天国と地獄の山小屋体験

−−読売新道を登りブナ立尾根を下る 橋元

Fri, 20 Aug 1999 23:13:12


99年梓夏山 読売新道を登りブナ立尾根を下る

メンバー:中村、橋元
期日:8月11日〜15日

1999年8月12日 木曜日
曇り、夕方から雨。

夜行バスは早朝5時前に扇沢着し、当日券売り場前で行列する。発売開始までの間
ザックを置いて、めいめい仮眠、朝食などをとる。7時の臨時の始発トロリーバス
に乗車。ザックは別のトラックへ乗せ、15分ほど後立山連峰を貫通するトンネルを
走る。途中、大破砕帯突破の苦労話を録音のアナウンスで聞く。何度聞いたことだ
ろう。

黒部ダムを渡る途中で、読売新道の主峰である赤牛岳が遙かに見えるはずだったが、
雲がかかって視界はない。対岸の遊覧船の待合所前で荷造りをして出発する。

歩き出してすぐに、装備からして上の廊下へ向かうと思われる団体に抜かれる。10
名以上いたろうか。リーダー格は相当な沢慣れした風采・装備であるが、なかには
平地を歩くだにバランスの悪い女性もいる。“大丈夫なのかなあ”と、思わずつぶ
やいてしまった。

平の渡までは基本的には水平道である。しかし、道は平坦とはいかない。大きな支
流があると、それに引き込まれて延々と迂回しなければならない。特に最初の迂回、
ロッジくろよんから始まる御山谷の迂回が一番長い。小一時間もかかって本流沿い
に戻ると、ロッジはまだほんの間近に見えてがっかりする。それに崩落個所の高巻
だ。梯子が掛かってはいるが、ほんの数メートルの崩落を高巻くのに、何十メート
ルも梯子を上り下りしなければならない。個人装備、行動食、ウイスキー1本の他
に、今夜の宴会用の味噌漬牛肉1キロ、サラダ用野菜、枝豆2袋、ビールロング缶
10本、酒1升4合を詰め込んだザックは、日頃マウスより重い物を持ったことの
ない人間にはこたえる。肩にぎりぎり食い込んでくる。

途中、今回携行する酒に話しが及ぶと、出るは出るは。大森リーダー苦心の計画で
最低限のウイスキーだけに押さえたはずが、個人装備の酒をだれもが用意している
のだ。今夜の宴会についてはぼくの担当だ。前記の酒とビールはそのためである。
少したっぷり目だが初日はまだ下界だから良かろうと思ってそうした。ところが、
齋藤君が個人装備として酒4合、ビールのロング缶4本持参。善さんも酒を持って
きているという。なんだか、これは多すぎるのではないか。こと酒に関しては、梓
のメンバーは極度に自己防衛本能が発達しているらしい。リーダー苦心のウイスキ
ー作戦はもろくも潰えた。

ときどき山道に化粧品の香りがする。近くに化粧をした女性はいないし、何の香り
かなあと思っているとソバナ(杣花)であった。いままで何度もソバナには出会っ
ているが気付かなかった。善さんはタケシマランに似た花といったが、なるほど色
や大きさは違うが、花弁の開き加減が似ていなくもない。

平の渡しの渡船場へは11時40分頃に着いた。ダムの水位が下がっているので、船着
き場は水平道から遙か下方にある。乗降用の階段も水面に達する前に途切れ、さら
に斜面を下る。すでに桟橋は先ほどの団体が占拠している。到着順に下から登山客
で階段が埋まっていく。酒が余っていることははっきりしたので、平の小屋でビー
ルを冷やして飲もうと思っていたが、12時丁度の発船なので、残念ながら小屋まで
行って冷やしている余裕はない。ビールを諦めかけたところで、齋藤君がしぶとく
湖水でビールを2本冷やすという。あまり冷えるとは期待できなかったが、反対す
る理由はない。しばし待って、ややぬるいが今日はじめてのビールを口にした。こ
れで気分的にも栓が抜けてしまったのか、対岸に渡ってから次々とビールが開き、
目的地までに6本のビールが空いてしまった。

乗船する客は多く、船の定員は12名。小屋から降りてきた操船者は客の数を見て、
2回往復すると言う。それでも各回、定員遙かにオーバーである。かろうじてわれ
われは最初の船に乗れた。乗客を何の秩序もなく勝手に乗船させるが、乗ってから
後尾のデッキや客室入り口までは、左右の狭い船縁を行くので、一方に何人も乗れ
ばバランスを崩して危険だ。あまりに無神経に一方の縁に客が集中するので、こち
らはその逆側に沿って進みバランスを保つ。よく平気でいられると感心してしまう。
先頭にいた団体は船室に入っているが、この過積載状態では、怖くて船室などへ入
る気はしない。いつ転覆事故が起きても不思議はないと思った。

対岸の船着き場からはまた階段を登り直す。これが結構きつい。この登りで、たま
たまトップの大森、齋藤が後になり、チャウがトップを引く。当人はばてばて状態
らしいが、後方にいるより良いペースをキープしている。後から追いついてきた大
森リーダーから、ペースに関するお褒めの言葉とともに、以後トップに指名される。
チャウ自身はひたすら自分との格闘に神経を使っているので、きょとんとしている。
よく足弱なメンバーを2番手にというがあれは嘘だ。確かに、ルートファインディ
ングが難しいときはそうはいかないだろうが、普通の道なら先頭に立ったものは自
然にペースが上るものである。

途中、狭い沢の上手にカモシカの幼獣を見た。カモシカに限らす、普通のシカでも
人間に見つかると、フリーズする。動くと目立つかららしいが、この幼獣、たしか
に体は動かさないが、頭を巡らせてこちらを眺めている。これではフリーズの意味
がない。人間界に限らす、親の教育が足りないのはカモシカも同じらしい。

