やねせん(谷中・根津・千駄木)探訪

             橋元 武雄 '04/02/23

                    Photo by Teiko nakamura & Fumiaki Gotoh



  根津神社にて                         photo by gotoh

2004年02月21日 土曜日 晴れ。静穏。

今日は、後藤さんに計画してもらったやねせん(谷中・根津・千駄木)の探訪である。 午前10時半、梓の面々は、鴬谷駅北口にほぼ時間通り集合する。参加は、冨山、後 藤、鈴木、金谷、亀村、中村、橋元。 例の「ワニさんシュレッダー」の受け渡しで、本日出社の八重樫氏も顔を出す。お天 気もよく、風もない絶好の探訪日よりだ。


後藤さんが予備探査を済ませているので大船に乗ったようなものだし、金谷氏も昨日、 自転車で踏破済みという。日頃、都心へ向かうときに見慣れてはいるが、櫛比する何 とかホテル群の谷間を縫って、まず子規庵へ向かう。途中、中村不折旧宅(書道博物 館)なるものをすぎると、そのはす向かいに東京都指定史跡子規庵があった。この近 くにあると薄々知ってはいたが、まさかこのホテル街のど真ん中とは意想外。子規の 句はほとんど知らないが、彼が晩年を過ごした、その凄絶な生き様(あまり好きな言 葉ではないが、子規の場合はふさわしい)はつとに有名である。しかし、鴬谷からこ こまでくる途次、子規庵は関東大震災と戦災で2度も焼失・復元されたと後藤さんか ら聞いたので、あまり感興は湧かない。表からざっと眺めただけで金を払ってまで入 って見る気にはならなかった。はるけくなるかな“根岸のさとの侘び住まい”であっ た。その並びに、コンポスト色のモダンな和風作りの三平堂がある。美術館かと見ま ごうばかりで、あの落語家の印象にはまったくそぐわない。まして入場料600円な ぞは論外。


 子規庵の由来          by Nakamura

 糸瓜棚のある子規庵の庭      by Nakamura

周囲のビルに睥睨されて、まるで谷底を這っているような狭い路地から抜けだし、羽 二重団子前の善性寺へ。ここには、石橋湛山と双葉山の墓がある。双葉山の本名は穐 吉定次だそうだ。両方ともに大きな墓だった。この寺には、(伝)安土桃山時代の不 二大黒があり、山谷七福神の第九番札所になっている。大らかな笑顔の大黒さんで、 小脇に抱えた小判の山から、景気よく小判をばらまいていた。


 善性寺              by Gotoh

 大らかな笑顔の大黒さん      by Nakamura

なお、羽二重団子の由来が話題になったので調べてみたところ、たしかに、店横の解 説どおり羽二重織独特の柔らかさからくるらしいが、この団子とは別に、羽二重餅は 福井の発生らしい。和菓子用語に羽二重餅の定義があり、「求肥(ぎゅうひ)を作る 時の餅米をよく精製して、水挽きし乾燥させた米粉から作られた餅」とあった。

山手線に沿って日暮里駅まで出て、そこから陸橋を渡って急坂を上がり谷中へ。まず 谷中墓地のとばっ口にある護国山天王寺を拝観。ここは整然として、隅々まで気持の 行き届いた寺である。本堂の柱はコンクリート製だったが、瓦屋根とのバランスが考 えられているし、すでに山門が近代建築然としたデザインなので、明確な設計意図を 推し量ることができる。なにより、庭先のちょっとした手洗い盤にまで、真新しい菊 の花が浮かべてあるのが心憎い。それと、境内左手にある大仏(後藤さん談、丈六[5 m弱]以上を大仏という)は、表情を見ると近頃の作かと思われるが、実は江戸時代か らあって、当時の参詣名所であったという。

そこから坂を少し戻って、日暮里駅北側を通る御殿坂へ出て、その途中の長久山本行 寺へ。別名月見寺。境内に草木が多く風情のある寺である。山門内に花屋があるのは、 よほどお参りの客が多いのだろう。道灌物見塚跡や一茶、山頭火の句碑などがあるが、 なんといっても最大の売りはこの寺の場所だ。その名の通り月見には最高だろうと思 わせる位置にある。山手の台地と下町の平野を区切る断崖の縁にあるのだ。墓所も崖 間際まで迫っているから見晴らし絶好。“死去れば万事もとより空なるを知る”では あるが、ここの墓なら入ってもいいかと思わせる。一度梓で、ここで月見の宴と洒落 てみたいが叶わぬ望みだろうか。かっては、この断崖のしたに高巻く波濤が打ち寄せ ていたか、などと夢想してみた。


