この旅行記は3部にわかれていますので、
巻末で次へお進み下さい。

                   橋元武雄 冨山八十八 2011年10月8日

                       Photo by T.Nakamura, Z.Suzuki
                          & T.Omori,T.Hashimoto,F.Gotoh
                            Sketch by Y.Tomiyama



 中岳から見る御池と久住山(H)

概要
●行程
9月22日 九州へ
  23日 別府市街、杵築城趾、熊野磨崖仏、真木大堂、富貴寺、宇佐神宮
  24日 登山組  九重連山中岳
      散策組  小国町
  25日 阿蘇山、岡城趾
  26日 菅原天満宮、太宰府天満宮
●参加
冨山、後藤、鈴木、金谷、高橋、橋元、大森、中村、田中、亀村


     去年に予定していた30周年旅行の計画が諸事情で今年に延びた。正確には31年目だが半端だから30周年記念としておこう。5月20日の華屋の集会で全員が揃い、1年遅れの30周年記念旅行はカメちゃんの奥さんの実家の別荘(大分県玖珠郡九重町大字菅原)をベースにさせてもらうことになった。
     スケジュールの概要は後藤、大森、亀村のオフ会で立案され、梓のネット掲示で周知された。航空券・レンタカーなどの手配は後藤さん、行動計画や装備のリストアップは大森氏、別荘の手配はカメちゃんにご苦労を掛けることになった。
    9月10日の1時から三州屋で最終的な準備会が開かれた。事前に連絡のあった田中氏以外は出席の予定だったが、大森氏は義兄の葬儀のため、カメちゃんは急病を発した義父の見舞いのため参加できなくなり、計画立案の中核を担った3人のうち後藤さんしか出席できない事態になった(出席は、冨山、後藤、鈴木、金谷、高橋、中村、橋元)。とはいえ後藤さんが全容を把握しているので集会の目的に支障はない。後藤さんから航空券の予約券を受け取り、計画の説明と買い出しを分担で行うことなどが通知された。
    ま、かような次第で梓31周年九州旅行は無事に開催される運びとなった。
2011年9月22日(木曜日) 九州へ

 昨日は台風15号が列島を縦断し大きな被害を残したが、今日は台風一過の快晴。台風が北側 を通過したために東京は蒸し暑い夏に戻った。11時半に羽田の国内線第2ターミナル中央に集合。 別便の田中氏以外は全員が予定前に揃った。手荷物を預け、ANA253東京→福岡便で定刻12:30に 羽田を飛び立つ。台風のあとで大気の不安定も予想されたが、さほどの乱流には遭遇せずに福岡 空港に着陸した。それにしても、空気より重いものが数百人の命を載せて飛ぶなどとは信じられ ない。

 空港から外へ出ると東京の蒸し暑さは嘘のようで、空気がひんやりしている。台風は九州の東 を北上したから、大陸の冷気を引き込んだようだ。福岡空港駅前の日本レンタカーで、8人乗りの ステップワゴンと5人乗りのセダンを借りる。ワゴンはカメちゃん、セダンは善さんが運転して、 あらかじめ大森氏が調べておいた近場の「スーパーセンター・トライアル」で食品や小物を買い 集めた。備品リストで各自が購入する品目が決まっているので手早く済むかと思いきや、日頃慣 れた大手のスーパーと違って売場のレイアウトに一貫性がなくだいぶ手間取った。カメちゃんの 話ではトライアルは低価格が売りで関東へも進出しているそうだが、売場の乱雑さや品質を見る 限りあまり見込みはなさそうだ。それにしても豆腐一丁19円には恐れ入った。

 今回ぼくは運転をしないし、カーナビがあるので地図を調べる必要もない。便利にはなったが、 どこをどう通ったか記憶に残らない。大分自動車道を玖珠ICで下りて、豊後森駅に寄り、実家で 母上を見舞ってから合流する田中氏をピックアップする。バスで来るつもりが乗りおくれ、タク シーを使ったので散財だったとか。

 別荘は「スパリゾート奥宝仙寺菅原」という別荘団地の中にあった。宝仙寺温泉は、今回縦走 を予定している九重連山の北西15キロほどに位置する。別府湾と有明海を結ぶ線を1対2で分ける ほどの位置になる。国土地理院の地図ではこの山域は「くじゅう連山」とひらがなになっている が、漢字は九重あるいは久住のいずれも用いるようだ。山巓としては「久住山」と書き、地図の 区画名も「久住」、「久住山」となっているが、町としては「九重町」と書いて“ここのえまち” と読むからややこしい。