渡り返した後の、最大の難関は梯子の大高巻きだ。これは相当のアルバイトである。
読売新道隊はだめだが、最初から沢装備を出す用意があれば、湖が終わって沢が出
てきたところで、河原に降りてしまい、足づくろいをして渡渉を繰り返したほうが
楽かもしれない。

やがて、はるかに小屋が見え出す。早く着きたい一心で、奥黒部ヒュッテだと叫ぶ
が、それにしてはいかにも掘っ建て小屋風だ。近寄って看板を見ると、流量計測所
だった。これは以前なかった。かって来たときは砂礫だけだった河原は、緑の濃い
草原となり、あちこちに木が生えて疎林の体をなしている。河床林の前駆的な姿な
のだろう。このまま林に成長するのか、または洪水でもとの河原に戻ってしまうの
だろうか。

東沢出会いの仮設橋を渡れば、すぐに奥黒部ヒュッテ前の幕営地である。やっと到
着だ。これで重荷から解放される。しかし、到着後すぐに雨が強く降りだす。サイ
トを探すまもなく、大森氏から上の廊下隊も小屋泊まりとする案が出される。読売
新道隊は最初から小屋泊まりの予定だったが、雨の中、小さいテントで5人の宴会
は盛り上がらないだろうと全員ヒュッテ泊まりとなる。

奥黒部ヒュッテの主人(管理人?)は、一見愛想はわるくないが、三流ホテルのマ
ネージャーのような極めて機械的な対応をする男であった。われわれは2階の大部
屋へ通された。結局、そのあと登山者が2人増え、7人が同室となるが、山小屋の
部屋割りからすればがら空きに近い状態だった。ここには、自炊用の設備はなく、
通常は、玄関前のテーブルで炊事をするという。今日は雨が降っているので、宿泊
客の食事が始まる前に、食堂で炊事を済ませることになった。

夕食は、コッフェルにあふれんばかりのボリュームサラダ、味噌漬け牛のボイル、
枝豆である。メインの牛は、値段はいつもと同じだが、これまでで最高の肉質であ
った。そこで5時までを過ごし、やがて小止みになったので、外へ出て宴会を続け
る。暗くなると、夕食の済んだ食堂へ戻ってまた継続。最後は、そーめんで〆とな
った。良く覚えていないが、ずいぶん食べたような気がする。善さんは例のトラン
ス状態でまったく食べなかったので、その分まで食べてしまったかもしれない。

部屋へ戻るとあとから来た登山者が勝手に寝ている。それを齋藤君が適当にあしら
って、われわれだけのスペースを確保する。体を横たえたら、あとは一言二言話し
をしたのかどうか。深夜バスの寝不足で、ほとんどパタンクーの状態だった。

夜中、雨音で目覚める。結構な降りである。こちらはともかく、上の廊下隊の先行
きが心配だ。

1999年8月13日 金曜日
朝方には、幸運にも雨はあがった。が、好天とはいかない。

朝食も、食事付きの客より2時間ほど早起きして、冨山風にらうどんで済ます。豪
華にビールも一本出る。

6時。小屋前で齋藤君に記念撮影をしてもらって読売新道隊は先に出発する。地図
によれば、ここから赤牛岳山頂までは標高差1300メートル、コースタイム5時間。
赤牛岳から水晶岳までの縱走が3時間。水晶岳から水晶小屋まで40分とある。小屋
到着はおそらく5時を過ぎるだろう。

昨夜の雨に濡れた林の中の登山道を少し進むと、初っ端から急登が始まり、前途多
難を思わせる。しかし、これは長続きしなかった。やがて斜度が緩み、周囲の薮も
開け、左に東沢、右に上の廊下を見下ろしての気分のよい登高となる。つかの快適
部分を過ぎると、後は樹林帯の鬱陶しい登りが一途に続く。昨夜の宴会で大分軽く
なったとはいえ、フォーストビバークに備えて水を4リットル背負っているし、昨
日の重荷の疲れがのしかかってくる。2人とも会話をかわす余裕もなく、ひたすら
登りに登る。

途中、中年と老年の単独行を抜く。どちらも、楽しさなどみじんもない風情。なん
で山へ来るの、といいたいくらい。中年はすでにしてばてばてであり、老人はまる
で義務であるかのように歩を進めている。装備からして両人とも幕営らしい。いっ
たん抜いた後、彼らと会うことはなかった。

この単調な樹林帯の登りで最大のイベントは、ヒカリゴケの発見だった。それもた
った一ケ所だけ。重荷と疲労でうつむき加減の登りの途中で、ふと見上げると登山
道横の岩の奥に美しい緑の輝きがあった。先行するチャウを呼び戻し、しばし見と
れる。ヒカリゴケは、笹ヶ峰の夏山で、黒姫山のを見て以来である。あそこほどの
規模はないが、ひときわ鮮やな光だった。

3時間半程登ったところで、絶好の休息サイトがあったので3本目を立てる。小さ
な湿原が開け、見返すと碧緑の黒部湖の先に黒部ダムが、そして黒部渓谷を囲む立
山の峰々が望まれる。湿原の上部に、日本庭園の置石のような苔むした岩がある。
その上にキタゴヨウが盆栽のように生えていて、その背後から、ダケカンバが2本、
にゅーっと白っぽい幹を突き出している。去年の光の庭園風湿原を思い出したが、
あれほどのスケールではない。

