穂高縦走

――本当にラッキーだった今年の夏山 亀村 通

1997年8月29日−31日


真っ青な空、さわやかな風、近くに遠くに波打つような急峻な峰々。
  今年の夏の山行は、僕にとっては例年になく充実したものであった。
  一カ月前には加賀白山から、遥か穂高の稜線を眺め、翌月にはその穂高の主脈を縦走し
  ながら、前月に登ったたおやかな峰を、見やることが出来たなんて、しかも白山も穂
  高も、申し分のない快晴に恵まれて、今年の夏山は本当にラッキーであった。
  
8月29日(金)7時、例によって東京駅明治屋前に集合した。丸ビルは立て替え工事中だ。
中央道は平日の朝の下りとあっては渋滞のあろうはずがない、快調にとばし松本のIC経
由沢渡の駐車場にデリカを置いて、乗合バスで帝国ホテル前に降り立ったのは、正午前
の11時30分。予定通りだ。
停留所前の石の上に、ミノルタの一眼レフが置きっぱなしになっている。大森さんの見
立てでは6万から7万はするとのこと。周囲に声を掛けたが持ち主らしき人物はいない。
斎藤さんが帝国ホテルのロビーのボーイに預けてきた。「持って上がるのも重たいしね」
「ボーイは名前も確認しなかったよ、得をしたのは彼かもね」、そんなことを話しなが
ら登山口横の小さな祠の前で昼食をとった。
食後、公衆トイレに行った帰りにカメラがどうしたこうしたと喋っている初老の夫婦と
すれ違った。登山姿だ。西穂山荘まで登るに相違ない。追いかけてカメラの話をしたら、
今慌てて戻って帝国ホテルで回収してきたところだという。最敬礼でお礼を言われた。
僕じゃなくて、斎藤さんが恩人ですとは言いそびれてしまった。
12時半に行動開始。西穂山荘まで約3時間の行程だ。沢沿いの樹林帯を登る。小屋泊り
だから荷物が軽い。ビールだけは自分が飲む分、ロングを2本しっかり確保した。天気
は良いが、このコースはいつまでたっても展望のきく道にならない。風も通らず暑いば
かりだ。休むと蚊のような毒虫がよってくる。結局西穂山荘に到着する直前まで、こん
な樹林帯を歩かされた。以前にこのコースを登ったことがある斎藤さんが、登るほどに
その記憶をだんだんと取り戻し、先々の状態に就いて事前に解説あったので予想は出来
た。西穂山荘着15時半過ぎであった。
大森さんが、小屋に事前に予約を入れておいてくれたので、個室が取れた。相部屋とは
段違いだ。明日の穂高山荘は?と聞いたら、そちらは予約していないという。無事行き
着けるとは限らないからだ。荷物をおいて、小屋前の石のテーブルで早速宴会開始。橋
元さんが大量の枝豆を担いできた。中村さんがいるから茹で具合はしっかりと管理され
る。固めでおいしく茹で上がった。しかし肝心の塩がない。山荘に頼んだら快く分けて
くれた。西穂山荘のスタッフは皆若くて気持ちが良い。オーナーの考え方が表れている
のだろうなどと話す。山鳩が1羽、僕らの周りをうろうろしている。人を警戒していな
い。昔から皆が餌をあげたりするものだから、すっかり馴れてしまったのだろう。その
うちにすぐ横の石畳の隙間からオコジョがすばしっこく出たり入ったりし始めた。生き
ているオコジョを見るのは生まれて初めてだ。茶色い体毛で、10センチかそこらしかな
いように見える。思ったより随分と小さい。気づいた他の登山客も写真やビデオを撮り
出した。だんだんと寒くなってくる。小屋の中の喫茶室に場所を移して二次会を始める。
そのうちに食事を知らせる放送があった。メインディッシュはチキンカツだ。どうせ原
価で50円かそこらの違いだったらトンカツにすればいいのにと、トンカツ好きの橋元さ
んがいう。大森さんが同調する。客は皆食事が最大の楽しみなんだから、と決め付ける。
鈴木さんは食っている途中で半分寝てしまって、翌日聞いたらチキンカツの記憶が一切
無いそうだ。僕はチキンカツも油揚げの袋煮もみんなおいしくいただいた。
食事が終わってもまだ7時だ。明日のことを考えるともう酒は飲まないほうがいいように
思う。もっとも本日の割り当て分はとっくに飲み終わっている。寝ることにする。あっ
という間に寝付いてしまう。随分と寝た、もう朝かと思って目が覚めた。トイレに行き
たい。時計を見るとまだ11時を過ぎたくらいだ。それでも4時間も寝たのか。トイレか
ら戻ったらなかなか寝付けなくなってしまった。明日は、4時半おきの朝抜きで5時に行
動開始だ。もっと寝なくてはと思いながら蒲団の中でもぞもぞしていると、大森さんが
窓を開けて星がきれいだといった。その言葉で全員が起き上がっては、窓の外を見る。
何だ誰も寝ていなかったのか。しばらくもぞもぞしているうちにとろとろと浅い眠りに
ついた。4時半に起きたときには、爽快とはいえないが寝不足感はなかった。

