奥白根 ―― 脅威のダブルストックおばさん 橋元武雄

95年10月20日〜21日


95年10月20日(金) 晴れ、風強い
夜7時に南浦和集合。鈴木、大森、中村。

4人くらいだと車が広く使えるので、荷物の量を心配しなくて良い。
ほぼ時間どおりに出発、外環、関越経由で沼田で下り、鎌田で尾瀬への道を左に分けて、
菅沼着10時50分。茶屋の前の広々とした駐車場には縄が張ってあり進入できない。こん
な山奥の広大な駐車場にわざわぜ縄を張ることに心理的な抵抗を感じながら、その横の
登山道方面へ入ると、山道の両側も未舗装ながら広い駐車場になっていた。すでに1台車
が室内灯だけ点けて止まっていて、なかの人がこちらの動きを見ている。わざわざ近く
に駐車することもなかろうと、茶屋の駐車場の隅まで戻って、車を縄の外に置き、テン
トは舗装した駐車場内に設営する。
恒例によって、鳩ヶ谷産の魚介類による刺身(ヒラメ、カンパチ、スズキ、カツオ、タコ)
で宴会。夕食用に用意した焼きギョウザは不評であった。寿司も買っておいたが、ほと
んど手が出ない。ずいぶん少なくしたつもりだったが、量が多すぎたのだ。
テントの外に出ると、黒々とした山並みに囲まれて満天の星が星座の区別ができないほ
ど数多く輝いていた。

95年10月21日(土) 快晴
久しぶりに味わう寒気と、頻繁に到着する登山者の車に眠りを妨げられながらも、あた
りが明るくなるまで寝る。“ライターがない”という善さんの声に目を覚ましたのがち
ょうど6時だった。“外は真っ白ですよ”という。霜が降りたのだ。予備のライターを
やっと見つけて外に出ると、すでにコンロに火が着いていた。こちらのライターがなか
なか見つからずぐずぐずしているうちに、近くにいた登山者から火を借りてきたという。
テントの外は、道も駐車場も、テントも車も、霜をおいてすべて真っ白に変わっていた。
寒かったわけだ。これでは、氷点下を相当下ったはずである。空には雲一つなく、駐車
場を囲繞する山並みはまだ暗く沈んでいる。沢風も吹き下ろしているし、この温度では
調理に時間がかかるので、テントのなかで炊事をすることにした。コンロの火でテント
が暖まった頃、外の食料を取ろうとテントを開けると、テント内の空気が煙突から吐き
出す煙のように空に立ち上って行く。朝食は冨山風ニラうどんと白菜の漬物である。

そろそろ食事も終わろうとする頃、テントの外から声がする。管理人がテントを撤去し
ろと言っている。嫌な予感は的中した。テントの中と外で顔もみ合わさずに、2、3の
不愉快な問答があった。結局、食事の最中だから動けないというこちらと、何でもいい
からすぐに出て行ってくれというあちらが、互いに言いっぱなしで、管理人とやらは立
ち去っていった。昨日も、このあたりの人情は薄いという話を車中しながら来ただけに、
案の定という事態である。こちらも不愉快な場所にねばる理由もないし、食事も済んで
いたので、撤収にかかる。テント内の装備を表に出して、外に出てみると、まだ駐車場
には縄が張ってあり、早朝のことでもあり観光客の車などくる気配もない。要するに先
ほどの男は、職務というよりは、何か相手につべこべ指図したいだけの理由で、あのよ
うな言動に及んだのだ。ままある偏狭な性格である。

夜中のあいだに登山道の両側はほとんど空きもないくらいに登山者の車で埋まっていた。
すでにどの車中にも人影はない。8時過ぎ、われわれも出発する。多忙のため体調不十分
という大森氏の先導でゆっくりとしたペースで進む。ヤハズハンノキのまだ緑を残した
落葉に埋まった草原地帯を過ぎると、シラビソ、コメツガ、アスナロを主体とする針葉
樹林帯が続く。
元気なオジサン、オバサンが次々と我々に追いつき追い越してゆく。近ごろの中高年は
元気がいい。我々は、近づくパーティーがあれば道を譲って、植物の話などをしたり、
たわいもない駄洒落を飛ばしながら和気あいあいと登って行く。
そんなわれわれの気分に、水をかけるような不愉快な出来事があった。突然うしろから、
“道を譲ってください”とオバサンから声がかかる。まるで、邪魔だからそこをどけと
言わんばかりの語勢である。振り返れば、我々のあとに3人のパーティがいて、オジサ
ンが2人、そのあとにオバサンが1人。彼女は、頭に鉢巻きを絞め、両ストックを登山
道に突き立てんばかりの勢いで登ってくる。先頭の中年男性は、われわれからまだ数メ
ーター離れていて、背後に迫ったというほどではない。それほど近づけば、こちかから
進んで道を譲っている。それに登山道は十分広く、並んで登ってもなんの支障もないほ
ど幅がある。どうやらこのオバサンリーダーは、仲間の男どもに威勢を示すために、赤
の他人にしなくてもいい指図を下しているのだ。

