルニア国物語という、これも長大なファンタジーを書いています

(こちらはカメちゃんがお気に入り)。オックスフォードは暇なのか?



物語の舞台は、中つ国という架空の世界で、人間や妖精やこびとや鬼な

どの様々な種族が住んでいますが、これらは主に北欧の説話に出てくる

諸々の魑魅魍魎が原型になっています。



物語の主人公は、ホビットというこびと族の、フロド・バギンズという

青年です。フロドは義理の父親であるビルボ・バギンズが偶然のことで

入手した魔力のある指輪を相続します。この指輪は冥王サウロンが造っ

たのですが、サウロンが人間との戦いに敗れたときに、その手元を離れ

所持者を転々としています。指輪の力は絶大で、それを入手したものは

世界を支配できるのですが、邪悪な力なので平和な世界は望めません。

幸い、物語の発端では、善良なホビットが所持していたので、悪用はさ

れていなかったのです。しかし、指輪の所持者は、いずれ指輪の魔力の

虜になるという運命にあります。



かって人間に破れ死滅したかに思われたサウロンは、あるとき息を吹き

返し、指輪の所在を探しはじめます。指輪は指にはめて初めて力を発揮

しますが、同時にその所在をサウロンに発信するのです。中つ国の族長

会議で、指輪は消滅させるのが最良という結論に達します。しかし、通

常の手段では指輪は破壊できません。それが造られた火山の火口に投げ

戻すしか方法がないのです。そこでフロドは、この指輪を消滅さる使命

を帯びて、その火山へ向かって旅をします。その途中、指輪を狙うサウ

ロンの手先から何度も襲撃を受けたり、各地に生息する化け物や妖怪と

戦いながら目的を達成するというのが、物語の骨子です。



このファンタジーは英語圏では、20年くらい前に一世を風靡しました。

関連図書も多数あり、中つ国のガイドブックや指輪物語事典までありま

す。また、同名の交響曲が作られたり、とくにコンピュータ関係では、

登場人物の名前を付けた会社が現れるほどでした。その当時にも映画化

され、ぼくも見たのですが、まだCG技術がないころで、第一部だけで

失敗しています。



指輪物語やトールキンで検索すると、山のように関連サイトがあるはず

です。


奥の細道の夜(OJ)2002/05/09 (木) 19:00


久しぶりに門仲で友人と飲んだ。その帰りがけ、梓のみんなと深川を探

訪したときに、門仲近くの奥の細道の出発地点を通ったことを思い出し

ていた。帰宅して、飲み直しながら深夜TVを見ていたらNHKの奥の

細道総集編が始まった。鳥海紀行で善さんが芭蕉の句を紹介したことと

いい、門仲といい、奥の細道が妙に絡んでくるなあと思いながら、漫然

と聞いていた。やがて、番組は、芭蕉が金沢での十日の滞在を終えて、

小松へ寄ったときの話へ移った。小松は、去年の夏の白山山行で、高速

の事故で、金沢からの登山バスに間に合わなくなり、高速バスを降りて

タクシーを拾ったところだ。

そこで

    “むざんやな甲のしたのきりぎりす”