 2階建ての白い洋館(G)

 広いリビング(O)

 山荘は東向きの斜面に建つ2階建ての白い洋館。相当年季が入ってい るが、新しいころは瀟洒な山荘であったろう。近隣の建物はやや密接 しているが、周囲の木立は深くリゾートの雰囲気に相応しい。車が2台 なので駐車が心配されたが、道路から庭へ入って一段高い位置にある 駐車スペースのほかに、そこへいたる斜路にも駐めることができて落 着。隣の敷地にある若い栗の木の枝が、生け垣越しにこちらにさしか かっていて、大きな実を含んだイガがたくさんこぼれている。到着早 々、結構な収穫があった。

 長いこと使っていなかった別荘はカビの匂いが立ちこめ、床には虫の遺骸が散らばっている。 1階は屋根まで吹き通しの広いリビングを中心に、東にベランダが張りだし、北側に和室、南側 にはとてつもなくでかい風呂場がある。八畳間ほどの広さがあり、湯船もへたな民宿の風呂もか なわないほど広く深い。カメちゃんが早速掃除をして湯を入れたが、満杯には2時間ほどもかか ったか。浴室から庭側の戸を開けると、なんと露天風呂まで付いていた。中2階が2層に分かれ、 下段が台所と食堂、上段が和室で、最上階にも和室がある。みんなで手分けして、すべての窓を 開け放ち掃除に取りかかる。さすがに広い山荘も、これだけの人数がかかるとたちまち快適な住 居に戻る。

 あとは宴会を残すのみだ。まずは、オーナーの死去という突発事態にもかかわらず、この別荘 の利用を許してもらったご遺族とカメちゃんに感謝しなければなるまい。大森氏がトライアルで 仕入れた天然物のブリの刺身から宴会が始まる。よくも同じ仲間で30年以上続いたものだという 感慨から、明日の行動予定などを話題に賑やかな宴が続く。以前、齋藤君がアズサハイマーに罹 かったわれらがために『うわばみ』という歌集を作ってくれたが、今回は後藤さんがその新版を、 装丁も同様に作ってくれた。冨山さんの蛮声が聞かれなかったのは画竜点睛を欠くが、まあわれ われも相応の歳である。宴会は恒例により後藤さんのペペロンチーノで終わった。


 居心地のよい部屋(G)

 やはりこのひとときが・・・(G)

 温泉リゾートなのだから、泉質について触れておかねばなるまい。ここの温泉の湯は、無色、 無味、無臭で一見なんの特徴もない。しかし、この湯に浸かってみると、とても気分がほぐれる。 風呂に興味のないわたしが言うのだから間違いない。みんなの意見も同様であった。


2011年9月23日(金曜日)  別府市街、杵築城趾、熊野磨崖仏、真木大堂、富貴寺、宇佐神宮  快晴である。今日は国東半島方面を散策する。

 葬式に参列するカメちゃんを別府駅まで送る。今夜が通夜、明日が告別式で、明後日に阿蘇で 合流する予定だ。途中、大分自動車道の別府湾SAから別府の町並みと湾岸に沿った工業地帯を一 望する。海に面して相当な高台にあるので風が吹くとおちおち景色を眺めてはいられないようだ が、今日はほとんど風がない。金谷氏は、2002年2月の屋久島の縦走でかぶっていた赤い綿入れ帽 子をかぶって飄々と歩いているが、通りがかりの子供らは、その異様さにぎょっとして立ち止ま り、まじまじと眺めていた。ICから駅へ向かう別府の町並みは大きな公園やきれいな建物が櫛比 して観光の町らしく整然としている。

 別府湾と高崎山(N)

杵築城跡と城下町  国東半島は、別府湾に向かって小さく口を開けた人の横顔のように見えるが、杵築はそのちょ うど口元に位置する。八坂川が町の南側を流れて別府湾に注いでいる。川に沿って東西に2筋の丘 陵が走り、それらの東端、河口まぢかで別の丘が海へ向かって立ち上がっている。その丘が杵築 城趾の城山公園である。2筋の丘陵は南台、北台と呼ばれる武家町があり、それらに挟まれた谷間 には町家が発達している。町の案内には「サンドイッチ型城下町」とあった。われわれがまず訪 れた城山公園には、この地方一帯に残されていた庚申塚や石仏群が多数収集されている。河口に 突き出した城域の先端に天守閣が復元されていて、そこから望む八坂川の干潟は壮観だ。この河 口には何億年も前から姿を変えていないカブトガニが棲息するという。


