白山紀行 ―― 疎開時の回想 後藤文明

1997年7月18日−21日


1997年7月18日
上野発23時06分の寝台特急「北陸号」金沢行きに乗り込んで加賀の名峰「白山」に向か
ったのは鈴木、金谷、高橋、橋元、亀村と私の6名であった。1997年7月18日(金曜日)
のことである。
昨夜は手術を2週間まえにうけたばかりの病床の冨山さんを慈恵会病院に梓のメンバー
で見舞い一日も早い本復を祈ってきたのだが、その時東京地方は豪雨に見舞われ今日の
出発も危ぶまれた。しかし今朝からはまずまずの天候で、これで梅雨も明けるのだろう
か。
5年ほどまえの冨山、橋元及び亀村の3人の白山行は大豪雨のなか出立し、翌日からは梅
雨明けの大快晴のすばらしい天候に恵まれたと言うが今回はいかに。上野駅の一番乗り
は勤務の都合で参加が出来ずに日程のきめ方が悪いと前夜さんざん「絡んだ」斎藤さん
であった、午後6時ごろから一杯やったとかで赤い顔をしていたがたくさんのビールや
つまみを差し入れてくれた。
齢いくつになっても新しい旅の出発は心ときめくものだが、おじさん、金やん両氏も夕
刻からの一杯でさらにご機嫌である。
斎藤さんの好意あふれる見送りを受けつつ列車は出発した。
寝台席の確保にはおじさんにおおいにご苦労をかけた、プッシュホンによる予約は1枚
ずつの申し込みでなかなか大変であった、やっと8名分の確保に成功したが、大森、中
村の二人の都合がつかず結局6名のメンバーとなった。
寝台席4人のブロックのうち3人がとれていて、残り1席を他の人に替わってもらった
結果格好の宴席となってしまった。
あれこれたわいもない話題で午前1時となったところで乗務員に(おやすみなさい)と
いわれ白川夜船の夜行列車の旅となった。

7月19日午前5時20分「カンカラ、カラカラ、カンカラカン」とチャイムでおこされ
「オハヨウございますあと30分で富山に到着です」とやられた、いま寝たばかりなの
に・・・・・・。
金沢到着6時30分、6時40分発の鶴来、白峰、市ノ瀬経由別当出合行きの登山バスに乗
らなければならない、一同早足で駅前のバスターミナルにいそぐ、すでに200名ほど
の登山客が列を成し我々は最後尾につくがいったいいつ出発か気がもめる。
臨時の路線バス車両に乗り込んだのは7時20分であった、満席のなかコンビニで買っ
た美味くもない弁当をパクツイテ朝食とする。
天候はといえば文句のない快晴に恵まれ強い夏の日差しの中、バスは南下して目的地
へ急ぐがほとんどのメンバーは寝不足を取り戻すためにこっくりこっくりとやってい
る。
途中白峰で休憩停車をはさみ9時30分に別当出合につく、ここには立派な登山センタ
ーが建っていて休憩所、水飲み場、電話、トイレが完備され、脇には売店もある、砂
防林道コースの出発点である。
なにしろ交通の便の悪いところなので帰りの交通便を検討する、バスの便は昼の12時
30分が最初なので効率が悪い、明後21日は午前10時にマイクロバスをチヤーターして
福井へ向かい「永平寺」詣でをしようということで一決した。