の句が詠まれたという。

番組の説明によると、斉藤別当実盛の兜が納められた寺院で、その兜を

まのあたりにして芭蕉が読んだのだそうである。実盛といえば、平家物

語に登場する武将で湯島天神近くの「実盛坂」に名を残している。この

ことは、以前の坂巡りのとき書いた。実盛は、小松辺りの平氏の領地の

別当だったという。

なんだか、いろいろな記憶が、奥の細道を軸に結ばれる夜であった。


雪舟展(OJ)2002/05/09 (木) 17:05


秋冬山水図

四季花鳥図屏風

仕事の動きがないので、国博の雪舟展へ出かけた。平日の午前中だとい

うのに、相当な混みよう。長巻ものの前には、二重三重の人垣ができて

動きがとれない。あまりの混雑に、途中で諦めようかと思ったが、絵が

そうはさせてくれなかった。山水画にそれほど興味はなかったが、流石

に雪舟の絵には、ぐいぐい引き込まれるような魅力がある。意外だった

のは、山水画より花鳥画が面白かったこと。確かに、国宝になっている

「秋冬山水図」(垂直に伸びる崖線の雄弁なこと)、絶筆「山水図」

(八十数歳とは思えない構成力の強さ)など文句なしの逸品もあるが、

「四季花鳥図屏風」の鳥たちの描写、とくに飛翔する雁の様式的な完成

度の高さは視線を釘付けにする力があった。それと肖像画がよい。「益

田兼堯像」は、とても有名な「慧可断臂図」(これは漫画か?)と同じ

筆とは思えない。最小限の繊細で的確な線で人物をみごとに描き出して

いる。折れ釘のような太い輪郭が雪舟と思っていたが、この画家の技量

の幅を知った思いだった


また「横浜工業」に戻りました。(齋藤修)2002/04/17 (水) 14:13


昨年1年別な仕事をしていましたが、また「横浜工業」に戻されました。

@電話が直通になりました。045−641−1761(建築科職員室)

A夜間の勤務に戻りました。13時から21時30分


月曜からは銀座です。(kame)2002/04/05 (金) 23:57


住所と電話番号をお知らせします。

〒104-0061 東京都中央区銀座3-4-1 大倉別館6F

TEL:03-5159-1215 FAX:03-5159-1222

会社名はエム・シー・ビバレッジ・フーズと申します。


フジコ・ヘミング(OJ)2002/04/05 (金) 22:13


幻のピアニストと、一時騒がれたフジコ・ヘミングというピアニストがいた。と

いうか、いまでもいるのだろう。聴いたことはなかった。

さっき、TVのチャンネルを回していたら、タケシの番組に、この女流ピアニス

トが出ていた。ショパンを2曲ほど弾いていた。風貌からすると、女装したマイ

・フェア・レディーのイライザのお父さんMr.ドゥーリトルといったところ。しば

らく聴いていたが、笑ってしまった。なんでちょっと上手な田舎のオバサンみた

いなピアノがそんなに騒がれたのか。風貌のせいか、数奇な生い立ちのためか、

マスコミの評判というのはこんな程度なのかなと。

でも面白かったのは、ピアノ。といっても楽器のほう。なんとベヒシュタイを使

っていた。昔は、スタイウエイ、ベーゼンドルファー、ベヒシュタイン、それと

名前は忘れてしまったけどフランスのメーカーのピアノ、それにわずかに(リヒ

テルのおかげで)ヤマハが頑張っていたけど、最近はTVに映るピアノはほとん

どスタインウエイ。ベーゼンドルファーはたまには見るけど、このベヒシュタイ

ンはほんとに珍しい。その意味では新鮮だったのだが…………


桜の三落(OJ)2002/04/05 (金) 18:43


毎年桜の開花は楽しみだが、その近辺に住まいするものにとっては、それだけで

は済まない。桜には、三つの落とし物がある。花弁と紅葉の落下、それに花柄の

落下だ。花弁や紅葉は興味があっても、花柄は気づかないかもしれない。満開を

過ぎて花弁もあらかた散った頃、なお桜の木が紅く見えるのは、あれは花柄の色

だ。花柄は花より濃い紅色である。ソメイヨシノの場合、ほとんどが着果せずに

終わるので、花に続いて花柄の落下が始まる。つまり、満開直後の花弁の掃除

(バケツに数杯という量になる)が終わると、数日後に花柄の掃除が始まる。葉

や花弁と違って、比重が大きいので風に飛ばされにくい。その分、たっぷり量が

あるわけだ。丁度今が、その頃である。


蜷川受賞(OJ)2002/04/05 (金) 18:18


今日の朝日の夕刊に、蜷川幸雄が英国の何とかいう勲章の3級を受章したと出て

いた。その際、“西欧的な伝統に従うのは抵抗がある”というような理由で、正

装のモーニングを着用せずに、コムデギャルソンのモーニングをデフォルメした

ものを着用してどうのこうのと、にこやかな写真が載っていた。まあ、最も西欧

演劇正統派の英国で日本人の演出家が評価されるのは目出度いとは思うのだが、

どうも服装がごときで伝統に抵抗云々というのはいただけない。勲章をもらうこ

と自体が、まさに伝統の規定するある価値観なり序列に自分が組みこれることを

誇らしげに認めることではないのか。

ま、勲章などもらう可能性のまったくない人間のやっかみであるが、あまり掲示

がでないのもさみしいので書いてみた。

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