那須連峰縦走

冨山八十八     '85/04/20〜21


 小雨に白いものが混じっているな、と思っていたら雪になっていた。
 「峰の茶屋」の建物は田舎のバス停のように三方を板で囲い屋根があるだけで、なかはほとんど雪が詰まっていた。
 ここまで来ると風が強い。小屋の横へ風を避け、ザックを下ろして行動食を口に入れていると、二人パーティーが挨拶をして過ぎていった。40分前に通過した「峠の茶屋」の駐車場で、自動車を開けて登山準備をしていた若い二人だった。

 この冬はスキーに明け暮れていたので雪の上を歩きたくなった。山といえば硬派の誠氏、尚介さん、それにスキーとの両刀遣いの善さんがすぐに賛成する。手軽な春山として那須連峰を選んだのには、関根さんがもち込んで流行となった「田舎医者」シリーズのせいもある。
 出発の金曜日が久々の晴天だったので山での天気の崩れが心配された。3月になって雨の日が多く、東京の3月は日照時間の少ない記録をつくったが、4月になっても晴れの日は相変わらず少ないからだ。
 出発の夜。参加を予定していた尚介さんが来られず、善さん、誠氏、私の三人で、いまや東北本線でたった一本きりの急行になってしまった「つがる」に乗り込んだ。
 ビールを飲んでいるうちに黒磯駅に着いてしまい、あわててコップを手に持ったまま、列車から待合室のコンクリートの上に移動し、酒盛りを続ける。
 いい調子になっているところへ、
 「ヤーマの人気者、それは、ミルクヤー」
 と60才前後の酔漢が待合室に迷い込んできた。
 これは厄介だなと無視することにしたが、案の定われわれのところへやってきて話かける。待合室にはほかに人がいないのだから仕方がない。
 訛がひどいうえに酔っぱらいの舌だから話の内容ははなはだわかりにくい。おまけに話の合い間に脈絡もなく
 「ヤーマの人気者−−−−−」
 が突如として入る。
 どうやら話したいことは、東京への出稼ぎから青森の家へ帰ったところが、神さんと伜が家に入れてくれない。まことに怪しからん、ということらしい。そういえば手にしている大きな四角の風呂敷包みは東京土産の菓子箱の束らしい。これでは全く見川鯛山の世界である。
 そうこうするうちに酔漢は誠氏を自分の伜に間違えてか、くどくどとからみだす。ここには、茶畑巡査が来るわけでもないので最後は、
 「出て行け」
 と怒鳴ってコンクリートの上に寝た。
 翌朝は通学の高校生の騒音で目が覚めた。
 駅前からタクシーに乗る。黒磯の町はちょうど桜が満開だが、曇り空の下でそれがやけに白っぽい風景にみえる。
 行く手の山には黒い雲がたれこめ、その下からなだらかな那須の裾野が黒くのび
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ている。
 ロープウェイ駅でタクシーを降り、待合室で雨具をつけていると巡回から戻ってきた宿直員に
 「黙って入ってもらっては困る」
 と文句をいわれる。
 それでも彼は、今日は風がきつい。上は20メートルを越すだろう。縦走は止めた方がよい。1週間前にも三本槍で迷ったパーティーがあり捜索隊を出す始末だったと話す。
 「なあに、天気の様子では三斗小屋へおりますよ」
 善さんが気軽に応える。
 私はしめたと喜ぶ。

     幻 魚 思 慕
    早暁朔渓探岩魚
    漠下急流無其影
    一閃徒掛糸紅葉
    跳躍渡渉落水中
    前夜泊三斗小屋
    悠然浸湯想骨酒
    嗚呼汝其真在邪
    嗟嘆空帰車中人

 友人からの年賀状でこんな詩を版画にしたものをもらってから三斗小屋へはぜひ一度訪ねてみたいと思っていたからだ。もっともこの漢詩は善さんと尚介さんにふさわしい。
 ロープウェイ駅から小雨のなか、くさった残雪を踏んで20分で「峠の茶屋」を通過
し、そこから40分で「峰の茶屋」に着いた。

