八甲田山恒例春スキー

橋 元 武 雄     '94/04/28〜05/07


メンバー 鈴木、池田、大森、橋元

94年04月28日 曇り、雨、雷
上野発22時17分はくつる1号。 池田、大森。善さんははくつる3号であとから来る。

94年04月29日 曇り。酸ケ湯は雨。
雨のため宿に篭る。

94年04月30日 雨
池田さんは青森。 善さんはロープウエイで中央コース。 大森、橋元は奥入瀬へ散歩。

94年05月01日 曇り。
地獄沢から硫黄のコルを経由して硫黄岳に登った。一滑りしてみると、バーンが硬くて危険だったので、予定していた硫黄の斜面は降りずに仙人岱ヒユッテへ向かう。小岳の大斜面を滑降。途中からトラバースして高田大岳へ。高田大沢を直登。上部は積雪が少なく薮こぎに苦労する。高田大岳の大斜面はガスのなか。久しぶりの長距離滑降で足がつる。高田大斜面の下部から猿倉へトラバース。猿倉バス停の一つ手前の橋に出る。

94年05月02日 晴れたり曇ったり。
宮様コースの途中から尾根に取りつき、大井戸沢のコルへでようとしたがや薮にはばまれ、赤岳山頂の手前の尾根にでてしまう。この時期ここに薮でるとは、よほど積雪が少ないのだ。赤岳大斜面を滑降し箒場へ出る。

94年05月03日 曇り。
今日も赤岳大斜面。連日同じルートはつまらないから、大斜面の下に向かって左の斜面を目指したが、ガスで視界がなく中止し大斜面をそのまま降りる。途中で、ぼくと善さんの組と、池田、大森組が別れてしう。この広大な斜面で視界がなければ、いったん見失ったらどうにもならない。善さんと登り返して探したがいなかったので、コース通りに降りる。予期したとおり、箒場で2人はビールを飲んでいた。

夜8時過ぎて池田さんの奥さんとお嬢さん(文枝さんとケイコタン)が到着。一泊だけして、青森見物をして帰るとのこと。恒例のカレーを作る。 三浦敬三さんの常部屋「錣(しころ)」までご挨拶。

94年05月04日 曇り。
善さん、大森、文枝さん、ケイコタンが帰京。送りがてら青森へ下りる。善さん、大森はアスパムの見物。われわれは残り3日分の買い出しをして、3時に一八寿司に集合。盛大に別れの宴をはる。
宿に帰り、敬三さんに、赤岳から長吉岱コースの話を聞く。

94年05月05日 雨。
今日も雨。これから池田さんとぼくの2人だけだ。今回は天気には恵まれない。終日部屋にいて、2人ともてうんざり。みんなと一緒に帰ればよかった。映画ですっかり有名になったKazuo Ishiguroの『The Remains of the Day』の山場(主人公のStivensが自分のキャリヤのピークと呼ぶ国際会議の場面)を読み終る。
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94年05月06日 曇りときどき雨。
青森市営シャトルバスはすでに昨日で終わった。けっこう雨足は強い。しかし、天気は回復基調というので、とりあえず9時35分のバスでロープウエイに向かう。駅横の休憩所でコーヒーなどを飲んで天気待ち。曇りと雨の繰り返しが1時間以上も続き、小止みが長くなったので、山頂駅へ向かう。山頂は雲の中の強風。ここでまた小一時間待ち12時半ころに、外に出て雪の状態をみる。滑る雪だ。

結局、赤倉、小岳を目指すことにして、駅舎内でおにぎりを食べて出発。 大井戸沢のコルまで来てもまったく視界はきかない。どうするか迷ったが、大井戸沢をそのまま下り、斜面が開けたところで右へコースを取り、大岳のプラトー上部をトラバースして、うまくゆけば大岳環状コースに合流し、だめなら小岳を高田側に回り込んで猿倉に下ることにした。

長い右へのトラバースの果てに、左に登り斜面が見え出したのでうまく小岳と大岳の鞍部に入ったことを知る。これが右に登り斜面なら、小岳の手前の沢に入り込んだはずである。しばらく進むとツアーのトレールがあった。大岳から小岳、または大岳から小岳をトラバースして高田に向かうものだろう。このトレールをトレースすることも考えたが、小岳の位置に確信があったので、大岳環状を捕えることにする。だめでも硫黄コースの途中には出るはずだ。
予想どうりに大岳環状の竹竿(八甲田の主要コースには、樹林帯では番号付きの案内版が、雪原では竹竿が立ててある)が見えてきた。池田さんが地獄沢を下るのもつまらないから、大岳避難小屋へ向かおうという。戻りはじめて最初の標識はたしか73番であった。90数番で大雪面へでて竹竿になる。ここで次の竹竿が見えなくなり、そのまま進むとオオシラビソの疎林になった。標識は見えない。問題は大岳から井戸の斜面は入り込んでいるかどうかだ。大岳と仮定して直登したが、違うらしい。そこでまた板を履いて下降ぎみに疎林の中をトラバースすると、2本のシュプールがある。これは間違いなく自分たちのものだ。つまり、大井戸沢に戻ってしまったのである。2人で笑い出してしまった。また大規模なリングワンデリングをやってしまった。じつは、10年ほど前に同じコースで同じことをやっている。