翌30日も快晴だ。風も無く、雲も無く最高の天気である。いよいよ今日は西穂から奥穂
までのメインの縦走だ。本当に大丈夫だろうか、体力は持つだろうか、そんな不安がず
っと心の中にあった。まだ夜は明けていない。薄暗い中大森さんを先頭に歩き始める。
西穂の小屋は森林限界にあるのだろう。小屋から上は、ハイマツなどの低木地帯で、こ
れから登る稜線や左右に対峙する峰々が見渡せる。独標、ピラミッドピークと、順調に
登り、西穂高岳山頂に到着するまで、いくつかのパーティーと抜きつ抜かれつで行動を
共にする。それにしても平均年齢が高い。あんなオバさん大丈夫かいなというような人
が案外がんばっている。
西穂山頂で大休止。まだ8時だ。これから先は地図のコースも点線になっていて、足を
向けるパーティーはグンと減る。オッ、あの人たち行くのかよスゴイネ。という顔で見
られるとちょっと誇らしい気分になる。このルートは、かつては一般道だったものが、
入る人が少なくなって道が荒れたということで、岩場が続いて高度感はあるが、そんな
に難しいわけではない。但しルートを一歩踏み外すととたんににっちもさっちもいかな
くなる。もっとも、最近は整備されているようで、岩につけられたペンキの道標もハッ
キリしているし、要所要所のちょっとショッパイ所にはくさりが完備している。案ずる
より産むが易しとはこういうことかと思う。なかなか快適な尾根道だ。もっとも天気が
悪ければそうはいかないだろうと考えながら左を見やると、笠ゲ岳あたりは何時の間に
か雲でおおわれはじめている。天気は少しずつ下り坂なのだ。
間ノ岳、天狗の頭と順調にピークをクリアし、天狗のコルから岳沢へのエスケープルー
トを右に見やる。歩き始めてから、すでに5時間を過ぎている。あとは最大の難関とい
われているジャンダルムと馬の背を残すのみだ。だんだんと時間の感覚が無くなってい
る。背の荷がそれほど重くはないので、ひどくバテているわけでないが、それでも少し
ずつ疲労が溜まっていくのがわかる。中村さんはそろそろ高山病が出始めてちょっと辛
そうだ。快適ではあるが、一歩踏み違えれば奈落の底という個所も幾つか通過する。後
ろを見やると風とともに雲はすぐそこまで追いついてきた。稜線が雲に隠れるのは時間
の問題だ。
正午にジャンダルム手前のコブの頭に到着。大休止。奥穂側から見ると随分立派な岩嶺
だがこちら側からだと大したことないネなどと、皆で言い合う。出発。それにしてもル
ートがよく分からない。どうやらジャンダルム頂上に登る途中からクサリを使って一旦
数メートル降りて、右回りにトラバースするようだ。鈴木さんと橋元さんは頂上に登る
らしい。中村さんはルートを見失ったのかまだこちら側に回り込んでこない。お互いコ
ールを掛け合いながらルートを確認しつつ進む。雲に包まれたらちょっとコースは見つ
けるのが難しい。間一髪というところか。振り向けば、今苦労して通過したジャンダル
ムまでがもう既に雲に見え隠れしている。
馬の背。二十歳前後の若いの数人と五十過ぎのリーダー一人のパーティーがザイルをは
って何やら練習をしている横を、摺り抜けて登る。久々に若い奴等を見たと、大森さん
や橋元さんが喜ぶ。それにしても一体何の練習をしているんだといぶかる。すぐ先に奥
穂の頂上が見える。奥穂から練習風景を冷やかしに来た単独行の老人が、嬉しそうに覗
き込んでいる。奥穂頂上から、うじゃうじゃいるオバタリアンの声が聞こえるまで近く
になった。ばんざい!午後2時前に着いた。約9時間の工程であった。久しぶりの満足感。
大切にもってきたビールで乾杯。ワインもついでにヤル。高山病の中村さんだけはぐっ
たりとお休みだ。1時間以上くつろいですっかりいい気もちになった。さて、二次会をし
に穂高山荘まで下ることとする。ふらふらと下る。午後3時40分穂高山荘着。無事本日の
行程をこなした。