 目の前に大きなピークがあるが、ルートはその右側を捲いて、右方へ落ちこんだ雪面のトラバースとなる。
 先に行ったはずの二人が意外とすぐ前にいた。ピッケルをもっていないのでトラバースに難渋している。
 トラバースを終わって先行の2人を追い越すと今度は左へ落ちこんだ雪面のトラバースとなる。
 雪と岩のいやなルートが続く。ところどころ針金が雪の下から現れたりする。
 この冬、那須で年配者の遭難が2件報じられた。滑落と、強風に吹き飛ばされての事故であったが、このルートでは無理もない。
 私たちの後についてきた2人はトラバースルートの入口で立ち停ってしまったが、そこから引き返した様子である。
 厄介なルートを終えると雪の急斜面を一気に稜線へ突き上げる。強風がまともに斜面へ吹きつけ、それを背に受けるので、ザックがあふられる形となって一気に稜線へ出た。
 右へ行けば朝日岳のピーク、左が清水平から三本槍への縦走ルートである。ゴーゴーと吹きつける強風で声が通らない。手まねで朝日岳のピークへ行くのは止めにして、ひとまず風を避けるために稜線を越して休む。
 ガスがときどき切れ、朝日岳のピーク(1,896m)がマッターホルンににた黒い影
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となってヌーッと現れ、すぐに消える。
 再び稜線へ戻るとガスが晴れた。朝日岳が全貌を現した。善さんを急がしてそれをカメラに収める。行く手すぐ近くに三本槍のピークが見える。名前から想像していたのとはちがってなだらかな頂上である。
 そして左手、西方の空には灰色、白、黒と様々な雲がいく層にもなって、てんでに東の方向へ走っている。そんななかに雲の渦巻きが切れて、ぽっかりと青空が輝いている部分がある。あの青空の部分が大きく拡がってくれることを祈りながら、朝日岳の斜面を一気にくだり清水平にでた。
 雪のないときには池塘でもありそうな平らな雪原である。そして幸いにも頭上に青空が拡がりはじめ、日まで射してきた。15分もあればこの雪原を抜けられそうである。
 ところが一歩踏みだすとヒザまでもぐる軟雪で、一向に距離がはかどらない。結局35分もかかり、どうやら清水平を抜けられそうなところですっかりくたびれてしまって休む。
 ここまでは誠氏が来たことがあるという。先ほどまでのガスのなかであれば、このだだっ広い、目標のない雪原では迷っていたことだろう。
 三本槍への登りへ取りつきはじめると束の間の晴れ間は去り、また雪となり、風が激しくなってきた。
 横なぐりの激しい吹雪のなか、三本槍のピーク(1,917m)であることを指導標で確認すると、早々に稜線をはずしてはい松の
上に腰を下ろして、行動食をとった。12時半である。
 「この分だと坊主沼の避難小屋には2時半か3時に着けるぞ」
 善さんが叫んでトップを行く。
 稜線通しのルートはすごい横なぐりの吹雪で、フードをかぶった頬に雪が当たって痛い。わずかに認められるトレールをたどって進むのだが、しばしば雪を踏み抜いてヒザまで突っ込むことになる。
 三本槍の下りでルートを間違え、また登り返す。どうやら大峠の方へ行きかけた様子である。
 この大峠は地図には「戊辰の役古戦場」とある。会津藩も大変なところで防戦をやったものだ。
 風は終始左から吹きつけ、身体が振られ、踏んばるとガボッと雪に足を突っ込み、引き抜くのに苦労する。3人ともどう言う訳かスパッツを着けていず、靴のなかは雪だらけとなる。  須立山(沼の峯 1,723m)のピークは立木に打ちつけられた指導標で知ることができた。そこを過ぎると前を行く善さんの姿が消えた。
 ルートはスパッと切れ落ち、10m幅の雪のないガレ場となっている。ガレ場の両側に雪がついていて、右側の雪面をアンカーで下っている善さんの頭が足下に見えた。
 私も善さんの踏み跡をたどって下るが、雪が崩れ、私の体重を支えてくれそうにもない。もたもた降りる私の横を誠氏がさっさと下っていく。