登高4時間を過ぎて、樹林帯を抜けやっと赤牛の頂上付近が見えだす。ガスもあり、
直接頂上が見えたかどうかはっきりしないが、手前に大きなピークはないのでほぼ
間違いはないだろう。ここではじめて下山の単独行に出会う。白髪の小柄な男性。
たぶん九州のひと。挨拶を交して別れぎわ、“まだこれからが長いですよ”と、い
かにも気の毒げにいう。わかってはいるが、まだその実体が理解できないのはやむ
を得ない。

赤牛頂上目前のコルで12時を過ぎる。すでに1時間以上のピッチをこなしていたし、
この天気では山頂でのんびりできそうもないので、そこで昼食とする。フランスパ
ンに、キュウリと缶詰の鮭とを挟み、それにマヨネーズをかける。美味である。今
回ビールはないが、そのかわりに、ミカン、モモ、パイナップルの缶詰を持参して
いる。チャウの注文を訊くと、即座にモモ缶がいいと返事が返ってきた。山頂でビ
ールを飲むという習慣が浸潤する以前は、ミカンの缶詰を雪渓で冷やして食べると
いう美しい習慣があったのだ。久々の、回帰である。

食事中、中年の快活な男性が話しかけてくる。あきらかに栃木か茨木か、話は尻上
りに空へけ駆け登っていく。ブナ立尾根から登って雲の平で遊び、今日、読売新道
を下るという。雲の平は余分だが、われわれと逆コースだ。もっとも最近のガイド
では、読売新道はもっぱら下りに使うようなコース取りとなっている。しかし、長
大なだけで難しいところは何もないコース。下ってしまってはわざわざ通る意味が
ないではないか。彼は上機嫌でまくしたてていたが、最後に、あとから女性が一人
降りてくるのでよろしくといって立ち去りかけ、それからも何か一言二言振り向き
振り向き話しながら去っていった。

昼食の休憩をおえてしばらく登ったところで、単独行の女性が下りてきた。声をか
けてその旨をつたえると、“あのひといつも独りで先にいっちゃうんですよね”と
諦め顔で微笑む。なんと、行きづりの同行者でなく奥さんだったのだ。不慣れなら
迷いやすい箇所も少なくないのに、なんと無責任な野郎もいたものである。

赤牛山頂通過は、12時40分。本来ならば、左手(東)に裏銀座、右手に立山の連山
を見ながらの登高になるはずだったが、すでにガスが湧いて視界はわずか。ルート
の判断に支障のない程度である。

赤牛を過ぎると後は惰性で、疲労との戦いのみである。それでもこの頃は、多少の
体力は残っていたのか、トップのチャウが道を間違えると、“右、右、チャウチャ
ウ。左”などと、まみちゃんカッパの真似をする余裕はあったのだ。

赤牛はその名の通り、遠目にも目立つ、赤い岩肌を見せる山塊だ。主な構成岩は、
花崗岩。石英と長石の白っぽいベースに、黒い雲母の粒が混じる。それだけなら赤
牛にはならないのだが、ここの花崗岩は劈開面が赤いのだ。酸化鉄が浸透したのだ
ろうか。この層の赤が、花崗岩が風化して砂礫となったとき全体を赤くしている犯
人のように思える。登山道の印象は、鳳凰三山、甲斐駒の北沢峠側、燕などと共通
するザクザクした砂礫の、比較的歩きやすい道だ。色だけが違う。高山直物は、単
調で種類も少ない。チングルマ(の穂)、ミヤマアキノキリンソウ、イワギキョウ、
ウサギギク、コケモモなどありふれたものだ。

赤牛岳と水晶岳を結ぶ吊り尾根は、その最低鞍部で風情をがらりと変える。赤岳に
対して水晶は、別名黒岳といわれるように黒っぽい岩塊から構成されている。最低
鞍部で、その基調が入れ代わるのである。それまでのなだらかで草原上の縦走路か
ら、岩の多いアルペン的な風貌になる。

水晶への途中にあるいくつかのピークはほとんど黒部側を巻いてしまう。植物の種
類も依然として単調だが、登山道を縁取るように咲いていたヒナコゴメグサの大群
落だけは特筆する必要があるだろう。また、2818mピークから温泉沢の頭への稜線
は、明瞭な二重山稜となっている。コースは自体はその黒部側の稜線を通る。二重
山稜は、これまで南アの茶臼周辺と、昨年の光でも経験しているがこれほど顕著で
はなかった。2つの稜線に挟まれた窪地は絶好のキャンプサイトになる。もちろん
北アでは指定地以外は幕営できないが、いざとなればここなど最高だろう。案の定、
きれいに整地された設営跡がいくつか見える。問題は水だが、時期によれば周囲に
雪田の残っている可能性は大きい。

温泉沢の頭で一本。ここから高天原へ降りるコースが分岐している。奥黒部ヒュッ
テで会った単独行の女性が、昨日こなしたコースである。ここでチャウが、ガスの
かなたにおぼろげに見える山影を指してぽつりと一言“あれが水晶だといいなあ”。
しかし、地図をみればまだ手前に2904mピークが控えている。

2904mピークは巻いてしまうのだが、その先に、最後のしごきが待っていた。少し
の登りでも喘いでしまうところへ、水晶岳への急登である。ガスが巻き、雨が混じ
り、雷まで鳴りはじめる。視界がないので、どこまで続くかわからない岩だらけの
ルートにときには行き迷う。通常なら、後から歩きながら前方の様子に目配りして
いるのだが、こちらも目一杯になり頭が上がらない。はっと気がつくと、2人とも
まったくルートを外していたりする。