またである。似たような性格の人間に、なんでこう立て続けに出会わなければならない
のか。カチンときた当方は、“道は十分広い。抜きたければ勝手に抜けばいいだろう”
と言い返したが、さすがに人格の練れた大森氏は、立ち止まって彼らが通りすぎるのを
待った。男どもは、カッ、カッと登山道を噛むオバサンの両ストックの音に、しごかれ
るかのように黙々と立ち去って行ったのである。
それにしても以前にはまったく考えもしなかった光景だ。たしかに我々も、ルート時間
の短縮を競ったり、ルートの難度を競って登った時代はあった。しかし、それも初心者
のほんのわずかな時期だった。それを、我々と同年代、つまりどうみても五十代真っ盛
りという年頃の登山者が、目の前で演じているのである。登山年齢が高齢化したとはい
え、稚拙な精神的発達過程まで平行移動してくるとは思わなかった。唖然。

薄暗い森林帯が続いて、適当な休み場所も無かったためゆっくりとはいいながら弥陀ヶ
池までコースタイム2時間余のところをノンストップで歩いた。
弥陀ヶ池は、南を白根本峰、西を座禅山、東を五色山に連なる無名峰の3つの山懐に抱
え込まれた小さな火口湖だ。ここまで来ると森林の帳から解放されて急に視界が開ける。
といっても、三方が山だから、山並みを覆う真っ青な空とそれを映す沼の水面の輝きが
印象的である。見上げると圧倒的な本峰がそびえ、その左になだらかな座禅山が続いて
いる。我々がこれからたどる登山道は、その間のコルへ向かっている。
弥陀ヶ池で、ミカンなどを食べて少し休んでから、本峰へ向けて出発する。
快晴の空のした、これから登るコースは歴然としている。すでの多くの登山者たちが連
なって登っているそのコースは、ダケカンバ、ナナカマドなどの疎林帯を急登したのち、
岩だらけのルンゼ通しに山頂と思われる岩峰の割れ目に消えている。すでに高山植物は
立ち枯れて、そのままでは何かはわからないが、枯葉を押し広げたり、残存する萼片の
形を見たりして、植物名を推定する。それでもハンゴンソウ、カニコウモリ、マルバダ
ケブキなどははっきり区別がつく。そんな話をあれこれ善さんとしていたら、大森氏か
ら“そこまでやると、これ見よがしだ”と言われてしまった。でも、けっこうこれが楽
しい。

岩だらけのルンゼにはすでに数pの雪が積もり、踏み締められて氷化している。後から
登ってくる団体のリーダーらしき男が、滑るから気をつけるようにと大声で叫んでいる
のが聞こえてくる。この団体も相当平均年齢が高そうだ。少なくとも我々より一世代は
上である。これも昔はなかった現象で、ハイキング程度ならまだしも結構本格的な山域
まで中高年の団体旅行に出会うことが多くなった。それも“老いらく”や“中年子持ち”
などの山岳会ではなく、どうも旅行社の主催らしいのだ。儲けになるとなれば、山にま
で商売人が進出してくる。
そこまで考えて、しかしな、と思った。ヒマラヤトレッキングがはやってすでに久しい
し、いまはシルクロードの探訪まで商売になっているという。要するに、ターゲットが
より一般的な山と人にまで広がっただけのことで、とおの昔から同じことだったのだ...
と思い至る。
弥陀ヶ池から山頂までは急登だが、ちょうど1時間の行程だ。山頂部は、爆裂火口の面
影を残して、小峰が乱立している。最初に登り着いたピークは山頂ではなく、そこから
少し下ってまた登り返したところが、奥白根山頂であった。天気は快晴。雲は遠くのさ
らに遠くの水平にわずかに見えるだけ。しかも昨日の強風で空気中の微塵は吹き払われ
て、視程はきわめて良好だ。
これだけ何でもよく見えると、深田久弥ならずとも、どれがどの山かが気になってくる。
山頂から東へ張り出した岩稜の一角に陣取って、軽くビールなどを飲み、あの山はあれ
だ、この山はこれだと始まった。すでに、登りの途中で善さんが燧岳を見つけていたの
で、芋蔓式に至仏山、武尊山、平ヵ岳、会津駒は判明し、越後中岳、八海山などはほぼ
意見が一致していた。山頂では、富士山、男体山、女峰、大真名子、子真名子、太郎山
などは言わずもがな、赤城山、浅間山、磐梯山、那須、秩父、八ッ、南アルプスなども
見当がついた。もっとも、すべてがすべてすんなりと決まったわけではなく、名にし負
う方向音痴のチャウは無言だったにしろ、おじさんは磐梯山を指して筑波山(だって双
耳峰だもの)と叫び、善さんまではるか海の方向にある山塊を指して赤城山だと言う始
末。しまいには大森氏が“日本地図をよく頭に浮かべてからものを言うように”と釘を
刺されてしまった。

