梓連絡抜粋−'94年版を中心に

橋 元 武 雄


■梓連絡(FAX)抜粋 '94年版を中心に(注)

梓連絡 31号'94/01/07(金)  (杉本小屋・スキーサーキツド)
梓連絡 33号'94/02/08(火) (岩鞍スキー・高齢者倶楽部結成か)
梓連絡 35号'94/02/24(木)  (3日間快晴の白馬、栂池)
梓連絡 39号'94/03/18(金) (春のスキーサーキツド情報)
梓連絡 40号'94/04/06(水) (今年最後のスキー・志賀サンバレー)
梓連絡 45号'94/06/09(木) (只見叶津番所での大総会)
梓連絡 49号'94/08/01(月) (苗場山行・トピツクスをいくつか)
梓連絡 51号'94/08/23(火) (甲斐駒黄蓮谷遡行にて・あれこれ)
梓連絡 52号'94/09/02(火) (梓の語り部が送る上高地の話題)  

(注) 当時、仲間の有力な情報連絡手段はFAXでした。
  昨今のEメール、掲示板、共用ホルダなどとは隔世の感があります。
  いつも橋元さんが指令塔の役目を引き受けてくれていました。


梓連絡 31号 ’94/01/07(金)

会員各位 あけましておめでとうございます。
昨年末の本杉小屋スキー山行は、26日の先発隊に、冨山、関根、中村、橋元と、29日からの後発隊に、鈴木、大森父子、高橋(日本紅茶)が参加し、盛大に滑りかつ飲んできました(酒7升、ワイン6本、シャンパン3本、シェリー3本、ビール無慮30数本、それに山頂の儀のコニャックおよび小屋からくすねたウイスキーなど)。
今回サーキットは、サンアルピナ、栂池(2回)、八方、岩岳を駆けめぐりました(最終日31日は白馬47の予定でしたが、一昨年の年末スキー同様、雨で中止)。最初は雪も少なく、シーズン始めのこととて、疲れるばかりで調子は上がらず、夕食が終わるとそのまま寝込んで朝まで眠り続けるなど、梓にはあるまじきていたらく。八方のリーゼンや栂池のハンノキ・コースをノンストップで快適に飛ばした昨年の滑りは、夢だったのかと全員意気が揚らなかったのですが、ある程度滑り込んで新雪が積もるや俄然調子を取り戻しました。最後の栂池で馬の背コースに挑戦した冨山さんは、最難関の急斜面のコブで板を2本とも外したとはいえ、会心の滑りができたようで、夜の宴会で恒例の盛り上がりをみせ“これや、これがスキーや”と、100回も何回も繰り返していました。
さすがに翌日帰りが けに、“昨夜は少し飲み過ぎた”とつぶやくと、それを聞きつけた関根さんが“だからいい加減にしなさいって言ったのに”とお小言。しかし冨山さんは“反省はするが、後悔はせん”とやり合っていました。また、右膝靭帯損傷から復帰したチャウも、ロボコップみたいな補助装具を膝に着けて、“痛い”“踏み込めない”などと嘆きながらも、けっこう滑っていました。

梓連絡 33号 ’94/02/08(火)

前回、岩鞍スキー山行−−1月21日〜23日、参加鈴木、大森、橋元−−は、ゼネマネ腰痛、チャウ相撲見物で不参加のうえ、冨山さんまでが直前に腰痛を発し、参加できなくなるなど、梓も高齢者倶楽部の様相ますます色濃くなり、なにやら前途に暗雲が立ち込めてきたようでもあります。あるいは、“梓温泉山行なる分会を作るか”、“いやその分会が今後の梓の本命になるのではないか”などと、さまざまな噂が飛び交っています。
しかし、今シーズン50才にして長年の課題の1つに解決のきざしが見えてきたおじさんとしては、そうもいっていられないのであります。そこで、今シーズン梓スキー山行第3弾の参加者を募集したいとおもいます。参加者は来週月曜日、14日までに橋元まで。
- 1 -



梓連絡 35号 ’94/02/24(木)

