語り継がれる「忘れ物」ー赤谷川本谷遡行

橋元武雄     '80/09/13〜15


メンバー 冨山、後藤、鈴木、大森、
       高橋、間瀬、橋元

 梓の第一回山行は赤谷川本谷と決まった。これは「兎」の時代から計画だけは何回か たてたことはあったが、天候が悪かったりして流れていたものである。月曜日が敬老の 日なので日程にはゆとりがある。出発はメンバーの都合もあって、土曜日の午前10時 すぎであった。
 後閑の駅で生ビールを3リットル、缶ビール7本、酒2升と半リットルのパックが2 本、ウイスキー1本を仕入れる。我々7人の2晩分のアルコールである。駅前の通路で 瓶詰めのものは各自の水筒に移し替え、タクシーに分乗して川古温泉に向かった。
 川古から笹穴沢出合までは広い林道が通っているが、ゲートがあって車は入ることが できない。初日の行程はこの林道を歩くだけで、約2時間である。昨日、台風が日本海 側を通過した影響がまだ残っているのか、風が強い。上空には輪郭の乱れた小さな雲の 群れが気ぜわしげに流れてゆく。真上の空には雲は少ないのだが、行手に見える山並み の上部は雲を被って暗い。
 林道は笹穴沢出合で終わり、そこから先は明瞭な踏跡が叢に分け入っている。行き止 まりの広場は水溜りが多く快適とは言いかねたので、少し戻って、左岸から沢の流れ込 むあたりをテントサイトにする。釣竿を持参した鈴木、高橋両人は、夕餉ににぎ
わいを そえるべく、川に入る。残りは全員焚火に使う流木をひろいに河原に散った。
 今晩の献立は「天ぷら」に「ソーメン」である。各自が適当に役割を分担し、作業を 開始したところで、珍事出来! 何たること、天ぷらをしようというのに、あげ油を忘 れたという。梓の初回山行に、この記念碑的偉業を敢行したのは、誰あろう、我が会の 長老、冨山さん。
その時の状況を間瀬君の話から小説風に脚色してみると次の様になる。
            *
そのとき、僕(間瀬)と後藤さん、冨山さんの3人は、天ぷらの下ごしらえのために、 野菜を洗ったり、ほどよい大きさに切り分けたりしていました。僕は家庭ではあまり、 料理などしたことはないのですが、こういうときは、不器用ながら見様見まねで、手伝 いをします。苦労しながらサツマイモの皮をむいていたとき、となりでサクサクと野菜 を刻んでいた冨山さんの手がピタリととまり、うめくような声で・・・
 「しもた!」とつぶやいたのです。
僕も後藤さんも、冨山さんの様子が平常でないのにすぐ気づきました。
 「どうしたんですか」と尋ねたのですが、答えがありません。そのときの冨山さんの 表情は、虚ろで、視線はあてどなく空をさまよい、決して僕達と目を合わせようとしま せんでした。そして、しばらくの沈黙が流れたのち、ぽつりと一言
 「油を忘れてしもた」といったのです。 そのころには、周囲にいたほかの仲間も聴
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き耳をたてていたので、一同大爆笑。あの大 きな体の冨山さんが、ガックリ肩を落とし、一回り小さくなったように見えました。
            *
 とまあ、こんな具合であった。 これで「兎」の創立以来語り継がれてきた、伝説的な「忘れ物」(たとえば冷蔵庫の中 に大切にしまっておいた美味しい鯵のひらきなどという話もありました)もそっと身を 隠せるたのもしい味方ができたようである。 いつまでも他人の不幸を楽しんでいる訳にもゆかないので、すぐに食料の在庫を調べた。
冨山さんの個人装備の牛乳、間瀬のコンビーフとスープストックなどがあったので、天 ぷら変じて、急遽、野菜シチューを作ることになった。間に合わせとは言いながら、材 料が豊富だったのでシチューの出来は上々だった。しかしソーメンとの取合せはいかに も不釣合なので、代わりに行動食用のパンを食べることにした。
食事の準備が終わらないうちに、雨が降り出したので、夕食はテントの中で摂った。釣 に出た2人の成果は岩魚が9匹。そういうとずいぶんに聞こえるが、ほとんどが人差指 の大きさしかない。鳩首会議の結果、すまし汁の実にすることにした。
 通り雨だったらしく、夕食の済んだころにはもう止んでいた。これなら焚火が出来そ うだ。すでに暗くなっている外に出ると、明かりのともったテントがほかにも数張あっ てにぎやかである。夕方に予定していた焚火の場所には、すでによそのテントが張られ ていたので、薪を我々のテントの下手に
移してキャンプファイアを楽しむ。
 連日の深夜に及ぶ酒席で、睡眠不足の極ににあるはずの大森は、夜のとばりが降り、 酒精がその五体に満ち渡るや、がぜん活気を取戻し、昭和歌謡曲史の再現作業にいそし む。1世代違う冨山さんの持歌のほうが新しいのだから奇妙である。

