涸沢コンロ騒動記

冨山八十八     '84/08/17〜20


 8月17日
 新島々からのバスは「眠ってください」と車内灯を消したので昨夜来はじめて眠れる。
 前夜新宿を10時30分の臨時の「アルプス」で発った。リーダーの尚介さんは結局来られずカメと2人である。私は節酒中で缶ビール1本にしたのと、座席に横になったものの通りがかりの人に足をけ飛ばされ通しで眠れなかった。
 上高地のバスターミナルは早朝であるのに人が多い。梓川畔はすっかり整備され、観光客が行き交い、京都三条の鴨川畔のようになった。30年前に、ここで借りもののカメラをおき忘れ、半日たってから思い出し、青くなってとりに戻ったら、カメラはそのままあったのには感激したが、もうそんなことは無理だろう。しかし河童橋越しの穂高の姿は変わらない。
 小梨平を過ぎると人が減った。明神池で一本立てる。徳沢園ではコーヒーを頼む。横尾は人が群れ、梓川にかかる橋には人波が絶えない。横尾では休まずそのまま橋を渡る。実はカイドブックにいい水場があるとあったので、そこで休むつもりで歩き続けるが、腹が減ったので路ばたの倒木に腰をかけ、ターミナルで買ってきた弁当を開ける。この辺から調子が狂いだす。
 弁当をすまし、ものの5分と行かないうちに横尾谷の河原に出た。ここで休めばよかったのである。
 左手、木の間越しに・風岩が正面を見せてくる。先ほどから結構歩いたのでもうよ
かろうと路ばたの岩にザックを降ろして休む。ところがそこから10分も行かないうちに本谷の出合いに着いた。ここまできて休めばよかったのである。
 「ここの水は飲めません」とあるので、顔を洗い、涼しそうな木影で行動食でもと腰をかけると、心地よい微風に混ざってキジ臭がする。そばに古キジを見つけ、あわてて場所を移す。だいたい誰でもが休む木影にやっておくとは不届きである。
 出合いから本格的な登りにかかり暑さと風のないのに参る。荷物も重い。晩食は毎回汁気たっぷりなものを、尚介さんの分を入れて3人分の食料をかついできた。度々小休止を繰り返したり、風の通るところを見つけて昼寝をかねてまどろんだりする。やがて涸沢の流れのそばへ来ると、たまらず荷物を放り出して水に頭を突っ込む。それからもう一度涸沢ヒュッテのモレーンの下で一息いれ、ようやく涸沢のテント場に着いた。 ビールを求めて先ず涸沢ヒュッテに行くと、なんと瓶ビールがある。1本750円。早速これで乾杯する。カメはさらに缶ビールを1本追加した。
 テント場は空いていて場所は選りどり見どりである。テントを張り、そのまま夕暮れまでボケーッと過ごす。四囲の稜線はガスにつつまれたままである。
 夕食の準備にかかる。今夜は中国野菜を主とした洋風水炊きである。カメが後藤さんから借りてきたピークワンに火を点けると、1度はポアーッと点いた火がポシャポシャと消えてしまう。ポンプアップが足り
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ないのだろと懸命にやるが同じである。1時間やっても1時間半やっても同じで、私は
 「オマエ、聞いてきたことを復唱しろ」と云い、彼は
 「エーッと、先ず栓を左に廻わし、茶色のコックをこうして、赤いコックをこうして・・」と口に出しながらやるがやはり駄目である。
 コンロのボディーの英文を読み、それから私も老眼鏡をかけて読んで、その通りやってみるがやはり火は点かない。陽がかげって寒くなってきたのでテントに入り、またまた交代でポンプをスコスコ、シコシコやる。親指が痛い。コンロの上部にうっすらとガソリンがにじみ出してきた。さてはこのパイプが詰まっていたのかも知れない。思案にくれてカメが  「小屋に行って聞いてきましょう」とコンロをもって出かけた。
 夕暮れが四囲の岩肌から降りてきてあたりは青色に沈む。ただ一箇所、大天井岳の積乱雲だけが桃色を残すだけで、空は水色に変わり、星が輝きだした。20〜30分経っただろうか、カメが
 「点きました、点きました」と火の点いたままのピークワンを抱えてかけこんできた。
 火を大きくし、早速コッヘルをかけ、つまみをやりながら、どうして火が点いたのかときくと涙の物語りである。
 はじめテント場の事務所で「これ、火が点かないのですが」ときいたら、大体そんな大事なものを、ひとのものを借りてきたりするから使えなくて遭難を起こしたりするん
だとか、何とかさんざんバイト風情にコケにされた挙げ句、彼らも使い方がわからなくて「知らん」といなされ、次にヒュッテへいったがやはり使い方がわからないとのこと。三番目に、通りがかりにのぞいた遭難対策事務所で同じものを使っていたのを思いだし、寄ってみたら「これはボクらのより新式ですから」とかなんとか云っているうちに何となく火が点いたので、そのまま消さずに持ってきたという話しである。
 教訓−@道具の使い方は説明を聞くだけでなく、必ず自分でも試してみること。
 満天の星が空いっぱいに輝く。素晴らしい星を眺めていたが星座がわからないのと、何よりも夜行とコンロで疲れた。早く寝ることにする。