第3回梓スキーサーキット報告
白馬山麓栂池本杉小屋 2月17日(木)〜2月20日(日) 参加は、冨山、鈴木、中村、亀村、河崎、橋元の6名。
今回のスキーは、移動性高気圧がすっぽり本州を覆ったせいか3日連続の快晴。しかも積雪は十分という最高の条件に恵まれました。一点の雲もなく白く輝く後立山連峰を背に、岩岳、栂池、白馬47と、滑りに滑りました。馬齢を重ねたスキーヤーのぼくにとっても、こんな好条件のスキーははじめての経験で、先週スキーに行った人はつくづくお気の毒さま。 関根GMの“心して、ドジなことはしないように”との呪の言葉に送られて、勇躍出かけたわれわれでしたが、ドジは梓の習い性。結局、今回も豊富な話題に彩られたスキーサーキットになりました。

その1 河崎君、現われれず

最近、名古屋に転勤したばかりの河崎君は、まだ引越したばかりで電話もない、名古屋の勤め先へもまだ顔を出していないという状況。それでもスキーに参加するというので、冨山さんが“電報”という古典的手法で連絡をとりました。その結果、名古屋からJRの列車で出発して信濃森上駅に22時半ころ到着するする河崎君を、東京駅丸の内口明治屋前を18時半過ぎにデリカで出発するわれわれが拾って本杉小屋へ、という手はずになりました。
木曜の夜ということもあってすいている中央高速を快適に飛ばし、崎君が乗っているとおぼしき列車を、白馬駅の1つ手前の飯森駅付近の陸橋で追い越し、ほとんど列車と同時に信濃森上の駅に到着したのです。東京発の車と、名古屋発のJRの列車が同時に目的地に到着するとは、まさに“奇跡のランデブー”であります。喜び勇んで、冨山さんとぼくは駅の待合室まで迎えにゆきました。しかし、河崎君は現われない。最近は信濃森上で降りる客などあまりいないから、すぐに誰もいなくなってしまった。これは何かあったか、ズッコケかと、こちらもすぐに諦めました。
翌朝、またも電報を打って、こちらは岩岳にスキーに出かけました。夕方、小屋に戻ってから浩君とお姉さんが、シャムネコ太郎の餌の買出し行きたいというので、デリカでつきあった亀ちゃんが、もしかしてと立ち寄った信濃森上駅で河崎君と会うことができました。河崎君の話では、引越しのどさくさで、今日の日付を1日勘違いしていたのであります。要するにズッコケであったことは言うまでもない。

その2 チャウ、ICカードを紛失

初日、朝ビールをやりながら今日のスキーを何処にするか迷っていたら、本杉の親父さんが“今日は岩岳祭で、一日券が1000円割引、いろいろなスキー用具が当たるくじ引きがあるし、樽酒は飲み放題だ”というので、迷いはふっ切れました。
ご存知のように岩岳の一日券は、紙に日
- 2 -



付を印刷した普通の一日券と自動ゲートを通過するためのICカードがセットになっています。ICカードは約5センチ角で厚さ2ミリ程度の小さいものですが、紙とは違って高価なので、返却すると500円で回収することになっています。このICカードをチャウがなくしてしまった。日影沢のコブで転倒した拍子に、ホルダーからこぼれてしまったらしい。みんなで探しましたが見つからない。ICカードがないとゲートを通過するたびに係員を呼んで印刷券を見せ、言い訳をしなければならないのです。
山頂付近のリフトで訊いたら、ゴンドラ乗車駅の前の出札窓口で500円払えば再発行するという。そこで、下まで降りて再発行を頼んだが、窓口の女性は“再発行はしないという”。またその口の聞き方がオジン、オバンには気に喰わない。
“話が違うじゃないか”
“この方式が間違ってるんじゃないか””
“もう岩岳には来ないぞ”
“岩岳ボイコット運動を展開するぞ”
などと、冨山、鈴木、橋元、本人のチャウなどが入れ替わり係の女性を攻め立てたが、さすがに手慣れたものでコンピュータ合成の音声のように同じことを繰り返すばかり。こちらも半分は文句を言って楽しんでいるようなものなので、言いたいだけ言ってさっさと引き下がりました。しかし抜け目はありません。わいわいやり合っている間に、冨山さんがICカードを返却しにした人をつかまえて500円で買い取ってあったのです。そのあとのスキーにはまったく支障なし。
騒動のあとスキーを再開し、カモシカ・リフトに乗っていたら、チャウ目ざとくICカードが落ちているのを見つけました。今日はじめて乗ったリフトだから、もちろん彼女のものではない。さっそく、場所を確認しておいて滑りおりて回収しました。これで、多少の時間の無駄はあったものの、金銭的な収支はバランスしたことになる。めでたし、めでたし。 なお、くじ引きでは、善さんがスキー手袋、ぼくがアームポシェットを引き当てました。そのあと、ふるまい酒で乾杯したことは言うまでもない。

