西穂・奥穂縱走 ―― 梓夏山 '97 橋元武雄

1997年8月29日−31日


97年08月29日(金) 晴れ。
梓山行。西穂奥穂縱走
鈴木、大森、中村、亀村、齋藤

7時。東京駅丸ビル前集合。ぼくが数分遅れて到着したときは、すでに全員揃っていた。
高速はがらがらで順調に飛ばす。途中でカメちゃんへ運転をバトンタッチし、松本で高
速を下りる。波田のコンビニで今夜のビールと行動食を仕込む。沢渡でデリカを乗り捨
て、連絡バスへ。このバスの運転手がやたらに大きなボリュームでめぼしい景観を解説
する。はじめての観光客にはもの珍しいだろが、車中で寝不足を補いたかった当方には
迷惑。

釜トンネルの周囲は安房峠のトンネル工事の最終段階で、昔の面影はない。トンネルは
すでに完成し、アクセス用の道路を付け替え中と運転手は言っていた。釜トンネルは例
によって交互通行だが、なんだか気のせいか少し短くなったような気がする。前後のス
ノーシェルターの部分が増えたせいだろうか。

カメラ事件

終点の1停留所手前の、帝国ホテル前でバスを下りる。齋藤君がカメラの忘れ物を発見。
バスから下りた人間が忘れたに違いないので大声で呼ばわるが、応えがない。やむなく、
ホテルのコンシェルジェに渡して出発。

梓川の橋を渡った上手にある大山神社で昼食。上高地散策の人々が三々五々、神社境内
にたむろしてものを食うわれわれに視線をなげながら通りすぎて行く。ここでは登山者
はむしろマイナーである。

トイレに行った亀ちゃんが、カメラの落とし主がわかったといって、戻ってきた。話を
聞くと、忘れたカメラのことを話しながら歩いている2人連れがいたので、これこれし
かじかと届けた話を伝えたそうだ。すると、その2人は帝国ホテルに訊ねて、すでにカ
メラを回収したというのである。届けたのは齋藤君だが、亀ちゃんが代わりに礼の言葉
を受けてきた。この2人連れ、実はほぼわれわれと同じ年ごろの男4人、女2人の6人
パーティの片割れで、このあと延々と、奥穂の小屋までわれわれと同じコースを辿るこ
とになるのだが、この時点では知るよしもない。

西穂はぼくが初めて登った北アルプスの山で、もう30年近く前のことになる。そのあ
とKAVの佐久間君逹に連れられて、11月に西穂、岳沢の縦走、それから大森氏と年末
にも来たことがあった。しかし、いずれも20年以上前のことで、コースの状況は憶え
ていない。たしか、小屋まではほとんど樹林帯であったことくらいの記憶はあるが。飛
騨側からはケーブルもあるくらいだから、登山道は相当荒れていた。どこの山でもそう
だが、久しぶりに訪ねるとがっかりするくらい環境が破壊されている。まあ、八ヶ岳ほ
どではないが。

西穂小屋

西穂の小屋は、火災で建て替えたことは知っていたが、あまり立派に大きくなっていた
のでビックリした。昔の面影などまったくない。玄関前には広いスペースがとってあり、
テーブルがいくつか設営されている。その広場の横には、別棟の売店兼食堂があって、
宿泊客に開放されている。まあ、ちょっとした民宿などよりは、よほど立派である。人
数が6人ということで、ちょうど1部屋をわれわれだけで使うことができた。大森氏は、
これは昨日予約の電話を入れたおかげであると、鼻高々であった。

玄関前の広場で宴会。枝豆をたっぷり持ってきたので、茹でようと思ったが、塩を忘れ
た。そこで、フロントに頼んだら、塩一つかみ快く分けてくれた。全体に、この小屋の
従業員は、山屋の風情はないが、あまり人ずれしていないで、感じがよい。枝豆や、大
森氏の持参のつまみを食べて、一杯やっているとすぐに寒くなってきた。そこで、すぐ
横の売店兼食堂へ移動して宴会を続ける。食事は最終の6時15分からということにし
てあったので、比較的のんびりできた。2gの日本酒と、ビールロング缶8本ほどの消
費である。明日は10時間を超えるハードコースだから、これくらいでほどほどだろう。