身支度をすませ、さあ出発である。前方には細谷川上流の不動滝がずっと高みに光っ
ているが一昨日までの激しい雨で水量が大変多い、大きく開けた谷筋は激しくガレて
いて大規模な砂防工事が行われている、なるほどこれで「砂防新道」の名前に合点が
ゆく。
みんな荷物はなかなかのものだ、皆で8人用テント、食料、酒類(缶ビール350ml1ケ
ース、500ml4本・清酒3升・ワイン3本・ウイスキー1本)などを持っているが、特に
頼もしいおじさん、亀ちゃんの荷が大きく重い。
砂防新道沿いの車道の終点には屋根まで鉄筋コンクリートで豪雪に対する備えをした
トイレがあり、水飲み場の水は冷たくておいしい。さてそれから甚之助避難小屋まで
の約2時間の登りはキツイ、気温はどんどん上昇するし、ときたまはるか来た道筋を
振り返ってみても、まだまだ行く手の行程のボリュウムが比較にならず遠く、見上げ
れば青い空と干いた光が目に痛い。
やっとの思いで甚之助避難小屋の水場に到着、先行のおじさんがビールを冷やしてく
れていたが、キューッツと冷えていて冷蔵庫で冷やしたのとはまた格別のものがあり、
これに比すべき美味なるものは無かるべし。
賢明なる読者諸氏はこのあとの地獄の苦しみはよーく理解できるだろうし、また同じ
体験の共有者でもあろう。だが苦しみは過ぎてしまえば不思議に「恍惚たる思い」の
みが残るもので、砂防新道を左に分け水平な南龍道を今日の幕営地の南竜ケ馬場キャ
ンプ指定地へ向かうころは細谷川最上流地帯がはるか目下に見えそのむこうにやや根
張りのおおきな別山が望め、やれやれと嬉しくなる。
5年前と同じく午後3時、最終到着亀ちゃん、私が着くころには早くもテントが張られ
うれしくもビールの乾杯が待っていてくれた。
キャンプ場は大変な混雑であったが広い場所を確保して、おじさんの裁量で木製のテ
ントの下敷きを借り受けて快適空間を確保する。
あとは薄暮の柔らかな光に包まれ、至福のときをよき仲間と、旨し酒と、こころよい
疲れに身を任せるばかりであった。

直近の山行「武尊沢」の折りは酒類の消費が激少で某氏は「由々しき事態」と嘆いた
そうだが、今回は尚やん、後藤が居り左様な情けない仕儀にはなるはずが無い。
前項で酒量を記したがそのほか、金谷常備赤ラベル一本に亀ちゃんがスキットルにチ
オペペを持参、みごと別当出合に帰還したときは一滴もなし、ア・・・現地調達ビー
ル、ロング2本とレギュラー6本をつけ忘れていたが、バッカスはこれを愛でて帰途甚
之助避難小屋の水場でワンカップ大関を2本くださる事になるとはだれも考えなかっ
た事ではある。
ただしワンカップだけは帰りの列車で無事下山を祝って頂戴したが。

翌朝7月20日8時出発、コースは南竜ケ馬場から展望歩道をアルプス展望台に出て室堂
へ、さらに2702メートルの白山御前峰へと向かう事にする。
特に花盛りは、コバイケイソウ・タカネナナカマドである、道すがらおじさんはさっ
そく花の観察に余念が無い、チングルマ・ベニバナイチゴ・キヌガサソウ・クロユリ
・サンカヨウ・ハクサンシャクナゲと退屈しない。
やがてアルプス展望台につく、涼風に吹かれながらしばし展望を楽しむ、北から南へ
剣、白馬、五竜、鹿島槍、槍、穂高と後立山連峰から北アルプス連峰が連なり、すこ
しはなれて乗鞍そして木曽御岳が望める。紺碧の空に刷毛で掃いたような巻雲がたな
びき、胸がゆるやかに開かれて行くような満足感を覚えるひとときである。
これから先は万才谷雪渓の上部を経て室堂へ出て最後の山頂への登りになる、ハクサ
ンコザクラ・イワツメクサ・ヤツガタケタンポポ・イワギキョウ・ヨツバシオガマ・
ハクサンフウロなどなど撮りながら皆に遅れてやっとこ山頂に着く、セスナが「つゆ
明け一番、白山は登山者でいっぱい」という写真を撮りに旋回している。
すでに山頂の儀は始まっていた。
ゆっくりと昼食を済ませてお池めぐりコースを経て室堂へ引き返す。
ツガザクラ・アオノツガザクラ・イワヒゲ・イワウメ・シナノキンバイ・ツマトリソ
ウ・ミツバオウレン・イワカガミと咲き誇る花々は枚挙にいとまが無い。
午後4時過ぎお花畑コースから南竜ケ馬場に戻る。