 八坂川干潟の壮観(G)

 杵築城にて(G)

 城山公園を出て城下町へ向かう。一方の武家屋敷街から町人街へ下る広い石段が、さらに登り 返してもう一方の武家屋敷街へ至る。こうした石段が何条かあって城下町を横断している景観は 珍しく、一見の価値がある。城下を一巡して南台武家屋敷の東端にある一松邸を訪れる。お城か ら一歩東へ引いた位置だが、お城同様に河口に面した小高い丘の上にある大邸宅である。どのよ うな気象でも雨戸一枚しか防御の術がない。こんな木造建築に住まいした人は、台風のときなど どんな心境だったろうか。よくよく説明板を読めば、昭和初期にこの地の大物政治家だった一松 某氏の旧宅で、本来は他所にあったものを移築して記念館としたらしい。なんだ、ここに来てか ら人は住んでいなかったってことか。

 杵築城遠望(N)

 ちょうど時分だったので、一松邸の敷地内にある食堂で昼にした。町のどこを見て回っても観 光客らしき姿はあまり見かけなかったが、絶好の景観を期待できるこの食堂にも他に客はいない。 瓶ビールはアサヒ、生はサッポロというので、ドライバーの大森氏と善さん以外は全員生ビール にした。ほとんどがトンカツ定食を、残りが団子汁(要はすいとん)をメインの郷土料理などを 頼んだ。若い女性が一人で接客をして厨房にはやや年配の女性が一人。案の定、数の多いトンカ ツ定食がなかなか出てこない。給仕の娘さんが気にしてしきりに詫びをいう。だいぶ待たされて 出てきたトンカツはあまり見かけない姿をしていた。普通、トンカツというと一枚のロースをま るごと揚げてから切り分けるが、ここのものは肉を切り分けてから断片に衣を着けて揚げてある。 ブタの短冊揚げか?増量にはなろうが摂取カロリーがいたずらに増えるだけ。普通なら長く待た されて、こんな品を出されては機嫌のよかろうはずはないが、娘さんの対応が素直で好感が持て たので気分は壊れなかった。彼女、あまり遅かったからと謝りながら、最後に刺身(タコとイナ ダ)の小鉢をめいめいに出した。揚げもののあとで刺身を食うのはいささか苦しくはあったが、 彼女に免じて責任分は片付けた。

 志保屋の坂上から北台武家屋敷酢屋の坂をのぞむ(G)

 さっと一回りして食事をしただけで杵築の町を去ったが、ここだけでじっくり1日かけても面白 かろう。このあとは国東半島の東側に点在する史跡を訪ねる。

熊野磨崖仏  麓の胎蔵寺からしばらくは林に囲まれた沢沿いのなだらかな坂を登る。昨日は、夜半、寒くて 目が覚めたくらいだったのが、午後にもなると気温が上がり、長ズボンを選んだのを後悔するほ ど暑くなった。参道が石橋で沢と交差すると、その先は急勾配の石段になる。石段といっても大 きな石を敷き詰めてあるだけだから歩きにくい。この凸凹の石段、鬼が積んだという伝説がある そうだ。99段あるというが踏み面が揃っていないから段数を数えようがない。善さんはひょいひ ょいと登っていってしまったが、冨山、後藤、両重鎮はだいぶ苦しそうだった。正直、これは少 しきついかなと思ったが、無事に磨崖仏まで到達できたようで目出度い。石段を登りきると左手 に林が開けて数十メートルの垂崖が見えてくる。その壁面に大きな石彫りの頭部だけが2つ並んで いる。手前が不動明王、奥は大日如来だという。全身像としなかったのは途中で諦めたのか、そ れでよしとしたのかわからないが、二像の作風はまったく異なる。峻厳な雰囲気を帯びて瞑想に ふける大日像に対し、不動像は下ぶくれのオカメのようで愛嬌に満ちている。不動明王の図像的 な特徴のひとつに、左右の牙が上下逆向きに生えていることがあるが、それを表現する口元が、 技巧の稚拙からか意図したものか、笑いを噛み殺しているように見える。石段は磨崖仏からさら に上へと続いている。最上部に神社があり、それに対面して参籠に使われたかのような別棟もあ った。神社の向拝にはサカキ、灯明だけでなく線香が供えられている。普通、関東辺りでは榊に はヒサカキが使われるが、ここは本当のサカキだった。

