なぜ運河の土手にビリケンがまつられているのか。

              2002/11/24 亀村 通



 運河のビリケンさん

 石像の裏側
昨日(11月23日)、僕が30年近く通っている地元の床屋で運河のビリケン像についてある程度真相がわ
かり、今日図書館でそれを裏付ける資料を見つけました。

実は僕が通っている床屋は、運河の土手近く例のビリケンさんと県道をはさんで反対側にあるのです。
ビリケンさんは森田さんという屋敷の敷地内の道路沿いにまつられているのですが、もともとはその近
くにあった大師堂に弘法大師像とともにあったというのです。この床屋さんは平井さんというのですが、
生まれ育った実家は森田さんのお隣で、子どもの頃からその像は知っていたけど昨日僕がビリケンを教
えるまで、てっきり風変わりな地蔵さんと思い込んでいたとの事です。平井さんの話だと森田家はもと
もと「運河の社長」だった人の家だそうで、昔は地平線のところまで森田家の敷地であったが戦後の農
地解放で今の屋敷しか残らなかった、今はおばあさんが独りで住んでいて跡継ぎの長男は中部電力勤務
でずっと名古屋にいるとの事。
平井さんに髪をやってもらいながら昨日聞いた話はこんなところでした。確かにビリケン像の後ろには
「建立森田繁○」の文字が彫ってあるのが見て取れます。建立時期は弐年五月と言うのはわかりますが
弐の前の文字がよくわからない、たぶん年号だと思うけど。

今日図書館で「醤油から世界を見る〜野田を中心とした東葛飾地方の対外関係史と醤油(崑書房)」と
いう本を借りてきました。 600ページを越える本ですがこれの最後に「ビリケンと森田繁男」という章
があり、これに件のビリケンの経緯が詳しく出ていました。
明治の末から大正12年にかけて、わが住処運河の駅のそばには「森田果樹園」といういわば観光農園が
あったそうです。この果樹園ではぶどうを中心に梨や桃など数万本の果樹が植えられていたといいます。
ここは観光名所として当時のガイドブックにも載っていたそうで、果樹のほかにも休憩所や運河霊場の
札所があり、この札所に弘法大師とともにビリケンがまつられていたとのことです。森田繁男は明治29
年に利根運河会社に入社しています。明治23年に2年の歳月を費やして完成された利根運河、実は私企
業だったのです。果樹園が開設された明治45年、森田は運河会社の支配人になっていました。当時既に
柏・野田間には鉄道が敷設され、トラックによる陸上輸送も徐々に発展し、運河を利用した水上交通は
斜陽となっていたようでした。
森田は既に最盛期を過ぎた運河経営に代わり、果樹園を中心とした観光地をこの運河の地に目論んでい
たようでした。人集めのために果樹園のほかに「新四国八十八ヶ所霊場」を開設し各所に弘法大師を祀
り、大正2年5月に福の神として当時大流行のビリケン像を建立したという事だそうです。この頃ビリ
ケン像は日本各地に建てられたとのことなのでこれを探すのも面白そうです。ところで、私企業として
頑張ってきた利根運河は、昭和15年に閉鎖され翌昭和16年国に買い取られ、以降本来の目的を失い利根
川の洪水調節だけのものとなり、現在に至っているとのことです。
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