今夜の食当は亀ちゃん、アスパラのかにあんかけ、野菜炒め、きしめんそれにおじさ
んのえだまめに牛の味噌漬と相変わらず豪華だ、昨夜は私のシーチキンサラダにニン
ニクの芽炒め、カレーライスなどで、今朝は尚やんお得意のかに雑炊に私のピーマン
茄子のミソ炒めであった。明朝は善さんのラーメンがたのしい。金やんは白山ではさ
すがに豆腐と言うわけにも行かなかったが、するめをたくさん持参して皆にすすめる
が・・・。やはり問題になったのは尚やんの担当の酒(冨山さんにちなんで〆張鶴)
の値である、「一升4000円とは無駄遣いである、却下」の声に「3990円ゆえ4000円
ではない」と主張、善さん用意の一升は「税込み950円」である。
もっとも現地調達のビールはレギュラー450円だから〆張鶴に文句は言えないかもし
れない。なに、いつものちょっとした楽しみの諍いに過ぎない。

最終日7月21日善さん、金やんが5時前に起床2人で朝食の支度をしている、今日も快晴、
空にはなごりの真ん丸な月が懸かっている。
善さん早くも麺を茹でてしまったのでおお慌てで皆を起こすが、モーニングチーもお目
覚めビールもやる暇が無いので(ブーイング)。もっともちょっと順序が違っただけな
のでどうと言う事もない。

午前7時撤収をすませて出発。
途中イブキトラノオ・カラマツソウ・ゴゼンタチバナ・ノカンゾウなどを愛でつつ下山、
途中夏休みのリクリエーションか永平寺の若い修行僧が100人も登っていった、9時20分
までに全員別当出合に降りる。
チャーターしたマイクロで永平寺へ向かい1時間40分を費やして到着。
1244年(寛元2年)鎌倉時代に道元禅師によって開創されたのが曹洞宗大本山永平寺であ
る。
「大仏寺山に拠って、渓声山色豊かな幽邃の境に七堂伽藍を中心とした大小70余棟の殿
堂楼閣が立ち並んでいる」とあるが、たしかに歴史ある名刹の趣は十分であるが参拝受
付所のような「吉祥閣」という研修道場は鉄筋コンクリート地下1階地上4階の建物で著
しく興を削ぐ、観光客がぞろぞろ(もっとも我々も同じ)いて・・・それでも今日は人出
が少ないとか、まあ満足して京福電鉄の永平寺駅に戻る。
寺から駅までの徒歩5分ほどの門前道はそば屋、土産物屋が軒を連ねている。
帰宅したらここの「永平寺みそ」と言うのが旨いそうで、我が家に隣家から1月ほどま
えに到来したのを谷中生姜につけて食したら結構であった。