97年08月30日(土) 晴れ。
まだ暗いが4時半起床。そのまま、朝食は取らずに5時過ぎに出発する。夜中に風が強
まったので心配したが、天気良好。歩き出してしばらくしてご来光だったが、ちょうど
尾根の西側の日陰がコースだったので、しばらくお日さまを拝むことはできなかった。

やや鈍い形の独標の奥に、綺麗な富士山型の山が見える。はじめ西穂と間違えていたが、
これがピラミッドピークだった。西穂はまだその奥である。独標からの下りが少し嫌な
部分があるだけで、西穂まではなんということはない。でも、早立ちは正解だ。われわ
れと前後して西穂を目指しているのは3パーティーほどしかいないが、これが有象無象
であればちょっと難しい個所のたびに渋滞し、なかなか進まないだろう。おかげで、西
穂山頂へは8時前に着いた。初めて西穂に登ったときは、山頂の周囲は残飯が散乱し、
腐敗臭がたちこめていたのを記憶しているが、今回はそんな気配はまったくない。缶詰
めの空き缶などは多少落ちていたが、訪れる人数の割りには清潔な印象だった。人は増
えてもマナーは多少良くなっているのだろう。

西穂山頂

西穂山頂でしばし休憩。いよいよ北ア屈指の難コースに足を踏み入れる。ゼルプストを
持参した人は装着して出発する。最近は自分でも体力は落ち、バランスも悪くなってい
るのを十分自覚しているので、気分をぐっと引き締める。ここから核心部の間ノ岳まで
に、ピークは3つある。最初の難関は、p1を越えてすぐの岳沢側のルンゼを下降する
鎖場である。スリップすると、そのまま岳沢へ転がり落ちる。体がまだ慣れていないの
で、嫌な降りだ。多分これが、20数年前の11月にこのコースを通ったときにわずか
に記憶がある個所だろう。もっと狭いチムニー状だった記憶があるが、そうでもなかっ
た。

とにかく錆びたような赤茶けた岩の累積するコースを何度が登り下りする。やがて稜線
通しではとても登りきれない気配の岩稜に達する。そこでコースは少し飛騨側に回り込
んで暗いガレ沢に入る。井戸の底から這い上がるように、わずかに見える青空を目指す。
その登りで、今日はじめて奥穂側からの単独行の登山者にあった。コースの情報を交換
して、すれ違う。このコースで落石があると、間違いなく登山ルートに集中するので、
できるだけ早く登りきらねばならない。大きな岩だらけのガレ沢をもくもくと急登する。
最後の狭い出口を乗り越すと、急に視界が広がって、2、3人の登山者の姿が見えた。
さらに多少上り詰めるとピークに達する。陰鬱なガレ沢から解放された安堵感で、ほっ
として周囲を見渡す。行く手には天狗のコルからの急な尾根が延々と立ち上がり、その
はるか先に奥穂の頂上がわずかに覗いている。いったい、あんな遠くまで行けるのだろ
うかと思うほど、遙かかなたに奥穂はある。

ちょうど一本立てる頃合いである。そのピークで休憩を取った。しかし、驚いたことに
そこはすでに間ノ岳の山頂だったのだ。まだ、手前のp2くらいだろうと思っていたの
で、意外だった。えっ、もう着いちゃったの、という感じである。とにかく、このコー
スの核心部は間ノ岳周辺と思っていたので、何だこんなものかの感をぬぐえない。あら、
あっけなやの間ノ岳であった。西穂を出発するとき、大森リーダーにいちおうザイルを
出そうかと相談したが、まあとりあえずは不要だろうということで出さなかった。出さ
なくてよかった。これで、ザイルを見せて歩いていたら笑いものになるところだった。
だからといって、決して油断のできるコースでないことは言うまでもないが。

