朝日連峰 植物記

橋元武雄


 もう9月も下旬である。植物の豊かな朝日連峰といえども、花はさほど期待できなかろうと思って出かけてきた。しかし、自然は僕の貧弱な想像力を絶していた。もちろん百花撩乱であったわけではない。すでに紅葉の最盛期になっていたのだ。泡滝から大鳥池へのアプローチはまだ夏の名残をとどめ、草いきれさえ感じたのだが、山頂付近を眺めると、すでに微な紅葉の気配があった。しかし、実際に稜線を踏んでみるまで、これほどまでとは思わなかった。今年の夏のあの辟易する暑さの記憶がまだ薄れないものにとっては、紅葉という言葉自体がまだピンとこなかったのである。
 花の少ないのは、案の定であったが、ただ1種、今を盛りの鮮やかな彩りの花をつけていた高山植物があった。キク科のイワインチンである。歩きながら、梓の仲間にこの花の名前を言うと、よく聞こえないのか、いろいろと聞き返してくる。「何、イワインキン?」、「いやいや、イワウンチンだろ!」。「イワ...」までは、高山植物にはよく付く、枕詞のようなものだから、誰しも分かるが、後がいけない。とたんに、通俗、卑俗、かつ、低俗となる。いつだったか赤石沢を遡行したとき、畑薙ダムからの長いアプローチの途中で、斎藤にヘクソカズラの名前を教えたところ、いつのまにかクソミソソウになってしまったのが思い出される。
 平凡社の「日本の野性植物」によると、岩茵チンで、チンは、「陳」に草冠を載せたものである。 JIS第二水準を誇る、わがワ
ープロの辞書にも登録されていない。外字作成機能で作ることはできるが面倒だ。この“チン”は、中国名で、蓬のことだそうであるが、外観はあまり似ているように思えない。
 (それにしても、「外字」とは変な呼び方だ。 たかがJISコードに含まれていないというだけで、かくも排他的な呼称を付けたのは誰か。中国渡来という意味では、漢字はほとんど外字ではないか。)
 秋は、木の実が楽しみである。冨山さんによると、果実は、分類学的に赤モノ、黒モノに大別され、それらの特筆すべき効能は、重荷を背負って急登をあえいでいるときに、比類ないリフレッシュメントになる、とのことである。
 赤モノに属するのは、ヒメウスノキ、ウスノキ、コケモモ、ゴゼンタチバナ、イワハゼ、タケシマラン、マイズルソウ、多少色合いは異なるがイチイなどがある。
 黒モノは、ガンコウラン、クロマメノキ(アサマブドウ)、クロウスゴ。どちらかというと黒モノのほうが、美味しいものが多い。クロマメとクロウスゴは、よく似ているが、クロマメのほうが木は小さいが、実が大きい。アサマブドウという名前は、浅間山の周辺に多く、小さな葡萄ほどの大きさになるからということらしい。前回の梓山行で、安達太良山の山頂近くに多数実っていた。今回は、2日目の、以東岳から竜門小屋にかけての縦走路で黒モノが豊富であった。みんな立ち止まっては、黒モノをつまみ喰いしたせいで、笑うと口の中がくろず
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んでみえた。まるでお歯黒を塗ったように。
 いまだに僕にとって確信をもって同定できないものに、ただのスノキというのがある。実の若いうちは、赤モノに属し、長じて黒モノに変身するというのだ。図鑑でみると、いつかどこかで、見た覚えがあるのだが、実物を見てこれであるとは断言できそうにない。
 赤モノは冗談だが、アカモノというのは本当にある。赤モノの例に上げたイワハゼの別名で、今頃、大ぶりの赤い実をつけている。しかし、味はいまひとつである。  木の実については、朝日は宝庫である。木の種類は、他の山とそんなに違わないが、登山者が少ないせいか沢山実が残っている。
 とくに印象に残ったのは、イチイの実の美しかったこと、美味しかったこと。あんなに実がついているイチイに出会ったのは、はじめてだ。果肉は、朱と桃色を交ぜたような微妙な色合で、くもりガラスのような温りを感じさせる。その厚い果肉が帯状に、緑黄色の核果を包んでいる。その取り合せは、よくできた和菓子のミニチュアのようにも見える。味は、ほどよい甘みがあって、かすかに針葉樹の樹脂の香がする。鳥たちも好んで食べるとみえて、山道で何度か、イチイばかり食べたと見える糞が落ちていた。