もうそろそろ水晶であってほしいと願っているところへ、テントが1張り現れる。
表に三脚が立ててあるので、写真狙いの幕営だろう。このあたりは持参した登山地
図では現れない程度の小規模の窪地になっていて中央に雪田が残っている。その縁
を登山道が迂回し、その道ばたにテントを張れるくらいの余地があるのだ。テント
から声は聞こえなかったが、幽かに物音はする。どうせ覗かれているのだろうと、
なるべく確固たる足取りを心掛けるが、もうよれよれで見栄を張る余地もない。

それでもついには水晶岳の小さな標識にたどりつく。チャウが“やった”と小さく
叫ぶ。それとほとんど同時に真上で雷が鳴り、雨が激しく降り出す。ついに、雨具
を出さざるを得ない仕儀となった。乾いた雨具をつけるが、衣服はすでに汗と雨で
ぐしょぬれである。山頂で休んでいる余裕などまったくない。落雷するほどではな
いと思うが、雨具を着けて早々に下降を開始する。谷底から吹き上げてくる雨交じ
りのガスの中を、岸壁の途中を縫うようにしてつけられた登山道を下る。嬉しいこ
とに、植物の種類が断然豊富になる。いままでになかったタカネシオガマ、シコタ
ンソウ、イワベンケイ、タカネツメクサ、イワツメクサ、オヤマソバ、オンタデな
どが加わり、本格的なお花畑の様相を呈してきた。しばしの急下降ののち、あとは
非常に歩きやすい緩やかな下りとなり、そのまま水晶小屋まで広い尾根道を進む。

水晶小屋は広い尾根の末端にある小さな小屋だった。あとで知ったがアルプスで一
番小さいそうな。悪天のこともあり小屋の周囲に人影はなかった。小屋のベニヤ張
りの引き戸の前に立ったのが、丁度5時。まさに時報が鳴るかと思われるほどぴっ
たり5時だった。チャウと感激の握手。これで、ぼくとしては東沢、上の廊下、読
売新道の3つのルートを完結したことになる。

実は、この先の話しは書きたくない。どれもこれも不愉快なことばかりである。し
かし、書かざるは腹膨るるの業、書くことにしよう。

引き戸を開けると、小さな土間があり、その奥の20畳もない居間ではもうすでに食
事が始まっていた。4人も立てば一杯になるほどの土間には、われわれの直前に到
着したと思われる単独行の男が立っていた。従業員とのやり取りを聞いていると、
遅い到着に文句を言われているようだった。“4時までには小屋へ入ってくれ”と
か、“いつ着いても食事がでると思ったら間違いだ”とか、ここのリーダーらしき
アルバイト風がのたまわっているのである。この男、だまって聞きながらも、あち
こちを蹴飛ばしたり、小突いたりして、怒りをちらちらと垣間見せている。

それはわれわれも同じだから、また同じことを言われる。ただ、聞き流すのみであ
る。この際、“うるさい、お前らの生まれる前から山を歩いてるんだ”などとは、
状況からして言えない。最終的に3人とも正規の夕食は出ないが、カレーライスな
らなんとかなることになった。それもすぐには出ない。奥の食事が終わるまで土間
に放置される。しかたなく下駄箱の前の簀の子にザックを置き、それへ腰掛けて待
機する。意外な展開に何をしていいのかわからなかったが、やがて気をとりなおし、
ビールを買って乾杯をする。ビールも終わって、そろそろ行動食をつまみに日本酒
にでもするかというころに、やっとあらかたの食事が済んだようだった。

脚をたたんだ食卓は、われわれのいる土間へ持ち出され、壁の一方へ立てかけられ
る。その立てかけた食卓の上に、最後の食卓を置いて、“微妙なバランスですので、
気をつけて”などといわれて、その斜めの食卓へカレーライスと水が出される。3
人揃って立ち食いするのであった。その間、食事の済んだ宿泊客は、立ち食いする
われらの背後をすり抜けて、小雨降る表へ出される。今度は、居間一面に蒲団が敷
き詰められる。ザックは置くスペースがないので、屋外に出して板敷きに積み上げ、
シートをかけるだけだ。

蒲団を敷き終わると、次々に名前が呼ばれて、寝場所がが決められる。もちろん最
後のわれわれは、出口直近である。チャウはどうせ寝られないからいっそ一番外が
いいとドアの横に寝て、その隣がぼく、ぼくの隣がいっしょにカレーを食った単独
行である。夜中に表のトイレに出入りする人間は、すべてわれわれの上を通過する
ことになる。

単独行氏は、一見して、兎の北さんを彷彿とさせる、古典的な山屋だった。年頃も
体型も顔立ちも着衣も、すべてあの当時の北さんに似ているのだ。しかも、やるこ
とがじつに手早く無駄がなく、寡黙である。われわれとは違って、山岳会でそうと
う徹底的に行動の規範をたたき込まれたはずである。でなくては、ああはできない。

しかし、この男。とんだ食わせ者だった。先ほどは怒りにまかせて、ウイスキーだ
かブランデーだかを詰めたポリタンから直接ぐい飲みしていたが、ひっきりなしに
表に出ては、タバコを吸う。無駄がない動作と見えたのは、単に反射的で自己中心
的な行動の一面でしかなかった。

寝るまでの談話の一時、隣であるからして当然のように話しかけてはみるのだが、
いっこうに話しに乗ってこない。薬師沢から高天原を通って来たことだけは、ぼそ
っと喋ったが、仲間はすでに野口五郎へ着いているだろうという。先ほど見たザッ
クの装備は、どうも岩屋らしいとみたが、この辺にゲレンデなどないし、どうもち
ぐはぐである。話しにならないので、こちらも興味を失って、いつしか寝込んでし
まった。