 磨崖仏参道入り口(S)
 不動明王像(G)
 大日如来像(N)

 石段の下りは上りよりやっかいである。途中に立派なカゴノキがあったので写真を撮っている と、登ってきた男性が「虫ば撮っとっとですか」と声を掛けてくる。「いやこの樹皮がきれいだ から」と応えると、「はあ、そういう見方もあっとですか。勉強させてもろうた」と呆れたよう に通り過ぎていった。そういえば、明確に方言といえるものを聞いたのはこのときだけだったろ うか。商店や飲食店での対応でも、とおりすがりの子供たちの会話でもほとんど標準語が使われ ていた。生物の多様性の保存はやかましくいわれるが、文化も均質化することがいいのかどうか。

 参道を下りきってそのまま車へ戻ろうとしたが、先に下りていたチャウに胎蔵寺が面白いと声 をかけられたので、覗いてみた。この寺には面白い慣習があって、境内にある七福神などの石像 に銀紙を貼り付けると御利益があるという。たしかに、銀ぴかの彫像が何体か庭前に並ぶ様子は 奇観であった。第65世住職の説明書きに、「近年、宝くじが当たると評判になりました」とあり、 銀紙を貼った像を「キンピカ様」と呼ぶという。そういえば、谷中の七福神に赤札を貼ると願い が叶うという仁王像があったなあ。

真木大堂(馬城山伝乗寺)(まきおおどう(まきさんでんじょうじ))   県道脇の小さなお寺だがかつては六郷満山六十五ヶ寺の本山だったという。広大であったろう その寺域の塔頭にはそれぞれに仏像が奉られていた。火災や寺勢の衰退で失われていった堂宇か ら9体の仏像が難を免れてここに集められている。現在の伝乗寺は境内の中心を9体の収蔵庫(真 木大堂)が占め、その脇に本堂が付属している。寺院というより、仏像の保存を目的とする宗教 法人といったところか。パンフによると、本堂と思ったのは旧真木大堂で、収蔵庫内の仏像はも とはそこに安置されていたという。全員の入場料を払おうとするチャウに、係のオバサンが、ぶ っきらぼうに「何人?」と応じたというのでチャウはお冠であった。しかし、帰りがけにぼくが 通ったときは、中からありがとうございましたと声がかかったので、チャウのときの無愛想な婆 さんとは別人らしい。


 旧真木大堂(G)

 大威徳明王像(N)

 真木大堂は空調の効いた博物館の陳列室のようであった。入口で上履きに履き替え自動ドアか ら室内へ入ると、黒い大きな垂れ幕が視界を妨げている。その大幕を左から分け入る。照明を抑 えた薄暗い室内のガラス張りの奥に、古色を帯びた仏像群が並んでいる。大威徳明王、阿弥陀如 来と四天王、不動明王と2童子。まず目に飛び込んでくるのは、左正面の大威徳明王だ。亡くなっ た坂上二郎やタフマンの伊東四朗に磨きを掛けたようなガッシリした面相で参拝者を睨めつける。 その分厚い顔の左右にも各1面があり、頭部にさらに3面を重ねてある。牛の背中に跨がる明王の 体躯は頭部の量感のわりにはキャシャに見える。明王を載せる牛はつぶらな瞳を伏し目がちにし て従順を示す。中央に坐す本尊の阿弥陀如来は顔面から胸元にかけて金箔が剥がれて黒い膚を露 わにしている。この艶やかな黒さは地の漆が表れたものだろう。まさに漆黒である。平安期後期 の作という如来の面相は素人にはこれといった特徴は見いだせないほどバランスよく整った印象 を受けた。如来の周囲を長身痩躯の四天王が囲み、振り向きざまに四方を睨んだ姿勢で停止して いる。兜や衣裳は繊細に作り込まれてはいるが、どこか動きが固く躍動感に乏しい。右端の不動 明王像立像は木造としては日本一大きいそうだが、あまり印象に残らなかった。