その3 冨山さん、行動食を忘れる

最終日は、白馬47。昼飯抜きで滑り、行動食で軽るく一杯やって早目に切り上げ、大町の『美寿々』で仕上げの宴会ということに決まりました。白馬47は、遠見尾根の北側に開発された比較的新しいスキー場です。駐車場に着いて、いざゲレンデへという段になって、冨山さんが“しもた”とつぶやきました。その瞬間、みんなの脳裏には第1回梓山行“赤谷川”のあの事件が懐かしく思い出されたのです。そのころ行動食君は本杉小屋の下駄箱の上に取り残されて、越し方行く末を静かに思っていたのだった。しかし、そんなことでは梓はめげない。とにかく行動食はなくても行動酒はまだたっぷりあります。亀ちゃんが昨日の残りのチーズをもっていたので、それをつまみに、ゴンドラのなかでビールで乾杯するという怪挙と成し遂げて、目出度く最終日を打ち上げました。
- 3 -



その4 目玉が逃げた

3日続いた快晴に終わりを告げるかのように、薄く全天を覆った高層雲がを見上げながら、われわれは白馬47に別れを告げて信濃大町の美寿々へ向いました。美寿々では何回か宴会をしているが、目玉は寿司と鰻重です。寿司をつまみに一杯やって、鰻重で仕上げるのが美しい。時間が3時過ぎと中途半端だったので、やっているか心配だったが大丈夫でした。もちろん全員一致で鰻重。ところがです。カウンタで黙々と寿司を握っていた主人が“今日は葬式の準備があって、鰻はできない”とつれない返事。やむなく、寿司での一杯は予定通りとして、締めは鍋焼ウドンという羽目になりました。
最後に、主人とは違っていつもニコニコ愛想のよい小母さんに“今度来るときは葬式だけは勘弁願いたい”と言い残してきたきたのは言うまでもない。
中央高速は多少の渋滞はあったもののほぼ順調。無事21時前に東京駅に帰着しました。

       −−− 〇 −−−

今回の本杉小屋は、客がわれわれだけだったせいもあるだろうが、18日の夕食は日本海で獲とれたてのアンコウをまるごと1匹さばいて、刺身(これはぼくもはじめてだった)と、肝のたっぷり入ったアンコウ鍋。19日は小振りながら銘々に松葉蟹1匹ずつとヤリイカとマグロの刺身、それに和牛のミニッツ・ステーキ。これで商売にな
るのだろうかという御馳走でした。
それにしても嬉しかったのは、帰りがけに、本杉のおやじさんが仕事の手を休めて、わざわざ見送ってくれたのです。これははじめてのことでした。やっとわれわれも本杉小屋の市民権を得たようです。

梓連絡 39号’94/03/18(金)

