出羽路紀行(月山・鳥海山)

--芭蕉の足跡を追って・後藤文明

1998年9月9日-12日


平成10年という年は気候不順で7月は猛暑、8月にはいって地方によっては
日照不足が続き、月末には新潟や福島・栃木が集中豪雨で大きな被害を出
した。
台風の襲来もなく二百十日も穏やかに過ぎようという9月8日に、大森武志
さんと私は3泊4日の行程で山形の名山「月山」と「鳥海山」の登山の旅へ
出発した。
大森さんとは8月に木曽御嶽山に登っているが、今回も信仰の山が続く。
豊穣の庄内平野を見下ろす二つの山はすでに7世紀半ばに人々から崇められ
ていたという。
古く修験道が盛んになるにつれ羽黒・月山・湯殿を三所権現と唱えて羽黒
山伏の名が高くなった。
いまも羽黒神社の門前たる羽黒町には大きく立派な御師の宿が多く見られ
たが、羽黒から月山に登り、奥院の湯殿に参拝するのが昔からの三山巡礼
の路であった。
鳥海山もその山頂に大物忌神が祀られてあり月山より古くから名山として
崇められていて、昔は多くの白衣の行者で賑わったものであろう。

東北道から、山形道を経て高速道路を下りたのは寒河江で、鶴岡へ向かう
六十里越街道をたどり月山南麓の志津キャンプ場についたのは、そろそろ日
も傾くころであった。
夏のシーズンも終わり淋しいキャンプ場ではあるが我々だけの独占というのも愉
快である。
夕日に輝く頂付近を望むと、たのしく登高欲が湧いてきて、雲一つない青
空が明日の山行の成功を約束してくれている。
翌朝、のちの鳥海登山基地への異動の時間を考慮すると、今のうちに月山
の北側の羽黒からの登山口に回ろうという大森さんの提案で、長躯100キロメ
ートルちかくを羽黒口八合目までゆく。
ここから山頂までは約2時間強、たいした苦労もなく到達したが、途中に弥
陀ケ原とか、行者返しとか、仏生池とか信仰の山の名を思わせる名が付け
られている。
1980メートルの山頂と思われる場所には月山神社が鎮座ましまして、お祓い料
500円が必要とか、我々は南にむかって大きな斜面が緩い傾斜で気持ちよく
伸びているのをしばし眺めて小休ののち下山した。
いまはもう秋、というわけでハクサンイチゲとミヤマキンバイがすこし咲いているだけ
であったが、残雪のスキーの頃はどんな花々が咲き競うのであろうか。
芭蕉が月山に登ったのは元禄2年旧暦6月8日(新暦7月23日)、羽黒の南谷の
別院に泊まって三山に巡礼した。
    八日、月山にのぼる。
    木綿(ユフ)しめ身に引かけ、宝冠に頭を包、強力と云ものに道びかれて、
    雲霧山気の中に氷雪を踏てのぼる事八里、更に日月行道の雲関(日や月
    の通路にある雲の関所)に入かとあやしまれ、息絶身こごえて頂上に到
    れば、日没て月顕る。
    笠を舗(シキ)、篠を枕として、臥て明るを待。
    日出て雲消れば、湯殿に下る。
              雲 の 峯    幾 つ 崩 て    月 の 山           
400メートルほどの丘陵にすぎない羽黒山から2000メートルちかい月山頂上までの登
りはきつかったであろう。
午後3時すぎ羽黒町の羽黒神社の国宝五重の塔を訪ねる。
鳥居と山門という珍しい組み合わせの神社境内に入り、杉の大木を両側に200
段ほどの石段を下る、と参道は右折して谷川を太鼓橋で渡れば、彼方に国宝
五重の塔が望まれる。
がっしりとした骨組みの、風雪にさらされた白っぽい塔は千年杉をはじめと
する杉の巨木に囲まれて木漏れ日に輝いていた。
丁度、全国各地の羽黒講の婦人の修行ででもあろうか、百人を超える女行者
姿に身を包んだ人が塔の参詣に訪れていた。
やがて出立となり、「ヴゥウゥォォォオオオ」というほら貝の音、強力の男の力強い
声が「六根清浄」と詠えば、婦人たちは「六根清浄」とあわせ、「散華、散
華」と詠えば「散華、散華」をくりかえす。
その人たちが杉木立や下生えの笹竹に見え隠れしながら去ってしまうと、静
寂のなかに再建後六百数十年を経た塔は、すっくと天を望むように立っていた。