富貴寺(蕗寺(ふきじ)  パンフによれば、六郷満山富貴寺とあるので、真木大堂の伝乗寺の末寺になるのか。ただし、 六郷満山の正確な資料は残っていないという。道路を隔てた駐車場から蹴上げの低い石段を登る とちいさな仁王門がある。左右の石像の金剛力士は人ほどの背丈しかなく、いくら威圧してみせ ても怖くない。茨城の僻地といっていいような我が家の周辺にある寺の仁王像でさえ金網を巡ら せてあるというのに、ここでは囲い込むようなそぶりもない。ちょいと手を伸ばせば仁王のおで こを撫でることさえできる。左の呍像などは朝青龍がプーチン首相にワープしそこなったような 容貌である。仏像には興味のない金谷氏が、今回唯一記憶に残った像であったという。


 富貴寺大堂(G)

 仁王門(G)

 金剛力士(N)

 阿弥陀如来像(G)

 仁王門をくぐると、カヤの大木一本から造られたという富貴寺大堂(おおどう)が姿を見せる。 まず端然と三間六扉を閉ざした正面と、宝形造りの瓦屋根が目に入る。深く張りだした軒の下に 回廊がめぐらせてある。惜しむらくは瓦屋根が視覚的に重すぎる。昔は同じ寸法の檜皮葺だった と思いたい(藁葺きだったかもしれないが)。ここは白水や平泉の阿弥陀堂とならぶ日本三大阿 弥陀堂と呼ばれるという。なかには平等院の鳳凰堂を挙げるひともいるが、あれはお堂の形式が 違う。やはり、宝形造りでないと条件が揃わない。“日本三大”とは著名な2つに自身を付け足せ ばいいなどと冗談を言っていたが、このお堂を目の当たりにすると、まんざら便乗三大某ではな い。なんたって、国宝!!!

 回廊に上がって左右の側面から堂内へ入ることができる。靴を脱ぐのが面倒とばかり金谷氏は 縁にはいつくばって堂内をのぞき込んでいた。中央の須弥壇の四隅に通る太い柱が目を引く。構 造的に必要な太さではないから、須弥壇を結界する意識が働いているのだろう。阿弥陀本尊の金 箔も背後の壁画もすべて剥落して生地の木材が露わになっている。建立当時は須弥壇の柱も、お 堂周囲の内壁も含めて、さまざまな色彩で荘厳されていただろうが、われわれはこの姿のままに 受け入れるしかない。部分的に彩色を残す真木大堂の阿弥陀像に対しこちらは完全に素木に復っ ている。容貌はあちらの威厳に比してこちらは親愛の情を催させる。おそらく頬から顎にかけて が小作りだからだろう。

 お堂の周囲には保存のため近隣の石像・石碑が集められている。杵築城や伝乗寺でもそうだっ たが、この地方独特の形式という国東塔がここにもあった。宝篋印塔の一種かと思うが詳しくは わからない。笠塔婆も珍しかったが、パンフにあった板碑(いたび)を見そこなってしまった。 これも卒塔婆の一種で、小振りの石版に種字(しゅうじ)を刻んだものだが、関東地方に独自のものとばかり 思い込んでいたのだ。 今日の観光の最後は宇佐神宮へ向かう。

宇佐神宮  全国の神社の中で一番多いといわれる八幡神社の総本宮になる。神社党としては興味があって 希望した。これを機に少し調べてみたが、自分の知識が不正確だったこともあり調べれば調べる ほど混乱してくる。

 ここの祭神は応神天皇、比売大神(ひめおおかみ)、神功皇后の三柱で、それぞれ一之御殿、二之御殿、三之御 殿に奉られている。主神の応神についてだが、その母は神功皇后、子には16代仁徳がいる。しか し、記紀の記載に仁徳との事績の重複・混同、系統の齟齬などがあり、この天皇の実在性はいま だ確認されていない。一人の天皇の事績を応神、仁徳に分けたとする説などがある。実在の真偽 はおくとして応神がただちに八幡神かというとなお疑問がある。

 応神を八幡神とする根拠は、宇佐神宮に伝わる「鍛冶翁(かじのおきな)」の説話によるという。 これによると、欽明天皇32(571)年、大神比義(おおがのひぎ)という人物の前に、3歳の子供が出現して 「われは誉田の天皇広幡八幡麿なり。わが名は護国霊験威力神通大自在王菩薩で、神道として垂 迹せし者なり」と告げて金色の鷹となって飛び去ったので、近くに神社を建てた。 それが宇佐神社の始まりで、この誉田の天皇が応神(諱は誉田別(ほむたわけ))を指すという。