'93/'94シーズン 梓スキーサーキット情報 その8

前回、本杉小屋スキーサーキット−−3月10(木)〜13(日)−−は、八方、栂池、サンアルピナと転戦しました。天候はまあまあ。雪質は、ゲレンデ上部はガリガリの硬いバーン、下部に降りると“ぬかるみ”という春の雪でした。重くて板を取られる、曲がらない、スピードだけは出るという、ぬかるみ雪にはいつも苦労させられます。しかしです。そんな雪のなかを、安定したパラレルでゆったりと滑り、人が混み合った箇所になると、見事なショート・ターンに切り替えて、さっさと降りてしまうスキーヤーを目撃しました(もっとも八方尾根のインストラクターでしたが)。つまり、ぬかるみ雪でも、できる人にはできるのです。おじさんも頑張りたい!!!。
梓にとって、最終日の宴会をどこにするかは、ゲレンデの選択に劣らない重要な意味があります。今回は、青木湖を2時にあがったので時間に余裕がありましたし、途中でスナックタイムを取ったのであまり腹もへっていません(ただし休憩抜きで滑りまくっていた河崎君の腹加減まで思い至りま
- 4 -



せんでした。ごめん)。また前回大町の『みすず』では、葬式(???)でこりたこともあって、松本まで足をのばしてウナギを食べようということになりました。しかし、そう簡単に問屋は卸さず、ウナギをもとめて松本市内をほとんど一巡するはめになりました。
最初に、松本城の駐車場にデリカを駐め、そこの係員から情報を得て行った『本間』は、住宅街の中にある立派な構えの店でした。これは良さそうだと喜んだら、なんと持ち帰り専門店。宴会は論外。しかし、その店でいかにも旨そうなウナギのにおいをかいでしまった、カメちゃんは“もうウナギ以外は考えられない”と言います。そこで、市内に入って、前にも一度行ったことのある松本のウナギの老舗『まつか』を目指しました。髪だけでなく記憶も薄れていることで、これも相当探し回ったあげく、臨時休業。やむなく、前回『まつか』を教えてもらった市内の駐車場で、車も駐めないのに“『まつか』は今日休みだから、ほかにウナギ屋はないか”と聞きました。さすがに大都会とはいえ、松本の人達はあたたかい。丁寧に地図まで書いて『うなぎ割烹 桜屋』を教えてくれました。行ってみると、松本では有名なフランス料理『鯛万』の隣で、実はぼくが10年以上も前に、はじめて松本で入ったウナギ屋でした。ここの関西風うなぎは、梓諸氏の好評を得て、やっと一件落着しました。
最後に、このところ銭マネ代行を担当してもらっているチャウの名言を紹介します。
最終日の朝食時に、すべての清算が終わったところで、次のような確認の発言がありました。
“だれか、損をしたような気分のひとはいませんか”
(.....一同不安げに顔を見合せる)
“なければ、清算を終わります”

梓連絡 40号’94/04/06(水)

今年、最初で最後の志賀スキーサーキット−−ホテル志賀サンバレー 3月24(木)〜27(日)、
参加大森父子、関根、橋元−−も無事終了しました。天気はいま一でしたが、雪質はこの時期としては文句なしでした。初日は志賀全域で濃いガスが立ち込め、腰をいたわる関根さんと、風邪でゴホゴホしている橋元は、終日部屋でほろ酔いのうたた寝を決め込んでいましたが、大森親娘は張切ってスキーにでかけました。娘はガスにもめげず元気一杯に滑りまくっていたようですが、親は強度の船酔い状態ということで、どこかのおじさんと同じ様なことを言っていました。

梓連絡 45号’94/06/09(木)