 それから木の実では、ヒメウスノキの多かったこと。この木も珍しくはないが、ここほど沢山の実を楽しませてくれたところはない。この実は小粒だが、イチイに負けず
美しい。色は透明感のある赤ワインを思わせる。ウスとついていることから分かるように、実の頂部が角ばった臼状になっている。その臼の角から派生した陵角が実の表面に走っている。武田久吉の高山植物図鑑によると、アオジクスノキになっている。ウスノキがクスノクになったらしいが、どうも、ウス(臼)を聞き違えたらしい。
 カメバヒキオコシとクロバナヒキオコシは、歩き始めた泡滝からの冷水沢までの沢沿と、山旅も最後の朝日鉱泉近くの道端に多く見られた。牧野新日本植物図鑑によると「亀葉引起し」、「黒花引起し」のことであるという。引起こしの由来は、ただのヒキオコシ(別名を延命草)という草があって、この草の苦さに起死回生の薬効があるからだという。弘法大師が、瀕死の病人にこの葉を煎じて飲ませたら、たちまち起き上がったとか。それほど苦いのか?。カメバは、その葉の先端が、長く尾状に延び、その付け根が深く切れ込んでいるところが、亀の甲羅から尾が出ている様によく似ているからであろう。別名カメバソウともいうらしい。クロバナは、花の色が暗く深い紫色であることからくる。ひとつひとつの花は、とても小さく、まばらにつくのであまり目立たないが、この花の色のあじわいは何とも言えない。僕の好きな野草の一つだ。
 朝日の山行から帰って間もない梓の会合で、田中が面白い話をしていた。あの後、仕事の関係で植物写真家の冨成忠夫さんに会ったとき、偶然に、氏の撮ったカメ
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バヒキオコシの写真を見せられ、「ああ、これはカメバヒキオコシですね」と言ったところ、「田中さん、よく知ってますね!」と褒められて、面目をほどこしたとか。山道とは違って草の名前はよく憶えられるらしい。
 紅葉した数センチの低木(チングルマ、ガンコウラン、コケモモといった類はどんなに小さくても「木」であり「草」ではない)のなかに、銀色の柔らかな輝きを放つロゼッタ(根出葉)の群落が目立つ。花もないし、茎もないがヒナウスユキソウだろう。7月の早池峰ではハヤチネウスユキソウ、ミネウスユキソウ、タカネウスユキソウと、薄雪草の花盛りだった。ここでは赤と黄の紅葉のなか、ひときわこの草の葉の銀白色が目を引いた。「薄雪」とは、やがてこれらの色彩の氾濫を一面に覆いつくす積雪の前兆であろろうか。
 '81年の飯豊山も、 今回の朝日も天気は悪かった。初日だけ良くて、あとはまったくだめという、パターン(ふと本田の顔が浮かぶパッターン)まで似ている。 9月頃は、季節の替り目でどうしても天気はぐずつき
がちである。しかし、天気が悪いというのは、かならずしも悪いことばかりではない。登山者が少ないおかげで、初秋の山旅のしみじみとしたあじわいを十分に楽しむことができた。

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 下山してから知ったのだが、朝日の紅葉は、ハイマツの緑を背景に、ミネカエデの赤と黄色が錦繍を織なす「三色染め」で有名なのだそうだ。このことは、朝日町宮宿の「西郷亭」のご主人からうかがったものである。西郷亭では、無事の下山を祝い、ささやかな酒宴を開いたのだが、時間外にもかかわらず、数々の郷土色豊かな酒肴でもてなしていただいた。人間関係の根底が、利害関係から成り立っている大都会に生活をしている我々に取って、こうした歓待は心にしみるものであった。爽やかな山旅を終えて、あたたかなもてなしを受ける。山屋にとってこれほど幸せなことはない。
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