9月14日。風はおさまり、天気も良い。我々がテントの中で、もそもそしているあい だにも、何パーティーかが通り過ぎてゆく。昨夜からここに幕営していた組も加えると ゆうに10パーティは超えるだろう。途中でケト乗越に抜ける一般道もあるが、装備か ら見るとほとんどが、赤谷川を遡行するらしい。
 出発は我々が最後だった。小1時間の歩くと、登山道は左岸から河床に降り対岸に渡 る。ここから本谷の遡行が始まる。マワット、下マワットの2っの滝は左をまく。いず れも美しい滝ではあるが、完全にまいてしまうので、沢登としての楽しみはない。これ らの滝を過ぎるとすぐに巨岩帯にはいる。このあたりはルートの取り方がむずかしく、 1キロも満たないところを2時間弱かかってしまった。
 巨岩帯を過ぎたところで、正面にウラゴシのセンが見えてくる。このあたりの河原で ソーメンをゆでて、のんびり昼食をとる。今朝釣れた岩魚はやや大きめで、3匹である。これは塩焼にする。のどかな日よりで、少し下流で休んでいた3人のパーティの1人が、パンツ1枚で流れに飛び込んで泳
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いでいる。ウラゴシのセンは、まさにその名の通りで、滝の流れ落ちる裏を洞窟状の大きなバンドが走っている。ルートはそこを通って左岸に渡る。バンドから対岸に降りるあたりが多少緊張しそうなのでザイルを出した。数本の残置ハーケンがあり、それを利用する。この沢でザイルを出したのはここだけである。 我々がザイルを操作している間にも、あい間をみて追越してゆく者がある。その中にトランクスにランニングシャツといったいでたちの若者がいた。よくきたえられた体は筋肉もたくましく、動作は機敏であった。先程、下流で泳いでいた人らしい。彼は対岸に渡ったとみるや、すぐに荷を下ろし、そのまま川に飛込むと広い滝壷を泳ぎ返して、もとの河原にもどり、下流に残してきた、他の2人に指示をあたえている。その行動は、まぶしいばかりの若さに溢れていた。
 そういえば、あんな時期が自分にもあったかなーと思う。僕が山やスキーを始めたのは、比較的に遅く、20代の後半からだった。人とのつきあいが苦手で、自己の内面的な世界に沈潜してしまうことがおおかった僕が、多少なりとも、人間関係の中に自分を解放していったのは、スポーツを通じてであり、スポーツの後の心地よい疲労と、適度のアルコールによる高揚感に助けられてであった。あの頃は運動をすることによって、どれほどまでに精神に活力が与えられるものかを遅ればせながら発見し、その嬉びに酔いしれていた。1日中動き回り、どんなに疲れたときでも、新しい目標が
与ええられれ ば、また湧きあがるように力が生まれて来た。その充足感をを楽しむために、さらに身を動かさずにはいられなかったものだった。きっとあの若者も、いまそんな時を生きているのだろう。
 ウラゴシのセンを終えるとすぐに、日向窪への高まきがはじまる。この高まきはすさまじかった。結局3時間ほどかかっている。取付きはウラゴシのセンの左側に落ちている急な岩溝を登る。前を行く人の靴が目の前にくる程傾斜のある登りである。岩溝はやがて浅くなり、踏跡は右側に抜けて、藪こぎがはじまる。岩溝を出たあとは、やや右からまくように急な低木帯をよじるが、最初は明瞭だった踏跡は、やがてさだかでなくなる。あれほど先行パーティがあるのに、なぜ踏跡がないのか不思議なほどである。地図からの判断をたよりに、トラバースぎみに右にルートをと取ってしばらく行くと、眼下に日向窪が見えてくる。日向窪が本谷に合流する地点は、ドウドウのセンとウラゴシのセンの中間で、そのあたりの河原が、さらに下方に望まれる。 記録によれば、この高まきは直接本流の河原に下れることになっているから、我々はやや高くまきすぎたのかもしれない。
 日向窪への下降は急な草付である。日向窪に降りたところで一息ついてから、左岸の踏跡をよじるが、この踏跡もすぐにはっきりしなくなってしまう。とにかく木を把み、草を把みしてよじりによじる。冨山さんなどは、2歩ほど登っては3歩ほどもずり落ちて、苦しそうである。「あんなに苦労して
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登っても、山って楽しいですか」とたずねてしかられたのはこの時である。
 途中から、日向窪に張出した支尾根に出会う。その稜線をたどると、東俣の頭より派生する主尾根の側面にぶつかり、それをさらによじると、主尾根の稜線に出た。そこには尾根通しの踏跡があった。この踏跡を下るべきか、上るべきか迷ったが、とりあえず下降してみることにして、僕が偵察に出た。踏跡は小さな凹状地を下るが、やがてはっきりと沢の形状を呈してくる。そのあたりから踏跡もはっきりしてきたから、残りのメンバーの下降するように声をかけて、さらに下った。ところがこれが失敗で、すぐに傾斜が急になってアブザイレンでもしなければならないほどになってしまった。やむをえず登り返して潅木の繁みの疎らになったあたりを右にトラバースする。しかし下ってきた沢と平行する別の小さな沢に行方を阻まれてしまった。しかし、その沢は浅く、すこし上手ならばトラバース出来そうだった。そうこうしているうちに残りのメンバーもすぐ近くまで下ってきてしまったので、コールをかけて下降を中止させ、そこまで登りなおす。さらに少し登ってから、右にトラバースすると、先程の沢はほとんど消えて、浅い岩窪になっていた。そこを越えてしばらくトラバースを続けると、広々とした、やや凹状の草付きに出た。ここからは、150Mほど下に本流の河原が望まれ、すでに先行パーティが休んでいるのが見える。やっとこの大高まきも終わる見通しがついた。
 全員がトラバースを終わったときには、下の河原にはテントが張られ、焚火の煙が立登っていた。いみじくも大森は、この藪こぎのルートの判りにくさを評して、「田中殺しの沢」と名付けた。
 下り立った河原は、上から見て思っていたほど広くはなかった。さらに、テント場を求めて遡行したが、あまり条件のよい所はなかった。やむをえず、左岸の細長い河原を善さんが得意の設営技術で整地して、テントを張る。少し雨が降れば、川床になってしまいそうだが、天気は保ちそうだし、逃げ場もある。さすがの大森も、今晩はキャンプフイヤーはよそうという。流木は少ないし、あの大高まきで、みんな大分疲れたようだ。河原に置いた2台のコンロを囲んで、みんなで夕食の準備にかかる。まずは缶ビールで乾杯。1人1缶ずつ用意したはずだったが、昨夜のうちにアル中のネズミが出て、1缶なくなったらしい。こもごもに食器を出してビールを分ける。これまでにも何回も山行を共にしている仲間同志では、誰が何をすると決めた訳でもないのに、食当の後藤さんを中心にスムーズに作業が進められてゆく。その合間にも、行動食の残りや、かねて用意のつまみなどが取り出されて、酒がまわる。今晩の献立は、野菜のベーコン巻きをカレースープで煮込んだものと、山菜入りのおこわである。後藤さんはベーコンに凝って、ローマイヤー製のものを使っている。それがあまり美味しそうだったので、一部はつまみに化けたりした。今日の行程を振り返りなが
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ら、話題はつきない。このためにこそ山に来るとさえいえる楽しい一刻である。