 8月18日
 隣のテントの話し声で目が覚める。隣は3人パーティー。私と同年輩の親爺と高校生の息子、それに親爺の会社の若い人。親爺が朝食のラーメンを煮ながら若い人に星座のあれこれを説明している。神話なぞを混じえてなかなか詳しい。私も起きて一緒に話しを聞こうかなと思っていると
 「ゆうべは隣のイビキがうるさかったね」と喋っているではないか。これでは出て行けない。カメの野郎め、とまた寝込む。
 あたりがさわがしくなりわれわれも起きる。山々はモルゲンロートの近さを思わせるが四囲の緑の山肌はまだしっとりと静まりかえっている。
 やがて奥穂のピークに第一の閃光が当
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たる。続いて涸沢岳も、涸沢槍も、北穂もモルゲンロートに輝く。目を峰から峰へ走らせているうちに陽光はピークを下り、雪渓を下り、黒く沈んでいた岩肌は輝き、陰影の綾をくっきりとつくる。この決定的な美の瞬間にカメちゃんはキジ打ちに出かけていていない。
 尚介さんが一緒なら今日は前穂の北尾根の予定であったが、来られなかったのを幸いに、今日はこのカールを取り囲む峰々をめぐることにする。
 昨夕点火してもらったピークワンはやはり火が点かないのでカメが持参したEPガスで紅茶をいれ、朝食はフランスパンとする。
 隣をはじめテントをたたんで下山する人が多い。涸沢小屋の横の緑の斜面に点々と北穂へ向かう人影。テント場の路を右に左に動く人影。夏の陽がまぶしく照らすなかで人影がみんな動いている。われわれも急いで出発する。もう9時頃かと時計を見るとまだ7時半である。
 北穂の登山路にかかると黄色の花や、紫のリンドウが花盛り。1時間歩いて休む。ここから見る北尾根が一段と立派だ。われわれが休んでいる岩くずを越えて、ヘルメットとゼルプストをつけた3人パーティがコールをかけながら上に消えていった。
 南稜に出ると風があって心地よい。向かいの東尾根の岩稜を渡る人影が見える。先のパーティはあの人影にコールをかけていたのか。
 北穂の頂上に到着した。まず大キレット
から一直線に延びる尾根と槍。それから、それからと360度の山々を見わたす。薬師、蓮華、双六から笠へは一昨年カメが走らされたルートなので彼は感興ひとしおの様子である。夏にしては景色がはっきりと見え、八ヶ岳、富士山も遠望される。曽遊の山々を眺めるのはひときわ楽しい。この楽しさにまだ登っていない山々への宿題が増える。
 目の前に北穂小屋の石を並べた屋根がのぞく。小山義治の「穂高を愛して二十年」を思い出す。重い材木を背負っての雪渓の登り、凍った石を掘り起こしての敷地の作業など。カメが小屋にキジを打ちに行った。滝谷の岩場に3人パーティが取りついている。
 いつまで眺めていてもあきないが、重い尻をあげて奥穂へ向かう。滝谷側をのぞいたり、涸沢側を眺めたり、それに岩場の登り下りの連続で退屈している暇がない。日地出版のガイドタイムでは北穂〜穂高山荘1時間とあるが倍以上時間がかかり穂高山荘に着いた。山荘入り口の庭にビールやジュースが水につけられていて手当たり次第にほしくなる。ビールを1本づつ求め昼食とする。
 ここから奥穂までガイドタイムで2時間とある。いささか億劫でもあるが、行かにゃなるまいと山荘の前の鉄梯子に足をかける。ところが何のことはない1時間で奥穂のピークに着いた。ガイドタイムが間違っとる。そしたまたまた景色に魅せられ座り込む。
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 上高地はモヤに煙るが、ジャンダルム、西穂はシルエットで厳しさを増す。ナイフリッジを危ない足取りで渡る人影にこちらも冷や冷やする。陽を浴びた前穂のすっきりした形のよさに魅せられる。
 ザイテングラードを下る途中で親子づれのパーティに3度会う。下部で出会ったパーティは大分へばっていた。今日穂高山荘に泊まり、明日岳沢を下るとのこと。そういえば今日は土曜日である。
 あれでは父ちゃんがかわいそうですね、とカメが同情するので、
 なに、オマエさんも数年すればあれよ、といいながらもやはりオヤジさんに同情する。多分疲れたのも、途中で日が暮れたのも全てお父ちゃんのせいにされてしまうのだろう。そして明後日はまた会社だ。
 涸沢小屋に着き、ベランダで缶ビールを空けながら暮れはじめた稜線に眺め入る。
 「よかったですね」カメが感慨を込めていうので
 「これでコンロに火が点けばいうことないよ」
 「涸沢山荘に電話がありましたよ。後藤さんに電話してコンロのことききましょうか。コレクトコールで」
 「アホ、そんなことしたら、こっちが帰るまでみんなの笑い草になっとるぞ」
 そしてやはりコンロは昨日と同じ状態だった。近くで火を使っているのがたいていピークワンである。点火しはじめの威勢のいい火を派手にあげている。カメに
 「点けかたきいて来いや」というが
 「いいじゃないですか、EPがあります」と素直でない。
 今夜のメインディシュは関根式ボルシチ改め簡易ボルシチの予定であったが火力を喰うのでカレーとする。ジャガイモや人参はできるだけ薄く切る。前菜のサシミ代わりのアボガドはくさっていて駄目。
 明日はカメの希望で蝶から常念で1泊して豊科へでることも考えたがコンロが駄目ではいたし方ない。
 EPは使用時間が1時間だから今夜で切れるかも知れない。カメが涸沢山荘へEPガスを求めに行ったが何でも揃っているのにEPガスはないとのこと。しかしゴミ捨場をあさったらまだガスが残っている缶があるかも知れないとまたコケにされてきた。
 ピークワンは満タンだし、そのほかに1リットルのガソリンが手つかずで残っている。