私事になるが、京福電鉄の車窓からの景色を眺めていると遠い昔の事が思い起こされる
のであった。
車窓からは低い山々に囲まれた田園地帯をぬって急流が流れているのが見える、鮎をね
らう釣り人が幾人もきらきら光る水面に竿をさしている、これが九頭竜川である。
昭和18年(1943年)国民学校2年生の私は父親の生まれ故郷の福井県吉田郡森田町八重巻
と言うところの伯父の家に縁故疎開をしたが、森田は今では福井市に含まれ九頭竜川に
沿った町である。
伯父は町の「機屋」(絹織物の盛んであった福井県では織物工場をこう呼んでいる)の番
頭を務め、家では雑貨や文具を商って生計を立てていたが4人の子供のいる伯父の家で
はあまり歓迎される子供ではなく、学校でも疎外される生意気な都会っ子であり、勉強
の出来る子としては認められるものの体育科目では出来が悪く格好のいじめ対象であっ
た。
それでも伯母はかわいそうに思ったのだろうが時折やさしい声をかけてくれるものの夫
やほかの子供たちの手前特別扱いがあるわけではない。
長男は福井中学に優秀な成績で入学したが不幸にも肺結核をわずらい屋根裏部屋で伏し
ていて子供たちは入室禁止となっていたが、当時北陸では栄養不足と長い雪の中での生
活などで結核と子供のクル病が多かったのである。
其の家の次男は私の一歳下で子供の事とて私と諍いを起こす事もあった、長男にえこひ
いきもなく二人ともしかられて仲直りをした折りは実に立派な人だと感じたものであっ
たが、若くしてその後まもなくこの世を去ったのであった。
朝ははやく起こされ廊下の拭き掃除は子供らの仕事で、食事前に立派な金仏壇の前で一
家揃って「お勤め」をする。真宗のお経、「帰命無量寿如来・名無不可思議光」の一節
はすぐ覚えたものだった。この「お勤め」は夕刻にもする日課であった。
伯父は几帳面なひとで、昼には食事を自宅で済ますように帰宅するが家の前の通りに水
撒きをするのがきまっていた、すこし撫で肩の小柄な体にいつも和服で足早に戻ると必
ず伯母に声を掛ける、「オヤオヤ、・・・…したかや」と、(伯母の名はヤオであるか
らオをあたまにつけ、・・ヤと呼びかけるからオヤオヤとなる)そして水撒きである、
気のせわしい人だから水撒きも大スピードで「シャッ、シャッ、シャッ」とやるが、前
の小川から長柄の柄杓で足を踏ん張る姿はどうして様になっている、子供心にもおかし
かったのは些かの雨天であっても同じく、「シャッ、シャッ、シャッ」とやるので、小
雨の折りは期待で胸を躍らせつつ待ちかねたものであった。
食べ物は質素でそれこそ一汁一菜というようなもので、都会育ちの私の食べ物は肉や魚
の惣菜や甘い味付けのものが多かったので(砂糖は大変貴重なものであった)、伯父の家
の食事では満足できずにいつも空腹を抱えていた。
味噌汁の実によく使われたのが「ずいき」、すなはち「乾燥したいもの茎」であったが、
これが実に苦手で残してはよく伯父にしかられた。
また空腹に耐え兼ね同級の悪童とキュウリと茄子を盗んでは食べたが、生の茄子は美味
くない。私は30歳ころまで「芋茎」と「浅漬かりの茄子」には弱かった。
それでも頑是無い子供の事で、九頭竜川で泳いだり、川魚を捕ったり、蓮池ではすの実
を採って食べたり、田螺とりをしたりよめ菜をつんだりイナゴを採って家に持ち帰って
誉められたりしたこと、母親恋しで北陸線森田駅で列車の発着をぽかーんと眺めていた
り、急行列車や貨物列車が猛烈な勢いで走りすぎてホームに蒸気が渦巻くのに寒気を感
じながら見ていたこと、真宗中興の大人物「蓮如上人」の輿が後藤の本家にお泊りにな
り町中あげての大騒ぎをみてびっくりしたことなど、楽しくまた切ない思い出となって
いる。
疎開生活の様子を見に来た母親が私の様子を見て切なくなり、冬の来ぬ前に東京の家に
戻る事になったが、太平洋戦争も激しくなり首都では強制疎開まで行われるようになっ
て私たち一家は昭和19年の秋福井市内に家を求め疎開する事になった。
翌20年5月に大空襲を受け家、家財を失い恐ろしく、つらく、悲しい流浪の生活が続い
たが他人の温情に助けられた経緯については長くなるので割愛する。
ただ終戦後すぐのことだが強烈な印象がある。
前出の伯母と私とで大腸カタルで死んだ幼い従兄弟を福井市内の病院から駅一つ離れた
森田の家に連れ帰るために爆撃でプラットフォームだけになってしまった福井駅に列車
待ちをしていた。
あっけなく死んでしまった子を背負う母と、その手につかまって途方に暮れた気持ちで
いた私。
どこまでも焼け野原の街には夕闇が濃く降りてきていたが、そこここに旧家の焼けてし
まった倉の壁かたちだけが見え、戦場のようなシルエットのなかに青白い「燐」の燃え
るのが見えるのであった。
「おとろしー」「人魂やでー」と大人たちも一様に息をのんで見守るばかりであった。
家に帰って息せぬ子を見て伯父はひとこと言った、「死んだかやー」と。
それから50年余を経て今はもう何もない時代になっている。

そうこうするうち電車は九頭竜川に沿って福井へ出たが、気がつくと早朝のラーメンか
ら飲まず食わずで午後2時になってしまっている、まずはとてトンカツ屋を探すが、僥
倖にもすぐに「カツ花」という店を見つける。
さしみ好し、ロースカツまたこれ好しと満足の行くまで飲み且つ食したのであった。
福井駅から特急列車約1時間で米原へ、東海道新幹線のひかりは大変な混雑なので次の
こだまにする、メンバー6人向き合い席でのんびりと帰京、私は新横浜下車、皆は午後
9時10分東京着で梓山行「白山」は無事終了したのであった。

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