天狗のコルへの下りもさしたる難所はなく、最後にコルへ降り立つ手前のスラブが、こ
れで鎖がなければ少し嫌だろうなという程度であった。久々の天狗のコルは、今日の明
るい日差しに照らされて、開放的な雰囲気だった。記憶に残るこの場所は、狭くて薄暗
いものだったが。いまや外壁の石積みだけの残る避難小屋は、古代の遺跡を見るような
たたずまいであった。

ジャンダルム目指して
ここまで縦走しながら、行く手をつねに観察していたのだが、どうもいまいちジャンダ
ルムの姿がはっきりしない。奥穂側からほど、顕著に屹立する岩峰が見えないのだ。な
んだか、延々と立ち上がっている岩稜の途中のコブくらいにしか見えない。それはとも
あれ、天狗のコルからはひたすら登りにつぐ登りだ。高度感はたっぷりあるが、フリク
ションのきくしっかりした岩場なので、嫌らしさはまったくない。快適な岩稜散歩であ
る。

核心部を越えた安心感からか、少しチャウの歩みが停滞ぎみである。どうやら、疲れも
あろうが、持病の高山病が始まったらしい。ぼくの雪酔いと同じで、他人は、そんなに
気持ちの悪い思いをするなら、高い山などやめればいいのにと思うのだが、どっこいそ
うはいかないのである。むかしは、こういう岩場になると、機械仕掛けのように手足が
勝手に動き出したものだが、流石に五十を過ぎると少し飛ばすと息も絶え絶えである。
しかし、この快適さは、なんともいえない。見渡す限りの青空の下、右も左も遙かに切
り立った、研ぎ澄ましたような尾根筋をひたすら高度を求めて、登りに登る。うーん、
たまらないな。

早立ちはするものだ。ジャンダルム手前の石庭状の広場に達したのは、まだ12時であ
った。そこで、ジャンを眺めながら、休息しエネルギーを補給する。こちら側から見る
と、ほんとにジャンはさえない岩の出っ張りにしかみえない。コースは、ジャンの側壁
を左右を反転した疑問符のように左から回り込んで、右下側へ抜けている。久々にきた
のだから、いちおうジャンの頭まで出てみる。頭から直接奥穂側へ下降できるし、下降
した記憶がある。しかし、ザックの重さが気になったので、やめておいた。善さんは、
そのまま下っていった。下降用にザイルがフィックスしてあるのが見えたが、積雪期で
なければザイルは要らないはずである。ジャンの飛騨側の壁は岩登りの初級コースにな
っていて、大森氏とぼくがはじめて穂高の岩を登ったのがここだった。ジャンダルムの
T1下バットレスというルートだ。まだウサギの頃だったが、岳沢のベースから、扇沢を
詰めてジャンの北側の基部に達し、そこから飛騨側に回り込んで取りついた。あの頃の
緊張と昂揚が懐かしい。

ジャンダルムから先は、何度か通っているのだがさっぱり記憶がない。たいしたことは
あるまいと高をくくっていたが、どっこいそうは行かなかった。またまたどどっと下っ
てたっぷり登る。途中飛騨側に外傾した嫌な下りのトラバースが延々と続く。これが終
わるとあとは、さしたることはない。確かに馬の背の難所はあるが、痩せ尾根の急登で
高度感はでるものの足場はきわめて堅固なので、安心して登れる。ここで、先行してい
た4人パーティーに追いついてしまった。向こうはなぜかザイルを出して、わいわい騒
いでいる。取り付きにいるのは、リーダー格の我々年配の男が1人と、あとは1人はま
だ高校生のようだ。彼らが登りきるのを待つのは少ししんどいなあと思っていると、や
はり大森氏が年配の男に挨拶して上り始めた。先に通してもらうことにしたのだろう。
たしかに、両側がすっぱり切れて、両の脚が、稜線の左右に振り分けになるほどの狭い
急な岩稜ではあるが、いやらしい個所はまったくない。これが、下りで濡れていればそ
うも言っていられないだろうが。