 雪面の途中で足場が崩れて動けなくな
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ってしまった。ガレ場の向う側には潅木が連なっているので、あちらの方が安全だろうと、ガレ場をトラバースすることにした。 ホールドもスタンスも積み重なった岩くずで、微妙なバランスを要する。岩くずをだましだまし進むが中ほどで進退きわまってしまった。股越に下をのぞくと善さんと誠氏が真剣な顔つきでこちらを見上げている。その顔つきを見て自分が容易でない立場にいることがわかった。とにかくトラバースを続けるしかなく無遠慮に石を落としながら、ようやくトラバースを終え、潅木を伝いながら2人の待つところへ辿り着いた。
 後日談だが誠氏はあの時の私を見てヤバイなと思い、ザイルを出そうかと考えたそうだ。ところがザイルはザックのいちばん底に入っているので出すのも面倒だし、と思っているうちに私が潅木のあるところへ辿りついたという訳である。
 急斜面の雪面はまだ続く。今度はピッケルと左手を雪面に突っ込み一歩一歩アンカーで下ることになる。左手の感覚はなくなってくるし、肩掛けにしていたピッケルバンドが風にあふられて身体から外れる。おまけにいい加減に結んでおいたバンドがピッケルからも外れる始末である。
 そんなことで泣き泣き100mも下ったろうか、ようやく急斜面は終わり、四ツ這いから2本足の姿勢に戻れたが、再び左からの強風で身体が振られる。
 ヤセ尾根があったり、樹林があったりする稜線を3人とも頻繁にズボーッと足を雪に突っ込むので、靴の中はとけた雪でぐ
ちゃぐちゃである。
 笠松峠の指導標をそんな悪戦苦闘のなかで通過した。
 鞍部へ達し、風をよけて休む。時刻は4時である。ガスのせいばかりでなく辺りは暗くなってきた。地図を眺めると、どうみても避難小屋までは10分くらいである。
 再び稜線伝いに登りはじめる。これまでか細いひと筋のトレールを辿ってきたが、ときどきトレールが消えてしまい、雪面のわずかな陰影をトレールと間違えて辿ったりする。
 急な登りでぐんぐん高度を稼ぐが一向に小屋は見つからない。
 30分も登ると突然、トップを行く善さんが稜線を離れ、右側の急斜面を一直線に下りだした。小屋が見つかったのか、と右手の樹林帯を透かして見るが、何も見当たらない。
 善さんの転向点に達してみるとトレールがそこで直角に急斜面へ曲っている。急斜面を四ッ這いで下る私の横を誠氏が転がるように一気に下って行き、トップの善さんをも抜いて行ってしまった。
 斜面を下るにつれて、いままで耳許で喧しかった風が嘘のようになくなった。
 ここならビバークもできるだろう、とかなり疲れた私はそんなことを考えながら下り続ける。
 「小屋があったぞー」
 誠氏の声が下からとどく。
 樹林帯の急斜面を下りきると沢筋のような平なところへ出た。相変わらずガスで周
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囲はなにも見えない。私の前を行く善さんが
 「どこだァー」
 と叫ぶと
 「ここだァー」
 意外に近くに誠氏の声がする。
 ガスのなかにボーッと立っている誠氏の姿が認められ、その足元に小屋の屋根の一部が見える。
 小屋は平屋建で、屋根の片面だけが雪の上に現れているのだが、このガスのなか誠氏はよくこの屋根を見つけたものだ。
 雪面から掘り下げた入口から小屋に入る。なかは窓からの光線で明るい。たたきの土間にL字型に板張の床がある。床は詰めれば10人くらいは横になれそうだ。
 床に腰を下ろしてまず靴を脱ぐ。逆さにするとジャーと水がでる。ニッカーホースは絞っても絞っても水がでる。小屋には私たち3人きりなので、寒さ防ぎに板の間にテントを張るともう動く気がしない。放心状態で煙草ばかり吸う。なによりもこの坊主沼の避難小屋が見つかったことが有難い。今夜の食当は私だが、申し訳ないが善さんに雪を取りに行ってもらう。