 9月15日。今日は曇りだ。早朝の冷たい沢水にふるえながら遡行を開始する。テントサイトのすこし上流から、沢が左に曲がっていたので、見えなかったが、その先は深いゴルジュになっていた。右岸にあった先行パーティのテント跡から、高まきにかかる。善さんと尚やんはそのままヘツリをつづける。朝一番から結構いやなまきで、潅木にすがりながら、泥と草で滑りやすい急斜面をトラバースする。木に隠れて下は見えないが、手を離せば多分、水面まで止まらないだろう。この高まきが終わると、沢は開ける。広い岩床に透き通った水をゆたかにたたえて、ゆったりと流れている。途中に滝らしい滝もなく、川のどこでもジャブジャブと歩ける。やがて両岸が狭まり、わりに明るいゴルジュ帯が始まる。小さな滝も次々に現れるが、いずれも易しく、ルートも自由に選べる。しかし、落ちてもたいしたことはないという気のゆるみからか、水にドブンというメンバーが続出した。なかでも傑作だったのは間瀬君である。そのとき丁度ゴアテックスの防水性の良さについて、あれやこれやと、彼の得意とする商品知識について話していたのだが、ほんとうに何でもない、ゆるいスラブのところで、スリップし、そのまま岩に体を伏せるように手をついたままの姿勢で、ずるずると水中に滑り込んでいった。話も終わらないうちに俺は何故、水中にいるのか不思議だとでも



いいたげな表情である。彼にとってはゴアテックスのズボンは是非とも必要である。
 ゴルジュが終わると、あとはゆるやかに開けた草原に囲まれた広い河原になる。銘銘が好きなルートを選んで登ってゆく。川の中州や、両岸にはクロウスゴやベニバナイチゴの実が熟し、食べごろである。苦しい詰めの草つきを登りきると斜度がゆるくなって腰までのクマザサこぎになる。もう眼前に、縦走路を行く登山者の姿が見える。縦走路にでるころには、沢を覆っていた霞は、はるか空の高みに去り、透明な重みのある風が、上気した頬を心地よくかすめる。
 すでに秋の気配のただよう稜線のはるかかなたに、これから向かう谷川岳のどっしりとした山容が見える。こちら側からの谷川はその背後にあの一ノ倉を擁しているとはとても想像できない穏やかさであった。我々は念願だった沢の1つを終わった満足感にひたりながら、天神平をめざした。
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