馬の背の核心部は稜線通しで30mほどだろうか、ザイル1ピッチで楽に越えられる。登
りきると、上にも同じような年配の男と高校生ぐらいのが2人いた。男は下に向かって
あれこれと指図している。久しぶりに若人に会ったので、若いねと声をかけると、はい、
二十歳ですと嬉しそうに応えた。もう1人は登り終えたとはいえ、緊張のためか顔がこ
わばっていた。あとで大森氏に聞いたところでは、この年配男、パーティーとはまった
く関係がないそうだ。えらそうに若いのを励ましていたので、てっきりメンバーかと思
っていたら、単なるやじ馬だそうだ。そのために奥穂から馬の背まで下りてきたという
のだから、もの好きとしか言い様がない。

馬の背を越えると奥穂は目と鼻の先、途端に傾斜も緩やかに縦走路も広々としてくる。
過酷な登高と緊張から一気に解放され、混雑した山頂を目指してゆっくりと登る。奥穂
着はまだ2時前。延々9時間の登高であった。

奥穂山頂

山頂は、50歳前後のオバサンたちが圧倒的で、いやそのにぎやかなこと。早朝からい
ままで数パーティーしか行き会わなかった西穂奥穂間とは大違いである。山頂から少し
離れて、人影の少ないところに陣取る。ちょうど涸沢上部から奥穂山頂へ一直線に這い
上がってくる直登ルンゼの落ち口である。満足感にあふれた大休止を取る。無事に登頂
できたことの喜びひとしおである。西穂から奥穂を望んだときの、遼遠たる隔たりと気
圧されるような高度差が、それを乗り越えてきた今は、誇らしく思い起こされる。奥穂
から白出の小屋までは、まったく考慮の他だ。

ここで、昨日の残りのビールで乾杯となるのだが、いや待て、ロッテのヒヤロンミニを
わざわざ持ってきているのに使わない手はない。以前これを直接にビールに接触させて
あまり冷えずに失敗したが、水を張っておけば多分よく冷えるはずである。そこで、保
冷バッグにビールを入れ、水を張り、ヒヤロンを叩いて入れ、じっと我慢の何とやらで
ある。

もういいだろうと、取り出す。しかし、何と、まったく冷えていない。水の温度はほと
んど変わっていないのだ。失望というか、ヒヤロンうらめしというか…………。濡れた
ヒヤロンを取り出して、罵ることしばし。やがて、はたと気づいた。先ほどの叩きが足
りなかったのではないか。あまり強くすると外の袋が破れそうで、ほどほどにしたのだ
が、こうなればどうでもいいとばかり、思い切り叩いた。その瞬間、冷んやりとした感
触が掌に伝わってきた。叩き足りなかったのだ。中の袋が破れて水が薬剤に浸透しない
と冷却は始まらないのである。と、いう次第で、奥穂山頂でやっと冷えたビールにあり
ついたのであった。

奥穂山頂では、一時間ほども過ごしたろうか。そろそろ空腹を感じ始めて、下山を開始
した。振り返れば、ジャンダルムから馬の背へかけての岩稜は、圧巻である。高度差
100mはありそうな、大岩壁の中央を蟻のような登山者がトラバースしている。自分たち
がつい今しがた緊張しながら通過した、外傾したいやなへつりである。ここから見ると
とても歩けるような場所には見えない。まったくのどかな今の下りからすれば信じられ
ないほどの心理的な落差である。あとでわかったのだが、このときの蟻たちは、例のカ
メラ騒動のパーティーだったようである。