総会のことなど
前回の只見叶津番所での大総会−−6月3日(金)〜5(日)−−は残念ながらなしくずしの流会となりました。結局、会費集金
- 5 -



は延期、大雪山はスケジュールが合わず中止ということだけははっきりしました。なにせ、
   池田さん 仕事
   大森氏  管理職講習会
   亀ちゃん 南米出張準備
   チャウ  母上の看病
   河崎君  名古屋からは遠すぎる
ということで、不参加者続出でしたから(IPRからは、麗花を2輪添えてもらいましたが)。
宿泊した叶津の番所と、管理人の長谷部さんは、なかなか素敵でした。長谷部さんの要領を得た明快な解説に感心し、3層の高い天井(というか屋根裏というか)と厚い藁葺き屋根が、いかに快適か(少なくとも夏は)を実感しました。ただし、あまり寝ぼうしていると入場料500円なりを払った団体さんに、寝顔まで参観されてしまいそうです。 なにはともあれ宴会はあいかわらず盛大でした。東京駅に集合したときから、善さんは荻窪で飲んでいたからと、完全な酔っ払い状態で到着。前途多難を思わせました。うっかり“今回は6升も用意したから余るはずだ”と口走ってしまったのが梓諸氏をいたく刺激したのか、初日は夜中に着いたせいもあって、2升も空かなかったのですが、翌土曜日はぼくが寝てしまったあいだに一挙にほぼ4升を空けてしまい、最終日の朝にはわずかに残った1升瓶の残りを、関根さんが一人で抱え込んで平らげてしまったのです。
ところで日曜日は、八十里峠まで行こうと、ろくに踏み跡もないない薮をこぎ、結局どう
しても道がわからず、茸栽培のための伐採地のような所に迷い込んで、それでも残雪にビールを冷やして、乾杯だけは済ませ、帰り際にウルイ、ウド、ユキザサ、ミズ、メタカラコウ、その他名も知れぬ、しかし旨そうな若芽を、毒草(ホウチャクソウ)まで含めてたっぷり採集し、宿へ帰りました。しかし、山菜というのは、後始末が大変。みんなが釣堀へいったり、買出しにいっているあいだ、こっちは一人で仕分けと同定に追われたのでした。管理人の長谷部さんにも分からないような山菜が少なくありませんでしたが、この地は山菜の宝庫(ただし、ムヤミな採集には、ヂモティの厳しい目が光っています)、ほんとに美味しい山菜しか知らないみたいでした。
なお、ホウチャクソウに関しては、わたくし身を呈して毒草であることを確認しました。胃部の不快感、下痢など。ユキザサとよく似て美味しそうだし、少しくらい齧っても不快味(書物にはそうある)はいなので要注意。
買出しにいった後藤さんが、あまりの品数のなさと商売人の融通のきかなさに呪いの言葉をまき散らしながら作った山海の珍味(カブと蛸があったから山海に間違いない)に、ひたすら茹でただけの山菜を山盛りにして花ならぬ草を添えました。せめてチャウがいれば、バラエティに富んだ山菜料理が出来たのでしょうが。
だそうそう、これだけはお知らせしておかなくては。今回は、田中君の新車が参加したのですが、八十里峠峠への登山口へ向かう山道で、これが“パンク”してしまいま
- 6 -



した(先行していたデリカはトランシーバーの連絡で引き返した)。イヤー珍しいですね。近頃のタイヤは丈夫で、パンクは貴重な体験なのですが、それが何か月も乗らない新車のうちに経験できるなんて、田中君は幸運です(事実、先代デリカは、運転技術の問題で、タイヤを2本いっぺんにバーストさせるという事故はあったが、普通のパンクは一度もなかった)。しかし、慣れない車と珍しい体験だけに、スペアタイヤがどこにあるか、工具がどこにあるか、見つかってもどうして取り出すか、なかなかわからず、結局、デリカを取って返した善さんが、テキパキとスペアタイヤに交換して事なきを得ました。

梓連絡 49号’94/08/01(月)

前回、梓山行苗場山−−7月16日(土)〜17(日)−−は、冨山、鈴木、大森、中村、亀村、斎藤父子、橋元に加え、常連客員金谷氏の参加を得て近来ない盛況となりました。

トピックスをいくつか

● 斎藤英彦君は元気だ。この猛暑のなか、まったく疲れた顔を見せなかった。幕営地でも、苗場の山頂でも、ばてばての大人を尻目に一人で飛回っていた。もとより父、斎藤君の同じ歳頃を知らないが、これほど活発ではなかったのではないか。脱帽。
● 金谷客員に“ジョニ赤仙人”の尊称を奉ることになった。針金人形のごときギコチなさと強靱さをもって今山行も無事歩きとおした。ただし、都会で履き慣れているという靴には大分“足”こずっていたようだ。