寝入ってしばらくして、突然顔を蹴られて目が覚める。外へ出ようとした何者かが、
暗闇の中で足を運んでいる途中で、ぼくの顔を蹴飛ばしたのである。蹴飛ばされた
足を掴んで“ランプを点けろよ”と声をかけるが、だまって外へ出ていってしまっ
た。隣の男である。外へ出てタバコを吸っているようだった。帰ってきて、ひとし
きり小屋を揺るがすようなひどい咳をしていた。

夜中に、しばしば目が覚めるが、その何度か目は、遅く到着した客のためだった。
時間は不明だが、雨の夜を必死の思いで小屋へたどり着いたのだろう。小屋番は、
しばし室内灯を点け、空き場所を探すと、隣の男の奥に寝るよう指示した。すぐに
明かりが消され、暗闇のなかで、ごそごそと隙間に潜り込んでいた。気の毒なので
ランプを点けてあげたが、声もなく寝入ったようだった。

隣の男は、頻繁に寝返りを打つ。しかも、どすどすと乱暴にだ。余白が充填された
せいではないだろうが、なぜかぼくの方へしきりにぶつかってくるのだ。ぼくの足
に手を掛けるは、顔には足が覆い被さってくる。しまいに腹が立って、その都度、
押し上げ蹴上げしていたら、最後に、何やら関西弁で怒鳴ってきた。こちらも、
“気持ちが悪いんだ、べたべた触るんじゃない”と言い返す。あちらも負けずに、
“クソ、ガキ”などと喚いている。一瞬、小屋中の鼾がぴたりと止まり、静寂が走
った。

さすがにそれ以上事態は悪化しなかったが、もう寝るどころではない。夜明けを待
つしかなかった。

1999年8月14日 土曜日
終日雨。

室内灯が着く前の暗闇で、朝の出入りが始まる。チャウも踏みつけられたのであろ
う、“ランプ点けなさいよ”と叫んでいる。これ以上足蹴にされるのもいやなので、
ひとが出入りをする度に、ランプを点けて周囲を照らしてやる。それでも、不器用
にぶつかっていくやつは後を絶たない。寝るのは諦めて起きあがった頃に、室内灯
が点いた。起きあがった全員の視線が、こちらを探るように見ている。昨夜の騒ぎ
は、誰と誰だったのだろうという目である。当事者同士は、さすがに目を会わせよ
うとはしない。相手もさっさと、表へ出ていった。

蒲団の片づけと朝食のセットで、また薄暗い表へ出される。幸い雨は降っていない
が、全天雲に覆われ、その動きは激しい。時折、視界が開け、左手に昨日はまった
く見えなかった赤牛から水晶への稜線が顔を出す。小屋の前面は、大きく開けた東
沢の源頭である。右手には、今日のコースである真砂岳から野口五郎へ山塊がガス
を被っている。

不愉快であじけない朝食を済ませ、そそくさと小屋を後にする。コースは、水晶小
屋直下の斜面を右へ巻くように下る。小屋から東沢乗越へかけて、コースが変化に
富み、花も多様な楽しいコースだ。今日のように、ガスに巻かれて視界のないのが、
かえって風情を増すかに思えた。もちろん、好天なら好天で、さらに別の喜びがあ
るだろう。しかし、昨日来の苦々しい思いに、どうも気分は沈みがちだ。

今日のコースの最低部が東沢乗越で、大きな木の標識があり、広場状になっている。
20数年前、東沢を遡行したときは、その左手のハイマツをかき分けて、この辺りへ
飛び出したのだった。たしか、最後は雪渓の詰めだったと思う。あまりハイマツを
漕いだ覚えはないから、もう少し水晶小屋寄りへ出たのかも知れない。

東沢乗越からは緩やかな登りが続く。登山道もよく踏まれ歩きやすい。小屋から一
本で、真砂岳下の竹内新道との分岐へ着いてしまった。昨日の消耗にもかかわらず
思いの外、行程は捗っている。ぼくは昨日の長駆の疲れで喘いでいるが、チャウが
元気なのだ。一向に休もうとしない。休憩のタイミングはチャウに一任してあるの
で、こちらはついて行くのみだ。何でも、あるTV番組を見ていて、新式の呼吸法
に思い至り、それを実践したところ高山病が出ないというのだ。いつもなら、頭痛
に悩まされ、青息吐息の高度である。

湯俣への分岐で、ガスに巻かれて休みながら、今後の予定を思案する。天気も悪い
し気分も悪い。もう湯俣へ降りてしまうか。それとも、この荒天を烏帽子小屋まで
強行するか。あるいは、1時間ほど先にある野口五郎小屋で泊まって、昨日の疲れ
を癒し、天気の様子を見るか。その場合、明日、天気が回復すればブナ立尾根へ、
悪化すればここへ戻って湯俣へ降りることになる。

結論は、野口五郎小屋へ転がり込むことに決まった。ぼくとしては、昨日の疲れで
この先長く歩く自信はなかったし、かといって、このもやもやした気分で下山する
のも嫌だった。むしろ、チャウのほうがはるかに元気で積極的だった。

小屋は野口五郎の北麓、ゆったりとした窪地の中にあった。ガスの中から小屋が眼
下に見えてきたとき、まずその大きさに安堵した。100人程度は収容できるだろう。
少なくとも、何かある度に小屋を追い出されることはなさそうである。玄関を入る
と、雨に濡れた登山者が数人いて、200円払って屋内で休息するか、あるいはコー
ヒーだけ頼んで玄関で立ち飲みするかと、わいわい騒いでいる。玄関の奥に食堂兼
談話室のようなスペースがあり、多数のテーブルが並べられてすでに客がいる。
200円払えば、そこでゆっくりコーヒーが飲めるのだ。混んでいる窓口へ並ぶまで
もなく、近くの従業員に“少し早いが泊まりたい”というと、すぐ係りに取り次い
で申込書を用意してくれる。対応はまっとうで、嫌みがない。