この小屋も西穂山荘に劣らず結構な人の数だ。今夜は約350人の宿泊とのこと。小屋のキ
ャパは500人程度で、盆前後の最ピーク時は廊下まで人があふれるそうだ。1万円のエキ
ストラチャージで6人個室がとれた。昨日はただなのにと文句を言う、すでに小屋評価は
勝負あった。西穂の勝ちだ。涸沢を見下ろす石畳のテラスで二次会を開始する。
今日も茹でたての枝豆が最初のアテだ。さらには橋元さんお得意の牛の味噌漬けブロッ
クを茹でる。うまい。山の上のつまみとは思えないメニューだ。こんなに食って夕食が
入るだろうかと心配になる。さっきから羨ましそうに見ているオバチャンにも少し振る
舞う。中村さんはかわいそうに、ずっと部屋でおねんねだ。小屋の調理場から揚げ物の
においが漂ってくる。やった今日はトンカツだよと、橋元さんがほくそえむ。
6時過ぎに夕食の案内があり、食堂に集まる。メインディッシュにはトンカツならぬ人
工に形を整えた楕円形の揚げ物が鎮座しておる。なんだ、トンカツじゃなくてメンチカ
ツかと一同顔を見合わせる。まぁ許そう。箸をいれる。やはりメンチではなかった。コ
ロッケだ。それでも揚げたてでなかなかうまいと僕は思った。コロッケ一つがメインデ
ィッシュだと、それも8千いくらの宿泊料を払ってだ。そういって怒る人もいる。期待を
裏切られた橋元さんはとうとうコロッケには箸をつけなかった。
7時から奥穂小屋造りなどのドキュメントフィルムの上映があった。大森さんと斎藤さん
が見にいったが、あとは皆蒲団に潜り込んでしまった。山のほうが睡眠時間も長く健康
的な生活が過ごせそうだ。
8月31日(日)、5時起床。天気はもった。今日は最終日ひたすらの下りだ。ザイデングラ
ードを小走りに下る。石が大きくて下りづらい道だ。途中数十人の団体を何度か追い抜
く。1時間ほどで涸沢小屋に着く。テラスでキャンプ場を見下ろしながら朝食とする。ビ
ールもついでにやる。8月も最後の日となると、さすがの涸沢キャンプも随分と寂しくな
るもんだ。テントは数えるほどだ。ここがいついつに張った場所だなどと確認しながら、
テント場を抜け、いよいよ穂高の尾根ともお別れだ。樹林帯に入る。
どんどんどんどん、下りに下って、横尾、徳沢、明神と過ぎるごとに人の数が増えて行
く。上高地周辺はびっくりするほどの観光客の数だ。人酔いしそうだ。12時45分、7時
間の行程の後、はらぺこで上高地バスセンター到着。釜トンネルが渋滞するからとその
まま連絡バスに飛び乗る。最後がなんとなく慌ただしくて、充実した山行であったにし
ては、何というか、シメというのが無いように感じられた。
ところが、白骨温泉がなかなかの当たりで、安曇村のそばやが、味はともかく切れかけ
た橋元さんを皆でなだめたところなど、話題としては大当たりで、その辺でちゃーんと
しまったというかオチがついたというのが、梓の山行の梓らしいところである。帰りの
中央道は約束通りの渋滞にはまった。楽しい、期待を裏切らない山行であった。

8-29
上高地帝国ホテル前 11:45
西穂登山口 11:55 〜 12:30
西穂山荘着 15:40
8-30
西穂山荘発 5:05
独標 6:40
西穂高 7:40 〜  8:00
間ノ岳 9:00 〜  9:10
天狗岳山頂 9:50 〜 10:05
ジャンダルム手前 12:00 〜 12:20
ジャンダルム 12:30
馬ノ背 13:00 〜 13:20
奥穂高 13:45 〜 14:55
穂高山荘着 15:40
8-31
穂高山荘発 5:45
凅沢小屋 6:50 〜  7:45
横尾 10:00 〜 10:20
徳沢園 11:00 〜 11:15
明神 11:55 〜 12:05
上高地着 12:45

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