● 今回夕食担当の亀チャンはテンプラをメニューに選んだ。しかし、結果としては、第1回梓山行赤谷川を思い出し、日本紅茶の方々にはテンプラは任せられないということに衆議一決した。買物袋にたっぷり2杯分も材料があるのに、揚げ油がたった0.5リットル。何を考えているのだ。意外な発見は、斎藤君が結構テンプラを揚げるのがうまいこと。家でしょっちゅうやっているとのことで、じつに手慣れていた。

● 冨山さんのミョウガ好きは梓周知の事実。今回の食当は全員がそのことを忘れなかったとみえて、鈴木、大森、亀村、橋元が各自それぞれミョウガを持ってきて、ミョウガの山となった。しかし、1つも残らなかった。

● 幕営地は雷清水の近くだったが(地図でも幕営地になっているし、亀ちゃんが湯沢町役場に問合せても幕営地に指定されていた)、せいぜい2張りくらいしかスペースはないし、ほとんど使われていないようだった。自然保護のためにも、こんな所で幕営すべきではい。反省。ただ、呼べど叫べど天上天下我等だけ、いかに蛮声を張り上げてもだれにも迷惑はかけない。
- 7 -



その解放感からか、冨山、大森両氏が近来稀な盛り上がりをみせ、寝ていた金谷氏までを叩き起こしての大宴会となった。往時の昭和の各年を追って流行歌を繰り出すという大森氏の独宴会をなつかしく思い出した。ついには、一本調子と評された、おじさんの青葉茂れる大楠公まで飛び出した。この騒音にもめげず、善さん、チャウ、亀ちゃんは寝ていた。

梓連絡 51号’94/08/23(火)

前回、甲斐駒黄蓮谷遡行−−8月12日〜14日−−は、無事完登とは言いがたい辛苦を舐め、元気だったのは河崎君だけという有様。おじさんなどは、滑落するは転倒するはで、かつてないほどの疲労困憊。北沢峠から登って甲斐駒山頂で合流予定の後藤さんを朝10時から延々4時間(トランシーバーで12時過ぎに連絡はついた)も待たせ、それでも間に合わず、メロメロ、ダバダバ、朦朧となって、はや暗くなった沢筋を下る途中、先にテントに戻った後藤さんに迎えられ、長衛小屋のキャンプ場にたどり着くと、宴たけなわの酔っぱらいに
“今頃までかかるなんて10時間以上歩いたんだろう”などと噂され、悔しいから“いや12時間だ”と言い返したら “すごい、尊敬する”などと言われて “本当は8時間の行程なのだ”などと独りごちた。

この詳細は、いずれ河崎君の山行記録で公開されるでしょう。それに、山頂で4時間
待つあいだ、後藤さんが手帳につけたイラスト入りのメモとスケッチが秀逸。次回会報は、イメージ・スキャナーでこの手帳をそのまま撮り込んで掲載する予定。おじさんも恥かしながら事の顛末を語らねばなるまい。今回の黄蓮谷は様々な視点から面白い報告が出るはず。できれば善さん、大森氏にも書いてほしい。

家に帰ってから参考のためと、前回の黄蓮谷の記録を探したら、ありましたね、兎山岳会『登山計画書』が。メンバー表を見ると、なんと、善さん37才、おじさん33才、大森氏32才、間瀬君32才、本田政人31才とあります。つまり17年前。これを見たとたんに頭のなかが真っ白になって“かくも長き不在”を思ったのであります。

そこで、一言“麒麟も老ゆれば駄馬となる。もとから駄馬は、ダバダバとなる”

いくら歳をとっても年齢差は変わらないけれど、善さんを数年遅れで追いかけているおじさんにとっては、分母が大きくなるほど“善さんって、すごいな”って思いました。あと4年たったら、おじさんはあの沢を登れるか、30年後に河崎君はどうかなと.....