受付を済ますとすぐに部屋に案内される。食堂に一番近い烏帽子という部屋の1、
2番を指定される。どうやらわれわれが1番客らしい。まだ9時にもならないのだ
から、さもありなん。天井が低く桟に頭をぶつけそうになるが、昨日のことを思え
ば問題ではない。ザックは部屋にも入れられるが、まだ濡れているので廊下に出し
ておく。乾燥室や更衣室もある。更衣室は複数個所にある。

感心したのはどの従業員も一様に対応が良く親切なことだ。次第にだれが主人かわ
かってくると、なるほどと思う。従業員への指示が実にきめ細かで的確なのだが、
雰囲気は和気あいあいとしている。客に対してもその態度は同様だ。言うべきこと
はきちんと言うが、あとは自由にさせている。規則はあっても無意味に強要はしな
い。君が代を法制化するのとは大違いだ。部屋には定員どおり詰め込むが、もうこ
れ以上は客が増えそうにないとなると、空きスペースは自由に使わせてくれる。

感心したのは休憩客へのサービスである。ずぶぬれの衣服を、大型の石油バーナー
(スキー場などでも見かける円筒の大砲のようなやつ)を点けて乾かしてやってい
る。有料とはいえ、通りすがりの客にここまでする小屋は少ないだろう。ただ、問
題はこのバーナーの調整が悪いせいか、やたらに目がチカチカすることだ(チカチ
カについては、やがて改善された)。もう一つはトイレ臭だ。客室の廊下の突き当
たりがトイレなので、客室にもトイレの臭いが漂ってくる。それもかなりきつい。
しかし、これも解決した。泊まり客が増えて、客部屋側の温度が上ると、臭いは屋
内へ入ってこなくなった。

開高健ではないが、この長い一日をどううっちゃろうかと、着いた当初は心配した
が、それは取り越し苦労というものだった。食堂でビールを飲みながら、頻繁に出
入りする客や従業員の生態を観察したり、行動食をつまみにウイスキーの水割りを
飲みながら無駄話をしたり、それも飽きると部屋で寝ころんでうとうとなどしてい
ると、またたくまに1日が過ぎ去っていった。

期待していなかった夕食も豪華なものだった。何といっても天ぷらがたっぷりあっ
たのが嬉しかった。膳を見たとたんに、慌てて部屋へ日本酒を取りに行ったくらい
である。ご飯が軟らかすぎたが、これは高度からしていたしかたなかろう。

食後は同室の人たちとの歓談である。この部屋はすべて夫婦連れ(われわれもそう
見なされたのであろう)で、4組み詰め込まれたが、一番若そうなペアは早々に空
きを見つけて余所へ移っていった。最後に到着した、一番年かさな夫婦は、聞けば
ご主人は76歳という。奥さんも70がらみだろう。ぼくの母も老人と同じくらいの歳
で、元気な方だとは思うが、このような山へ連れ出すのは思案の外である。しかも、
今日は黒部五郎の小屋からここまで一挙に来てしまったという。水晶小屋へ泊まる
予定だったが、調子が良かったので、ここまで足を延ばしたらしい。それはまっこ
と正解であるが、それにしても、この老人力には脱帽である。

聞けば、樹脂加工の特殊技術をもっているとのことで、自慢げにこの技術は日本で
は自分しかもっていないので、仕事は頼まなくても向こうからやってくる。半日働
けば、あとは遊んでいられるとのこと。我が身を振り返って反省。因みにこの技術
とは、樹脂加工に於ける墨流しのようなもので、樹脂の表面に、樹木の年輪のよう
な文様を作る出すものらしい。

われわれの隣は長野在住の夫婦。55歳で山を始め、まだ3年ほどのキャリアだが、
今は山へ登るのが楽しくて仕方がないといった口振り。先週は鹿島槍へ行ったとい
う。どうやら毎週どこかの山へ出かけているらしい。このご主人の山への思いは、
昔、大森氏と山を始めた頃のことを思い出させてくれて懐かしかった。たしかにあ
の頃は、山のことを考えるだけでも気分が高揚し、見るもの聞くものすべてに山を
連想させられたものだった。一時の梓のスキーブームと同じ状態である(今は、パ
ソコンか?)。こちらは、ウイスキーの水筒を取り出し、あちらは干しぶどうをつ
まみに出し、山談義が盛り上がったのはいうまでもない。ご老体夫婦が利尻へ行っ
て来たということから、われわれもつい6月に行ったという話しになり、隣の夫婦
にとって遙かな憧れの山域であった利尻が、一挙に現実味を帯びてきたようだった。

昼間あれだけ寝たのに、何の抵抗もなく寝られる。ただ心配は、夜中に目覚めたと
きに聞こえる激しい雨音である。上の廊下隊は、今頃どうしているのだろうか。

1999年8月15日 日曜日
高曇り。滝雲落ちる。昼から雨。

夕べの激しい雨は止んで、天気は昨日より好転している。烏帽子小屋方面へ縦走す
れば、ブナ立尾根の下りへ入るまでくらいはもちそうである。昨日の決断は大成功
だったことになる。

朝食をとり、同室の人々や小屋の従業員との挨拶を済ませて小屋をたつ。最初のち
ょっとした登りを過ぎると広々とした主稜線に出る。今日のコースはほとんど下り
一方だ。左手に、東沢を隔てて赤牛から水晶岳のなだらかな稜線と、さらにその、
その奥にわずかに見える鋭い稜線は剣の八つ峰だろう。右手は、高瀬川を隔てて、
餓鬼、燕、大天井、そして西鎌尾根の表銀座の峰々である。最初は雲に隠れていた
が、やがて西鎌の先に槍の尖峰が見え、さらに前穂も槍越しにヌーッと顔を覗かせ
てきた。