 教訓−Aコンロのスペアは必要である。しかしスペアコンロの燃料は共用できるものがよい。

 8月19日
 陽の出とともにヘリコプターの爆音がやかましい。ヘリ公害である。午前中は優雅な停滞と決める。水場の前のゴミ捨場で、ひそかにEPガス缶を数個拾って振ってみたが空だった。
 テント場に動く人影を眺めたり、スケッチをしたり、カメは雪渓でスキーをやっている
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のを見に出かけた。
 午後はパノラマコースから下ることにする。最低コルまで雪渓を4度渡った。尚介さんが連休に上高地からこのルートで涸沢に入ろうといっていたが、雪のあるときのこのトラバースは肝を冷やすだろう。来なくてよかった。
 荷物が重く最低コルに着くとバテてひっくり返る。はるかに梓川の流れを望み、これから下る高度差にうんざりする。振り返ると北穂、槍がガスに見えがくれする。
 下りにかかってカメがやおら捕虫網を取り出し、例の茶色の蝶を2、3頭捕る。ここは国立公園内であるので気が気でない。ほかに人は全然いないが、緑一色のなかで白い網がやたらに大きく見え、早くしまえとせっつく。
 松高ルートの分岐で一息。昨日食べるのを忘れた米屋の水ようかんを食べる。ここから急な下り。尚介さんのいう通り5月にここを登っていたら急登で殺されていたろう。奥又白の河原を下っていたら、川沿いの深い樹林のなかにナイロンザイル事件の若山五郎のケルンがあった。どうしてこんな所にと、思われたが石岡繁雄の「墓参」(「屏風岩登攀記」に収録)によると、そこが彼のダビの地であったとのことである。
 徳沢園に着き、早速EPガスを求めるが、ここにもおいてない。ここでテンぱるつもりでいたがまた出発する。
 歩きながらカメが
 「こうなれば今夜は温泉泊まりがいいですね。白骨あたりで。最終バスは6時50
分ですよ」
 それもよかろうとぶっ飛ばす。
 上高地までゆるい下り一方の道だと思っていたが、案外小さな登りがあったりする。明神あたりで
 「白骨もいいけど金が心配だな」といったら
 「いやじつはボクもないんですよ」
 「それじゃ中の湯で素泊りだ」
 コンロはどうなるんだと思いながらも温泉の魅力で忘れる。小梨平の手前で6時50分となる。温泉はあきらめて小梨平のキャンプ場へ入ると立派な売店にレストランもある。
 受付で手続きをするとここの営業は7時までということ。あわてて売店へ行くがEPガスはここにもない。レストランはもう閉めたという。じゃ風呂だ、と飛び込む。カメがおっさんにひっかかっている。何だときくと入浴料350円がいるという。私はただで入ってしまった。広い結構な風呂である。ようやく落ち着く。
 夕食はEPガスもかなり軽いので、残りものとビールで済ます。ここのキャンプ場はなかなか設備が行き届いているが、少々喧ましいのがいけない。2、3張り向こうからいびきが地響きとなって伝わってくる。
 翌朝、最後のEPガスでコップに1杯分だけ湯をわかす。8分どうり湯がわいたところでガスが切れた。1杯の紅茶を2人で飲み、上高地のバスターミナルでやっと飯にありついた。ザックには豚汁、ボルシチの野菜、農協米、うどん、それにガソリンが
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手つかずに残る。

食料計画はこうだった。
17日夕=とん汁、うどん
18日朝=スープ、パン、サラダ。
    夕=ハムステーキ、ボルシチ
19日朝=雑炊、
    夕=チャプスイ、焼きソバ
20日朝=茶づけ
    夕=カレー、サラダ
 帰ってから予備のコンロにと思って山友社の親爺にきいてみた。そうしたら  「やはりピークワンがいいですよ」という。ゲッである。

メンバー:冨山、亀村
コースタイム:8月18日 上高地5:40発−−徳沢園8:13−−横尾9:30−−
朝食9:50−−本谷出会い11:00発
11:30−−涸沢14:30
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