てなことで、書くことは山ほどあった山行でした。

           ***
- 8 -



梓連絡 52号 ’94/09/02(火)

梓の語り部、オジサンが送る 前回山行上高地−−8月25日〜28日−−の話題の数々

わざわざ明治屋前まで亀村氏の見送り受け、差し入れまでもらい、勇躍出発しましたが、例によって、梓山行は豊富な話題の連続でありました。かいつまんで報告します。

●参加 後藤、大森、中村、斎藤父子、橋元

● 予定は完遂
山に関しては今回は完璧でした。

初日は全員で上高地→焼岳→中の湯→上高地。焼岳はなかなか良い山です。南峰と北峰のコルで、噴火口跡の池を見ながらビールとワインで昼食。ここから、中の湯へ下るコースは最近開かれたばかりのため、他の登山者にはまったく会わず、そのためか手着かずの豊富なクロマメの実を堪能できました。

2日目は、後藤、中村、斎藤父子は、西穂高独標往復。大森、橋元は八右衛門沢から霞沢岳に直登。八右衛門沢は、ガラガラ、ボロボロの沢で、最後は薮漕ぎの急登。面白いところはまったくなし。ただし、最後にピッタリと旧コースどおりにマイナーピークに飛び出し、丁度縱走中の単独行
の小母さんからやんやの拍手を受けました。徳本峠経由で下山。梓川を隔てて、対面する西穂と霞沢。トランシーバーが実に明瞭に入感し、霞沢隊としては非常に励みになりました。

● 最長老と最若年、意気投合のこと
今回も、苗場につづいて斎藤くんちの英彦くんが参加。ジジババ連のなかに一陣の若さを吹込んでくれただけでなく、焼岳、西穂独標を連日走破という快挙をなしとげました。小学校4年という年齢を考えると信じられない体力です。もっとも、それに見合うだけ健啖でもありますが。

この英彦君が、一緒に西穂を登って以来、ゴトプーチンと意気投合。お手てをつないで梓川を散歩するほどの仲になりました。しかし、この2人、それぞれ独りだけでも相当に空気振動を発生するのに、合体するともう大変。“何とかして”といいたくなるほどの騒ぎになります。プーチンが英彦君を特別会員に推奨すると言い出すや、親権者たる修君は、毎回面倒をみるのはかなわないとばかりに“梓への加入は全員賛成が条件のはず。私反対します”と言い出す始末。いやいや、にぎやかなことです。

● またもやったか、テンプ油のお話。
けして忘れたわけでも、少なすぎたわけでも、誰かがかぶったわけでもありません。今回の食料計画は、車中での各食当の予定を大森氏がまとめ、そのメモに従って現地ですべて調達しましたから何の過不足
- 9 -



もありませんでした。もちろんテンプラ油も1.5リットル用意しました。それでもテンプラ油はなくなってしまったのです。

初日の夕食のとき、食当のGP氏が調理の途中で、テントにもぐりこんで何かをゴソゴソ探していると思ったら、突然
“テンプラ油がこぼれてる”
という叫びが聞えました。油を少し使ったあと容器を段ボールへ戻しておいたところ、探し物をしているあいだに横転して蓋がとれ、ほとんど中味が洩れ出してしまったらしいのです。GP氏の差し出した容器の底には、油は数センチほどしか残っていませんでした。これでは炒めものくらいしかできません。一同顔を見合せて
“梓には、テンプラは無理かな”
と話し合ったのでした。さすがの闊達なGP
氏も、その晩だけは無口になったほどです。

そのときは黙っていましたが、あとでおじさんが“GP氏が食当をすると、調理時間の半分は探し物に費やされているのではないか”と申上げたところ、GP氏曰く“いやそんなことはない。みんなも同じくらい物を探しているが、ただ自分は探していることを口にするから、目立つだけだ”との返事でした。

しかし、翌日、小梨平のキャンプ場売店に、テンプラ油など基本的な食材が揃っていることがわかり、無事テンプラに到達しました。なお、翌日の行動食(フランスパン)では、今度はチャウがバターをテントに忘れてきたことを申し沿えておきます。
- 10 -
目次へ ↑

inserted by FC2 system