はじめは、縦走路の正面に見える小型の剣のような山の見当がつかなかったが、周
囲のガスが取れると、それは針ノ木だった。針ノ木から、蓮華、七倉、船窪と、昨
年縱走したコースが正面に展開する。目を凝らすと、針ノ木小屋、船窪小屋も確認
できた。

天気は高曇りで視界は悪くない。しかし、雲の様子を見ると、ここしばらくはもっ
ても、崩れるのは必至といったところだ。全天は高層雲に埋まり、その下に乱層雲
の断片がいくつか浮かんでいる。雲底は崩れて尾を引いているから、あの下辺りは
雨だろう。大天井から西鎌にかけての稜線からは、高瀬川へ向かって盛大に滝雲が
落ちている。さらに眼下の山腹のあちこちにも雲がへばりついていた。

われわれが昨日登った読売新道を指差しながら歩いていると、地図を広げて山座の
同定をしていたらしい単独行の女性から声がかかった。“エーッツ。読売を登った
んですか。わたしは下ったんですけど、それでも長かったあ”と、こちらも“最後
はもうめろめろでしたよ”と応える。奥黒部ヒュッテの女性もそうだが、最近は単
独行の女性に強くて冷静で、それでいて女らしさを失っていないひとが多い。男の
単独行はおおむねだめだ。なにか世をすねたようなのが多い。

このコースの花の主役はコマクサだ。コマクサは、いわゆるお花畑には適しないが、
このあたりの稜線のような砂礫地では大群落を形成する。昨年の蓮華岳の群落も相
当なものだったが、すでに花期を過ぎていた。今回も最盛期にはやや遅れてはいる
ものの、まだ鮮やかな色を残した株も少なくない。はじめ登山道脇に一株を発見し、
“あったあった”といっていたのがだ、落ち着いて周囲を見渡すとあの粉を吹いた
様な独特の緑の葉(フェンネル=茴香に似る)と、フランス王朝の白百合の紋章を
赤く染めて逆さにしたような花がいたるところに散在していた。

ほとんどが下りのこの縦走路でも、印象的なのは三つ岩岳からの下りだ。それまで
単調に下ってきた道は、三つ岩岳を東沢側に巻き終わったところから、ハイマツの
稜線を横切って高瀬川側へ折り返す。すると、光景ががらりと変わる。赤茶けた広
大な左下りの斜面の中を一筋の登山道が弧を描いているのだ。ちょっと、西部劇風
というか、登山道がウイリアム・ワイラーの西部劇に出てくる幌馬車のトレールの
ように見える。そこを、大勢の登山者が黙々と、あるいはわいわい騒ぎながら登っ
てくるのだ。道は極めて歩きやすい。ほとんど平坦にならされているし、斜度も緩
やかで膝に負担はかからない。鼻歌を歌ってスキップしながら下りて行きたいくら
いである。先ほどの単独行の女性も、“いいコースですね”と声を掛けて、ざくざ
くと足音をたてて追い越していった。

このコースを下りきったところが、烏帽子小屋である。烏帽子小屋直前で、待って
いたようにガスが出て視界がなくなった。ちょうど、われわれの縱走の間だけ、お
天気がもってくれたかのようだ。烏帽子小屋の手前にひょうたん池があり、その周
辺がキャンプ場になっている。鉄の熊手を持った男達が、使用後のテントサイトの
整地をしていた。まるで枯山水のようだねと、チャウと笑いあった。しかし、この
池からが結構な登りになる。もうすぐと油断していただけに、今日のコース一番の
登りであるかのように感じられた。

青い屋根の烏帽子小屋は、野口五郎小屋よりやや収容人員が多いだろうか。小屋の
前に奇麗に掃除の行き届いたトイレがある。あとでタクシーの運転手に聞いたとこ
ろでは、どちらの小屋も高瀬川沿いの葛温泉にある高瀬館という旅館が経営してい
たのだが、現在は、先代の子供達がそれぞれを引き継いでいるという。つまり野口
五郎と烏帽子は兄弟小屋なのだ。

小屋の前のベンチで少々休憩してから、いよいよブナ立尾根の下降である。ここは
笠岳の笠新道と並んで、北ア屈指の長い急登をもって知られる。チャウも、わたし
よれよれになると予言していた。地図で見ると2208mの三角点までの最初の1時間
はさほどでもないが、そこから先で急下降にはいる。しかし、実際に下ってみると
道はよく整備されていて、そしてなによりコース取りが良い。さすがに古典ルート
だけある。ごり押しで作ったような個所が少ないので、非常に歩きやすいのだ。去
年の船窪新道の鼻つき八丁よりはるかに楽だ。唯一の欠陥は、階段の補強に鉄の丸
棒やL字棒を打ち込んでいることだ。転倒してその先端へ倒れた状況を考えるとゾ
ッとする。

結局、中一本でブナ立尾根を下りきって、濁沢沿いの登山口まで下りることができ
た。登山口の脇にある水場で汗を拭い、喉を潤す。今日はことごとく正解の一日で
あった。

登山口からは、濁沢を仮設橋で(本来の橋は流されて犠牲者もでたのか、残された
橋脚の元に花がたくさん供えてあった)、不動沢を立派な吊橋で渡り、不動沢トン
ネルを抜けると高瀬ダムの上へでる。不動沢あたりまでは観光客が入ってきている。
トンネルを抜けると、雨が降り始めていた。観光客は傘を差しているが、山を歩い
てきたわれわれにはこの程度の雨は気にならない。ダムの対岸側にはすでに客待ち
のタクシーが数台並んでいる。その一台を拾って、大町温泉郷の薬師湯まで行って
もらう。