穂高山荘

奥穂の小屋は、相当な混雑だった。一万円余分に払い、個室を確保する。でも正解だっ
たようだ。入れ込みの部屋を見ると、びっしりと敷き詰められた布団の上で、いくつか
のグループがひざを抱え、肩を寄せるようにして話し込んでいる。ほとんどテントでし
か寝たことのないわれわれには、ちとこの雰囲気は馴染まない。

指定された部屋は2階の北穂寄りの涸沢側である。部屋に入ると、屋根裏といい、柱と
いい、いたるところから買物袋が下がって少し黄色い水が入っている。奇観である。し
ばらくして気づいた。雨漏りがするのだ。まあ、山小屋である。頬笑ましいとでもいお
うか。部屋の窓からは、小屋の前のテラスや、涸沢側の風景がよく見える。少し端っこ
ではあるが悪くない位置である。

高山病でぐったりしているチャウを部屋に残して、テラスに出て宴会だ。まだたっぷり
ある枝豆に、牛肉の味噌漬け。渋る会計担当の大森氏に、ビールと酒をせびっての乾杯
である。さして飲んだわけではないが、十分な疲労と満足感があるから、たちまちよい
気分になる。隣のテーブルでは、例の西穂から一緒のカメラグループが嬉しそうに、話
し合っている。その気分は、こちらも同様でよくわかる。

97年08月31日(日) 晴れ。
ずぼらを決め込んで、部屋からご来光を拝み、今日も朝食なしで出発だ。この方式は、
朝は食欲のないぼくなぞはには非常に都合がよろしい。それに、昨夜の論外の夕食から
推して、とても食いたくなるようなしろものではなかろう。

取っかかりのザイテンは、思ったより急下降だ。何度も通っているがこれほど急だとは
思っていなかった。それでも、あれやこれやの高山植物を楽しみながら、わいわいと下
る。途中で山渓の募集した団体を追い抜く。派手な蛍光色の識別標のようなものをつけ
て、いかにも最近山を始めた中高年といったグループだ。山は、今や観光業者の格好の
標的になっているのだろうか。山渓などの募集の実態は、名前で客を集めているだけで、
中身は旅行社任せのようである。それも、多少山を歩いた程度のガイドがついてである。

涸沢小屋のテラスにて
涸沢小屋のテラスで大休止。ほどほどに腹も減り、朝の涸沢を眺めながらの朝食は気分
がよい。もちろんビールつきである。みんなの行動食をかき集めると、結構なご馳走に
なった。前回、槍から北穂まで縦走したときも、涸沢へたどり着いての翌日、ここでワ
インを飲み、屏風の頭まで散歩することになったのだ。今朝も、あのときの気分に共通
する充足感がある。

涸沢からカッパ橋までは、例によってひたすら歩くのみ。とちゅう、徳沢で亀ちゃんが
オオイチモンジを見たという。珍しいチョウだといって、興奮していたが、残念ながら
ぼくは見られなかった。あとで調べると、このチョウの食草が梓川の河岸に多い、ドロ
ノキであることを知り、納得した。

カッパ橋から、穂高連峰を振り返り、縦走した峰々を指さして、あれが西穂、あれがジ
ャンとしばし昨日の行程を思い起こす。しかし、ここからみると細部は結構判らないも
のだ。そこにへばりついて登降を繰り返しているときは、あれほどの大構造であったも
のだが、ここから見れば区別もつけにくい皺だったり凹凸に過ぎない。

下山のバスは次から次とやってきて、以前のようにバス停が混雑することもない。そそ
くさの体で沢渡へのバスへ乗り込み上高地を後にする。途中の道は、登ってくるバスが
多くすれ違いもままならないほどだったが、さしたる渋滞はなかった。まだ下山のラッ
シュは始まっていない時刻だ。釜トンもスムーズに通過して、うとうとするうちにデリ
カを止めた駐車場へ戻る。