私たちは、芭蕉の辿ったであろう道を最上川沿いに酒田方面に向かう、途中八
幡町(ヤハタ)を右折して鳥海山南麓に開発された湯の台休暇村に着く。
暮色におおわれた管理棟にもレストランにも鍵がかかり人影はない、立派なケビンが
たくさん並んでいるがどれにも灯りはついていない。
やむを得ず車を広大な敷地の奥に進めると、老夫妻が一組だけいて、気持ちの
よい設備の整ったキャンプ場があった。
暮れなずむ空には明星が輝き無数の星が光りを増しつつあったが、やがて煌煌
たる月光にかき消されたいった。
午前4時30分起床、6時に標高1200メートルの車道終点に着いたとき、ちょうど東の
重畳たる墨絵の山並みの彼方に陽光が輝き、これから目指す鳥海山頂付近を茜
に染めたのだった。
登山口から見事な石畳の道を20分で滝ノ小屋につく、石造りのがっしりとした
山小屋で、地元の人たちは春スキーを楽しみに来るとか、車道も雪に閉ざされて
大きな荷物と板を担いで何時間も掛けて小屋に来る、ここから1時間で河原宿
という小屋がありここは鳥海頂上部の外輪山から広大で長大な雪の斜面の終点
でもあり、屈強なスキーヤーは2時間強かけて登っては滑り降りてくる。
7月末から8月ごろは河原宿から1時間ほどの雪渓登りであるが、雪のほとんど
消えたこの時季、私たちは岩の累々たる枯沢登りのアルバイトを強いられた。
東北のしかも日本海からの強風をまともに受けるこの山は、1300メートルあたりか
ら低潅木しかなく、滝ノ小屋上部から2時間以上も暑い日ざしをうけて私は消耗
しはじめた。
それを過ぎると途端に、あざみ坂と名づけられた渇いたあざみのたくさん生え
た急な登坂となり、やっと乗り越えたところは外輪山の縁の伏拝岳、爆裂口の
向こうにひときは高く最高峰の2240メートルの新山が望めた。
この外輪山の規模は大きくないが、登ってきた南側は大きな緩やかな斜面にな
って遅くまで残雪を抱えている、西側の日本海側は6つの大きな尾根にわかれど
こまでも続いて下り、山裾は日本海に落ち込んでいる。
行者岳まで進んだが、私は戻り、大森さんは新山頂上を極めて外輪山を巡るこ
とにして、鳥の海という旧火口湖で落ち合う事にする。
旧火口湖から、巨大な根張りの鳥海山中腹の南懐を反時計周りに周遊して河原
宿に出る事にして下山にかかったのである。
消耗のひどかった私の足が遅れがちであったが、途中千畳ヶ原に差し掛かった
ときはしばし疲れも飛ぶ景色を目にしたのであった。
日に暖められた上昇気流が霧を生じ、山上を見上げている私たちは背後にそれ
を背負った形となった、後ろに山麓の景色は真っ白でなにも見えない、右左に
は霧のまとわり着いた尾根がゆったりと横たわり、前面には鳥海核心部がおお
らかに足元まで下って千畳ヶ原の広大な草原に繋がっていた。
草原はまだ草もみじという紅にはなっていないが、緑と黄のすこし寂しげな風
情が筆舌に尽くせない景色であった。
やがて、月が森への登りにかかるが地図上では30分のアルバイトである、幸甚にも
はじめての清流に出会いしばし疲れを癒すが、なんと眼前を遮り見上げる大き
な尾根がルートであり、しかも割合に急な斜面の枯沢で、私はこれに1時間も費や
したのではないか、とにかく忘れ難い思い出とはなった次第である。
とにもかくにも、山形県の二名山をハシゴしたのはよい思い出となった。

第三夜もことによってはテントで寝る覚悟で、車を遊佐町吹浦へ走らせる。
日本海に臨む風光明媚なところで、国民宿舎とりみ荘なるものを見つけて、様
子を聞くと宿泊可能とて温泉にもつかりぐっすり寝て疲れを癒したのだった。

翌朝8時30分、秋田県に足を延ばして象潟を訪ねる事にする。
大森さん曰く「象潟に芭蕉の足跡をたずねたい」・…「西行の足跡を追う芭蕉の
こころとつながるのか?」、もっとも現代はアクセルを踏んで・…。
象潟に蚶満寺を訪ねた、芭蕉の句碑と像があった。
            象 潟 や    雨 に 西 施 が    ね ふ の 花   
    此寺の方丈に座して簾を捲ば、風景一眼の中に尽て、南に鳥海天をささえ、
    其陰うつりて江にあり。
    西はむやむやの関路をかぎり、東に堤を築て、秋田にかよふ道遥に、
    海北にかまえて、波打入る所を汐ごしと云。
    江の縦横一里ばかり、俤(オモカゲ) 松嶋にかよひて又異なり。
    松嶋は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし・
    寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。
芭蕉が当地を訪ねたのは1789年の夏である、このころは八十八潟九十九島の名
勝地であった、下る1804年この地方を襲った地震で数メートルの地盤隆起がありい
までは九十九島は田んぼのなかに浮かぶ松島となっていて、田植えのころは田
面に影が映り美しい風景になるとか。
南下を開始した私たちは次に酒田に寄った。
北前船の寄港地で大きく発展をとげたこの地
で「本間様には及びもないがせめてなりたや殿様に」といわれた本間家別荘を
訪ねた。
本間家の先祖には俳諧を能くした人物が居たようである。
別荘は現在本間美術館として運営されているが、鳥海山を借景とした回遊式庭
園をもち、もともと本間家4代が文化10年(1813年)に港湾労働者(丁持)の
冬期失業対策事業として築造したのだという。
この話には私たちいささか鼻白んだものではあった。
もっとも時代はかわり借景の鳥海山は見えず、スーパーダイエイが大きく鳥海に取っ
て代わっていた。
次に訪れたのが、庄内米歴史資料館である。
通称山居倉庫とよばれ、明治26年海に近い最上川畔沿いに作られた瓦屋根の古
い佇まいの木造倉庫群で、海側に面して倉庫の裏には立派な欅並木があり風情
ある景色を造っている。
現在もJA庄内経済連の農業倉庫として現役で活躍中である。
明治のころには米俵かつぎの女性労働者が多数働いていた、一俵60キロを担い
で荷役業務をしたのは当たり前で、中には5俵(300キロ)を担いだ人が居て、
その写真にはただただ感嘆したのであった。
帰途は国道7号線をたどり日本海沿いの道を南へ、新潟空港ICから関越高速
道で、途中、朝日連峰を源にする三面川の美しい景色を愛で、阿賀野川の水の
豊かさに感嘆し六日町では雲を捲いた八海山を眺め、右手に落日を見ながら一
路大都会へ戻っていった。
終りに、車の走行メーターは1150キロを指していた。
                             平成10年9月9日(水)−12日(土)  連日快晴

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