これで位置ははっきりしたので、疎林の縁からはなれないように逆戻りして大岳のコルを目指した。もっぱら下りなので簡単に見失った大岳環状の竹竿を捕えることが出来た。つまり竹竿を見失った地点でトラバース方向への心理的慣性が働いてそのまま進んでしまったが、その真上にほぼ直角にコースは折れ曲がっていたということである。

大岳と井戸のコルにある避難小屋は、駄洒落で標識110になっている。コルを越えて一安心と思いきや、今度は矮小化した
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オオシラビソの密林の薮こぎになってっしまった。積雪が少なく、本来なら雪面に高々と刺さっているはずの標識の竹竿が、すでに林の中に埋もれたようなかっこうになっている。この樹林帯をトラバースぎみに左に進み、酸ケ湯方向へ長く張り出した尾根にでる。薮との格闘で気がつかなかったが、こちら側の視界は非常に良い。風はあるが雲は高く、夕日のなかに遠く岩木山や青森市街まではっきり見える。今回、岩木山をはじめて見た。今まで五里霧中だったのが嘘のようだ。このコースを下りに使ったのはもう10年以上も前のことで憶えていなかったが、適度に緩やかな広い雪面にオオシラビソが点在する快適な林間コースである。シュプールはまったくないので鼻歌がでるような快適な滑りが楽しめた。ただし、小岳側で散々迷ったのが癖になったか、最後に酸ケ湯の玄関へ滑り込む湯坂に出ずに、旅館裏の酸ケ湯沢のほうへ出てしまうというおまけまであった。

94年05月07日 強風。快晴のち曇り。 最終日。今回はじめて、朝日が顔に差込んで目が醒める。ただし風はすごい。建屋が揺らぐほどだ。案の定ロープは運休。

のんびり荷支度をしてから10時近くに出発。地獄沢通しに仙人岱ヒュッテをめざす。地獄沢の源頭部は急速に狭まっているので、沢通しに吹き上がってきた風が収束して荒れ狂っている。背負っている板が風にあおられて、まっすぐ歩けない。

この風では外で食事はできないので、仙人岱ヒュッテで食べることにする。ほぼ満員状態だったが、隙をみつけて潜り込む。バカでかいコーヒーミルを持上げで、のんびり豆を挽いている初老の山屋がいる。凝るのもいい加減にしろと思ったが、実はこの人たちがこのヒュッテをこれほど綺麗に使いやすく管理しているボランティアだったのだ。あとでそれを知って、謝辞を述べる。

ここでのんびりしているうちに、外は曇ってしまった。結局、今日は小岳だけにしようということになる。小岳の大斜面はシュプールもなく快適だった。猿倉では、城が倉ホテルのガイドの貝森さんのバスに乗せて貰った(貝森さんは、もと酸ケ湯のガイドで、城が倉へ移った人だが、現在はそこの総支配人であることを、帰宅してから見たTV番組で知る)。6日を過ぎると乗り物の便は悪くなるが、スキーヤーが激減するのでどの斜面も荒れていないのがよい。

最後の千人風呂で汗を流し、宅急便を出して、売店の木村さんに挨拶し、3時45分のバスで青森へ。池田さんが里心がついたようで、今日中に新幹線で帰ろうと言い出す。切符も取れたので、あわてて駅前の一膳飯屋で腹こしらえをして特急に乗った。いつも、早朝の東京で目を覚まし、緑の鮮やかさに感激するのが恒例だが、それができないのが残念だ。夜中12時近く家に帰ると、つるバラのコクテールとテッセンが夜目にも満開。明日の朝日の中ではさぞ見事に見えるだろう。
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寝る前に、休み中の新聞に目を通していたら、狂言の野村万蔵と万作兄弟の確執が記事になっていた。「野村狂言の会」がうやむやに廃止になっていたり、若年の武司(万作の子)が萬斎(先代万蔵の父、つまり武司の曽祖父の名跡)を継ぐのはお かしいなと思っていたら、やはりそういう背景があったのだ。しかし、万蔵と万作の競演がみられなくなるというのは寂しいどころでない。狂言にとっても、見者にとっても不幸だ。
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