泡の湯

腹もへっているがまずは汗を流そうと、白骨温泉へ向かう。かっての古びた雰囲気とは
異なり、新しい木造の案内所などができて、駐車場はほぼ満杯である。ここは、あきら
めて林道をさらに奥へ進み、齋藤君の知っているという泡の湯へ向かう。白骨の中心地
とはずいぶん離れているが白骨温泉郷の一部に含まれるらしい。泡の湯には2軒しか宿
がない。そのうち大きい方の一軒はこの時期宿泊客以外の入湯は断っているという。も
う一軒のこじんまりした宿の方はOKだ。さらに奥の温泉場を偵察しようという意見も
あったが、もう面倒だと、ここに決める。宿の名は憶えていないが、ここの温泉は『か
つらの湯』という。われわれだけで一杯になりそうな小さな浴槽だが、白濁した硫黄泉
で風情はたっぷりだった。表には男女共用の露天風呂もある。先客はひとり、今日まで
乗鞍で開かれていたというマウンテンバイクの大会に参加した帰途、今日はここに投宿
するという外国人。日本には長いらしく言葉に不自由はない。どうやら、日本人の奥さ
んと2人で温泉を楽しんでいたところへ、われわれがどかどかと踏み込んでしまったら
しい。いや、いや無粋なことを。まあ、あとでゆっくり入り直してください…………

帰路の出来事

山で溜まったほこりと汗を流し、さっぱりとした気分で宴会場を探して松本へと向かう。
新島々は過ぎていたと思うが、新道と旧道が平行して走っているあたりに、両方へ又を
架けたようなソバ屋が目に付いた。新道を高速で走っていたのでいったんやりすごし、
新旧合流点からUターンして旧道側からソバ屋へ入った。どちらからも入れそうだが、
とりあえず新道側の入口から入るとウナギの寝床のような通路を通って、旧道側に食事
をする部屋がある。入ったとたんに失敗した雰囲気である。カウンターがあって背後に
安酒が並んでいる。なんだか場末のバーといった感じだ。とてもソバ屋の風情はない。
もう腹を括るしかない。我慢しょうと、諦めて注文をはじめたが、どうも注文を受ける
使用人らしき男がこれまたバーテン風で、日本語が通じているのかいないのかも判らな
い。言語明晰、意味不明瞭、これを究めたりといった男である。ほんの数秒前の記憶も
保持できない様子で、言葉は虚しく注文の確認を繰り返す。

酒の肴に馬刺などを頼み、食事は後にするにしても、とりあえずというから、めいめい
ソバを注文する。はじめ我々だけだった店へも一組二組と客が入ってきた。しかし、な
んせ電源の切れかけたRAMのような記憶力で注文を受けるものだから、捌きの悪いこと
おびただしい、品物は間違える数は間違えるで、その男ひとりうろうろと歩き回り、訊
ね回りしている。

あまりにくどくどと注文を確認し、しかも間違える様子からして、予想はしていたのだ
が、まだ飲み終わっていないのに、ソバが出てきてしまった。ついに、おじさんプッツ
ンである。酒を飲めば人一倍赤くなる顔を、そうでなくても日に焼けた顔を、烈火のご
とく火照らせて(と思うのだ。本人には見えない)、だれが今出せと頼んだと、そばを
出してきたオバサンを怒鳴りつけてしまった。これは可哀相だった。オバサンに何の罪
もない。悪いのはあのバーテン風だが、言語の意味が風のように耳の横を通りすぎて行
くこの男は、のれんに腕押しでほとんど応える様子がない。

そのうち、大森氏の“事態はそこまで煮詰まってないんじゃないの”との一言。本人も、
それほど怒る状況ではないし、どう決着つけるかなあ、などと思っていたので、怒りは
スーット収まってしまった。どうも、いたずらに馬齢を重ねるとトリガーだけは簡単に
外れてしまってよくない。反省しきりである。まあ、オバサンには迷惑だったが、これ
も梓の宴会の余興のようなもので、他のメンバーは結構事態を楽しんでいたようだった。

あとは、亀ちゃんに運転のご苦労を願い、ひたすら渋滞の高速道を帰途についたのでし
た。

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