薬師の湯の直前で、右手に大町市民浴場の看板が目にはいる。去年、蓮華から七倉
へ縦走し船窪新道を下りたときに入った湯だ。といっても、あのときドライバーは
ぼくだけだったので、大森、チャウが風呂に入る間、ぼくはデリカで仮眠していた。
湯に入ってはいないが、広い駐車場とすこしさびれたような風情を好ましく思った
のを記憶している。タクシーはすでに薬師の湯を目指して国道を左折していた。し
かし、温泉の手前からもう車の列ができている。相当混雑しているに違いない。こ
れは市民浴場へ戻るにこしたことはない。運転手に話すと、そのほうが安いし空い
ていていいでしょうといって、即座に車をUターンさせてくれた。一時間後に迎え
に来てもらうことにして車を降りる。

薬師の湯とうってかわって、市民浴場はがらがらである。何から何までゆったりと
広々としている。せこせこしたとところがまったくない。駐車場には2、3台しか
車がない。入浴料300円、シャンプーはないが石鹸は無料で貸してくれる。ただ、
この石鹸あまり香りがよくないが、そこまで言っては罰があたる。

建物全体は広い敷地にゆったり建っている。エントランスホールと風呂場は別棟に
なっていて、長い渡り廊下で結ばれている。なぜこのような構造にしなければなら
ないかは謎だが、その無駄さ加減が好ましい。ぼくにとって風呂は汗を流せればそ
れでよいのだが、広い浴場には他に客が2人だけ、それもこちら同様に登山者らし
い。窓は開け放たれて、周囲が見渡せる。シラカバが点在し、昔の小学校の裏庭の
ような風情だ。

湯上がりでさっぱりとしてホールに戻り、チャウを待つ間ザックの整理をした。ザ
ックには奥黒部ヒュッテから担いできたゴミがある。受付のオバサンに、山から持
ち帰ったゴミがあるのだが、ここで捨てさせてもらえますかと訊ねた。オバサンは、
ビン缶を分別することを条件に快く許してくれた。ザックからゴミと出そうとする
と、ゴミはたくさんあるのかと訊く。一瞬、あまり多ければ遠慮してくれとでも言
われるのかと思ったのは都会人の浅はか。たくさんあるなら別に袋を出してあげる、
とのことだった。公共施設とはいえ、感謝の極みだ。

迎えのタクシーは時間より早めにきた。1時を過ぎた頃だったので、大町駅近くの
食べ物屋を目指す。行きつけの美寿々にしようかとも思ったがあそこは盆暮などは
客あしらいが悪くなるし、下手をすると休みだ。そこで、運転手と相談したところ、
仕事仲間や町の人たちでいつもにぎわっている三洛という店がお勧めだというので、
そこへ向かった。しかし、残念ながらここは梓の口にはあわない。たしかに、ご近
所と思われる家族連れがひっきりなしなのだが、酒のつまみらしきものは冷や奴く
らいしかない。あとは一般的な大衆食堂メニューだ。まず、ビールと冷や奴、それ
に肉野菜炒めをとってみたが、何とも表現しがたい肉野菜炒めだった。周囲を見渡
すとラーメンを食べているひとが多かったので、チャウはワンタンメン、ぼくはチ
ャーシューメンにしたが、これも妙な麺で、チャウなどは食べきれずに残していた。
評判の良い店であることは、客の出入りで間違いないから、大町の食文化の水準が
奈辺にあるかがわかるというものである。“…………月と仏とおらがソバ”か。

大町からは、1時間半ほど待って、15:28発の特急スーパー梓10号に乗ることにし
た。といっても列車の選択の余地はほとんどない。この時期のことですでに指定席
は完売である。まだ早かったのでわれわれは待ち行列の先頭に列んだ。駅員のアナ
ウンスでは、自由席は5、6号車だけで、乗り口は改札口の目の前である。お盆の
混雑のせいか各列車は20分ほど遅れている。1時間以上待って改札が開くと、自由
席の乗り口に登山者が列をなした。各乗り口に10人ほどは列んでいるだろうか。駅
員は、梓は小谷始発で、自由席は白馬でほぼ満員でしょうという。最近はデリカば
かりだが、昔とった杵柄。こういう場合は、自由席というのは最悪の選択なのだ。
一応、先頭だから列車が入ってくるまでは、様子を見ることにした。しずしずと入
ってきた列車を見ると、もう4、5人が通路に立っている。すぐにチャウに合図し
て、待ち行列一番の権利を放棄し、列車最後部へ向かってホームを走った。

昔の列車と違って、スーパーあずさは、列車編成の最後(前)部車両の車掌(運転)
室前(後)にもドアがありデッキになっている。ザックを座席最後部の隙間へ入れ、
マットを取り出す。デッキにマットを敷けば、立派な座席のできあがりである。最
後部デッキだから乗客の出入りはほとんどない(車掌の出入りは多少うるさいが)。
松本で4両増結されたが、自由席は1台のみで、遙か前方の車両に客が殺到してい
る。車内販売のアナウンスでも、自由席は販売車が通行できないので自販機を利用
してくれといっている。作戦大成功である。デッキが専用コンパートメントのよう
なものだ。新宿まで、最後部デッキから乗降した客はほんの数組に過ぎなかった。

最後は、出発のとき同じ、ビアホールで乾杯し、無事今回の山旅を終わることがで
きた
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