 ちょっと脱線するが、この託宣には神仏混淆の意識が明確に表明されている。仏教伝来は552年 or 538年といわれているから、ほんの20〜30年の間に神道の中にこれだけ仏教の影響が浸透して いるということになる。 しかしこの話なんだかおかしい。冒頭、「菱形池のほとりの泉」と八幡神出現の場所を述べてい るが、その後、3回の遷宮ののち現在の場所に鎮座したという。なぜ最初から霊験の現れた現在 の位置に社を建てなかったのか。

 さらに不思議なことがある。宇佐神宮の託宣に、大分(だいぶ)八幡神社が本宮であると述べられている という。そして、大分八幡は筥崎八幡の元宮だともいう。ならば、大分八幡が筥崎より宇佐より 古い根源の社なわけで、その祭神こそが本来の宇佐の祭神のはず。一方、鍛冶翁の伝承からは宇 佐の祭神は鍛冶の神、つまり、鍛冶を職掌とする人々が祀る神だったのではないかという考えも 出てくる(柳田国男)。ここからは、以下、勝手な想像になる。宇佐の神職であった大神比義が 宇佐の地位を高めようとして、あのような話を思いついて宇佐の祭神と応神天皇を習合した。す るとそれが評判になって、鍛冶の神は廣幡八幡神に吸収され、八幡神と略称されるようになる。 現在は、この3社ともに応神を主祭神としているが、これは後の世の逆照射であろう。ちょっと 思いついたので書いてしまったが、この手の考察は掃いて捨てるほどあるだろう。二之御殿の比 売神を宗像三神とするのも疑問があるが、紀行文からだいぶそれてしまったので、ここまでにし よう。


 大鳥居と玉砂利の参道(N)

 鬱蒼とした木立の中の春宮神社(G)

 宇佐神宮の広い駐車場に車を駐めて参道正面へ向かう。駐車場と参道は並行しているのだが柵 があるので大回りしないと参道へは入れない。参道入口の商店街を過ぎると遙かに鳥居が見えて くる。この神社、尋常なスケールではなさそうだと感じる。コイやカメがたくさんいる川を渡り、 神宮庁の前の広い砂利道を延々と歩く。このときは、まだ知らなかったが、この砂利道の左側 (工事中のトイレの奥)が伝承の菱形池だった。「皇族下乗」の掲示からさきは緩やかな登りに なる。階段を数回折れ曲がって、若宮を右に見て左折すると上宮の鳥居(宇佐鳥居)から奥に西 大門を望む。西大門は閉ざされていて右の脇門からはいるが、そこは上宮の側壁が見えるだけ。 さらに右手から回り込むと、一般人の入れる最奥の神域へ達する。くどくど書いたが、どうも日 本の神社はストレートに神とは対面させないのが決まりのようだ。小さな神社は別として、参道 入口から正面に拝殿を望むことはあまりない(靖国は例外か)。“直視”を避けているのかも知 れない。


 上宮・一の御殿、二の御殿、三の御殿(G)

 御殿は回廊に囲まれている(N)

 梓もいろいろな神社を見ているので、なるほどこれが宇佐神宮の本体かと思うだけで、とくに どうという印象はない。朱塗りの回廊に囲まれて中に複数の社が並ぶ様からは春日大社が思い浮 かぶ。大森氏がいみじくも言ったように、どうもこの朱塗りというやつは安っぽくてありがたみ が薄い。朱塗りのいわれを調べてみたが、まっとうな資料は見当たらなかった。中国・仏教の影 響という説が多いがどうか。朱の色が厄除けの意味を持つからというのがすんなりくる。それに しても、神社の意匠は、朱、白木、黒漆、黒木(樹皮を剥がない自然木)と多様なところが自然 発生的な日本の神に相応しい。

 帰りはさっきの若宮のところを左へ階段を下って下宮を訪ねる。上宮とおなじく三神が三御殿 に祀られているが小規模で訪れる人も少ないようだ。宇佐神社は本日の行程の最後で、時間も少 なかったが、近場にあればあと数回は訪れてみたいが。

『その2へ』
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