山頂での“め組”のマウントハンティングが終わり、複雑な山頂の地形を縫うようにし
て五色沼へ向かう。山頂付近を過ぎると急な下りが始まる。斜面は、すでにここも立ち
枯ればかりだが、季節が季節ならさぞ賑やかなお花畑だろうと思われる。転石に足をす
くわれお手つきなどして、歳のせいかすっかり悪くなったバランス感覚を嘆きながらひ
たすら下る。
下りきった小さな草原で、前白根へ向かう道と分かれ、避難小屋、五色沼方向へ進む。
避難小屋は、まだ午前中というのに、近ごろあまり見かけない大きなキスリングとザッ
クがいくつか、場所取りのように置かれていた。居心地が良いとまではいかないが、案
外室内は清潔なようだ。別に売店があるわけではないが、小屋の近辺は休息の人で賑わ
っている。避難小屋から五色沼はすぐだと思っていたら、これが結構あった。あとで地
図で調べたら標高差が100m近くある。

五色沼の周囲には広い草原が広がっている。いまは踏み荒らされて裸地化している面積
も少なくないが、昔はさぞ広大なお花畑だったことだろう。少し風があって寒かったの
で、眼前に見える五色山まで足をのばすかという話もあったが、もう12時過ぎだし、あ
そこまでゆくともう1時間かかりそうなので、ここで昼食の宴会となった。チャウが用
意してくれた仏パンと定番ニンニクチーズに小岩井のバターである。それに昨夜の残り
の寿司もある。大森氏提供のフジテレビの土産という、コート・デュ・ローヌの若いワイ
ンはなかなかすっきりして飲みやすく好評だった。適当にでき上がった頃には、風も小
止みになり、全員で草原に大の字になって昼寝。秋の日ざしとはいえ、空気が澄みきっ
ていたので、すっかり日に焼けてしまった。

昼寝のあとは、五色沼の西岸の草地を通って五色山へ向かう。最初にやや急登があって、
やがてなだらかな稜線に出る。いままで休息していた場所が、眼下の沼をはさんで間近
に見下ろせる。快晴無風、気温快適、視界明晰。近ごろ最高に条件に恵まれた山行であ
ると、皆で何度も話し合った。

五色山山頂で、前白根への道を分けて、金精峠への下りが始まる。登山道の各所にお立
ち台があり、それぞれに魅力的な展望が開ける。このまま下りかと思いきや、目の前に
もっこり金精山が立ちふさがる。善さんは、ここは巻きで、登りはないというが、誰も
そんなこと信じない。案の定、結構な急登が始まった。たしかに、善さんの言うように
登山道は金精山へは登っていない。いや登れないといったほうが正確だ。地図にある
「笈吊岩」らしき岩峰が障害となっていて、稜線通しには進めないのだ。道は途中から
急転直下の下りになる。転ろげ落ちるような下りである。前回、光徳牧場をベースに亀
ちゃんに峠まで送ってもらって、前白根から湯元に抜けたときに、このコースは間違い
なく通っているはずだが、これほどの急傾斜は全然覚えがない。善さんのいう“巻き”
とは、こうのようなものである。

剣呑な下りをやり過ごしてほっとするまもなく、すぐに金精峠に出る。前回と前々回
(根名草山から鬼怒沼)に見たときは、小さな木造の祠だと思っていたが、今はがっしり
したといえば聞こえは良いが、ひたすら頑丈なだけで不細工なコンクリート製の被堂に
変わっていた。あまりに仰々しいせいか、肝心の金精様がいじけているようであった。

金精峠から菅沼への下り道は、旧街道をしのばせる歩きやすい山道で、すでに日も傾き
かけた樹林帯をのんびりと下った。しかし、このあたりからチャウの様子がおかしくな
ってきた。はじめは昼食で飲みすぎかと思っていたが、あとで聞くとひどい高山病であ
ったらしい。声をかけても、口をきくのも億劫といいった風情で、あとは帰路の全行程
を通じて手の施しようがなかった。

菅沼の駐車場にはほぼ予定通り4時40分頃に帰着。すでに斜陽は、駐車場に森の影を
長く落とし、登山者の車も数えるほどしかない。あとはひたすら温泉と夕食を目指す。
山中の一本道は、快晴の休日を楽しんだ観光客の退け時とて相当に渋滞したが、鎌田で
寄居山公園の公衆温泉に浸かり、沼田でとんかつを賞味して、上首尾であった今回の山
行を終わった。温泉、夕食とも参加できず、車中で昏々と眠っていたチャウには気の毒
なことであったが.....。
後日、気になって電話をしたところ、標高2000mを超えるとよくあることで、本人はけ
ろっとしていたことを申し添えておきたい。
   

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