 3人とも素足のままだが、さすがに四月で寒さはそれほどでもない。ピークワンに火を点け熱燗をつくる。
 メインディッシュはバターをふんだんに入れたシチュー。
 予想もしていなかった吹雪と残雪に悩まされた長い1日だった。しかし稜線を離れた小屋のなかはまったく静かだ。もう耳許
でなり続ける喧しい風の音はない。
 ゆっくりと夕食をとり、昨夜の黒磯駅での騒ぎによる睡眠不足と今日のアルバイトの疲れで早々に寝た。
 夢うつつのうちに激しい風の音をきき、きのうの悪戦苦闘と重なる。
 −−停滞かあ。そうすると連絡の方法がないな。と考えていたりする。昨夕は静かだったここにも明け方から強い風が吹だしてきた。
 「快晴だ」
 テントの外で善さんが叫んでいる。そして
 「頂上はすぐそこですよ」
 どれどれと私もテントから這いだして小屋の窓からのぞくと、明るい陽光に白い世界が輝き、まだらに生えている裸木が激しく風にゆれている。
 われわれはこの山を少しなめ過ぎたようだ。誠氏などは打ち合せのときに「ピッケルなんか持って行くの」といっていたが、ピッケルがなければきのうの最初のトラバースから手古擦ったことだろう。
 モーニングティーのあと朝食担当の誠氏。
 「山菜雑炊ですよ」
 といって出てきたのはなんと「ガンバレ玄さん」とかいうレトルト食品である。きわめて梓的ではないがそこは「手抜きの誠ちゃん」である。
 きのうぐっしょりと濡れた靴下と靴を履くのは億劫だが、靴が凍っていないのには助かった。きのうにこりて今日は全員スパッツを着ける。
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 キジ打ちがひと苦労となる。小屋の周囲は吹きさらしの雪原でさえぎるものがない。風に背を向けると前へ倒されるので風に正対して頭を下げ、片手には小屋にあったスコップ、もう一方の手はピッケルにしっかりとすがりついてのキジ打ちとなる。雪が小高く盛り上がった彼方から紙が舞い飛んでくる。さては善さんはあの向うに陣を構えているのか。
 8時20分に小屋を出た。きのうまでその跡を辿ってきたトレールは降雪と風のためすっかり消えてしまっている。左にのびる旭岳の稜線と平行に進む。
 右手のま近に甲子山が姿を現した。ピークの高さは私たちが立っている位置とあまり変わらないようだ。ルートはいまの位置から急下降してまた登り返すことになる。風はだんだんおさまりつつあるようだ。
 「きのうと較べるとそよ風だね」
 それにガスがなく、見通しがよいのできのうと違い心が弾む。しかし足は濡れたままなので感覚が全くない。
 急斜面を下り、樹林帯を抜け、甲子山へ取りつく。頂上近くで2、3のパーティーと行き交う。ブリッジのようなやせ尾根を越えて、9時20分、甲子山(1,549m)の頂上に着いた。坊主沼からちょうど1時間である。
 振り返ると目の前に旭岳(赤崩山 1,832m)がでーんと圧倒的にそびえ立っている。厳しい岩の稜線が鋭くピラミダルに伸び、急峻な斜面に2、3条デブリの走った跡が認められる。
 きのう最後に休んだ鞍部から小屋へ至
るルートは明らかに間違っていた。あれは旭岳の稜線を辿っていたのである。あのまま真っ直ぐ進んでいたら旭岳の上部の岩場で難儀していたことだろう。坊主沼への正しいルートは笠松峠を過ぎた鞍部から、稜線をとらずに、右前方の谷間を進めばよかったのである。
 「われわれのシュプールがありますよ」
 さきほどの急斜面を下った跡が認められる。それもまたずい分と上の方で、今日もかなり上部へそれてしまったものだ。
 旭岳の左に続く白い稜線の連なりはきのう吹雪に泣かされた稜線だろうか。
 旭岳の反対側、北東方面には、目の前の大白森山の彼方にまっ白な山波が認められる。多分あれは飯豊連峰だろうと決める。
 目の前の大白森山を越えて北へ向うと小白森山を経て、後藤さんの二岐温泉へ至ることができる。
 地図を見ると、きのうとった朝日岳から甲子山までのルートはほとんど真北へ向かっている。そして日本海からここまでには途中あまり高い山もなく、直接西風が吹きつけてくることがわかる。冬の那須連峰が意外と風が強いといわれることが理解できた。
 ゆっくりと眺望を楽しみ、写真を撮ってから甲子山山頂を発った。疎林のなかの尾根通しで、眺望はえられないが、陽光を全身に浴び、残雪を踏んでの快適な下りで、ようやく春山の気分を実感する。しかし甲子温泉までは快適な一本調子の下りとは
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いかなかった。
 相変わらずときどき残雪にはまり込む。「猿ヶ富」からは尾根筋を離れてジグザグ道となるが、残雪や倒木に足をとられ、3人がてんでに転び、汗だくで下る。目の下に甲子温泉の赤い屋根が見えてきたがなかなか近づかない。二俣合流点で川を渡り、目の前にある温泉の古い建物までのほんのひと登りがこたえる。11時、甲子温泉に着いた。
 宿は1軒きりである。ザックを屋外に置き、早速風呂を頼む。温泉の建物は、長い階段を下り、橋を渡った対岸にある。
 湯舟は25メートルプールくらいもあろうか。湯は透明で窓からの明るい光線で底まで透きとおってよく見える。そろそろ身体を沈めるがどこまで行っても、足がとどかない。ようやく湯が胸を越したあたりでやっと足が着いた。底は珍しく一面の砂利である。湯舟の深さに驚かされる。
 「お子様に気をつけて下さい」と注意書きがある。善さんは辛じて首を出している。明るい陽光のなかで屈折した身体がやけに白っぽく見える。ほとんど立ったままで湯につかることになるが、湯舟の真中に「子宝石」という岩があってちょうど腰かけることができる。
 この温泉には梓全員で一度来るべきだ、と話しながら湯上がりのビールを飲み、白河駅までタクシーを頼む。
 宿の前を流れているのが阿武隈川とは意外だった。
 「そんな筈はない」
 
と善さんが言い張ったが、さきに地図をみていた誠氏との賭に負け、缶ビールをおごる破目になった。
 阿武隈川といえば東北の大河のひとつである。私にとってはその名をきけば「軽巡・阿武隈」とすぐに連想されるのだが、その川上がこんなところにあろうとは信じられなかった。
 タクシーで山道を下り、新甲子温泉を過ぎる。冬場は自動車はここまでしか入らない。新甲子温泉は甲子から湯を引いて作ったものの廃業するところが多いとのことである。
 新甲子温泉からは立派な舗装道路が一直線にのびている。下るにつれヤシオツツジの花盛りである。
 さてタクシーで白河駅についたものの、在来線はほとんど黒磯止りであることがわかり、離れた新幹線の白河駅までまたタクシーを走らすことになった。
 ちょうど入ってきた「あさひ」に飛込み、阿武隈川の賭に負けた善さんおごりの缶ビールを空ける。
 沿線はいまや桜の満開で、東北に多い黒木の森林を背景に桜の花の白さがいっそう目立つ。
 その向こうに陽をいっぱいに浴びた那須連峰が白く輝いている。左から雪煙のような噴煙をあげている茶臼山、鞍部を越して朝日岳、なだらかな山容の三本槍、須立山、それに鋭い三角形でひと目でそれとわかる旭岳、その隣に甲子山。きのうから今日にかけて縦走した全山が横に長く
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展開している。
 「けっこう距離もあったじゃないの」
 と善さんの赤い水筒に入った「我孫子の地ウイスキー」を廻す。

メンバー  鈴木 田中 冨山
期間    '85/04/20〜21
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