 本行寺(月見寺)           by Nakamura

 陽炎や 道灌どのの 物見塚  一茶 by Nakamura

御殿坂の商店街をさらにゆるやかに登ると右手に大黒天経王寺。山名は、日蓮作の大 黒天像からの命名らしい。彰義隊をかくまって銃撃されたときのものという弾痕が山 門に残っている。あとで調べると大黒にまつわる経王寺というのは、新宿原町にもあ り、そちらのほうが有名らしい。経王寺の先で登り坂が終わり千駄木へ向かっての下 りになる。その下りが夕焼けだんだん坂である。本当は、「夕焼けだんだん」で“坂” はつかなかったのではとも思うが。西に向いて展望が開けているからなのだろう、な にやら懐かしくなってしまう坂名ではある。この段々に腰掛けて夕日を眺める子供た ちの情景が彷彿とする。


 新政府軍から浴びせられた砲撃の弾痕  by Gotoh

 夕焼けだんだん           by Gotoh

このあたりで、そろそろ腹ごしらえを考える時間だ。坂を降りきったところから急に 道幅が狭まって谷中銀座ポエムナード商店街の雑踏が始まる。商店街入口にレトロな 後藤飴店があり、坂の右手には屋台部落のような一画があるが、今日は催し物がない らしく閑散としている。さらに商店街中程まで進み、左手の「支那麺はしご」に入る。 カウンターだけの店は若い夫婦がやっていて、かみさんは如才ないが調理する亭主の ほうがいまいちレスポンスが鈍い。このノンビリ加減は、客商売には不利かもしれな い。どうやら先達は先刻この店を踏査済みのようで、メニューのお薦めまである。揚 げブタ、煮ブタ、餃子などつまみを数品とって軽くビールで喉を湿し、各自好みの麺 をたのむ。とりわけどうこういう味ではないが、真面目に料理をしているようだ。


 朝倉彫塑館             by Gotoh

 中庭を囲む和風の住居部分     by Nakamura

谷中銀座を戻って夕焼けだんだん坂を上り返し、右手へ入って朝倉彫塑館へ。今回の 探訪では、この建物が一番見応えがあった。入口は、多分家としては裏口になるのだ ろうが、こちらは洋風のアトリエ謙彫塑塾の教場で、表の玄関側(玄関は閉鎖)は住 居区域で純和風だ。さらに、洋風側は鉄筋コンクリートの三階建てで屋上庭園がある。

洋館の大半を占めるアトリエには朝倉文夫の諸作が展示され、早稲田のキャンパスで 睨みを利かせている大蔵重信像や、意外に華奢に見える九代目団十郎像があった。一 見してロダンどっぷりである。あの時代の彫刻はロダン抜きには考えられないのだろ う。アトリエの脇に大きな書斎があり二階までぶっ通しの書架には東西の書籍が集め られている。『マイフェアレディー』のヘンリー・ヒギンズ教授の書斎には数歩譲る がなかなかのスケールだ。

住宅中央の中庭の部分はすべて池になっていて大きなコイが群泳している。湧水を利 用しているというが、この高台で本当に湧水があったのかと不思議に思った。居住区 はその池を回廊式に取り囲んでいる。主人の居間は純和風だが、明らかに中国趣味を 思わせる置物やコレクションが多く見られた。三階の広びろとした客間は、眺望の趣 は除くにしても、水戸偕楽園好文亭の上階を思い起こさせるものだった。

何度も増改築されて重層的で複雑な構成であるが、ある種のバランスが取れているの はさすがである。温泉旅館の建て増しとは訳が違う。通常、この手の個人宅を改造し た博物館もどきは、ひとまわりすればもういいやとなるのだが、ここはなかなか懐が 深い。最後にのぞいてみた屋上庭園も、近隣の住宅街にはない三階建ての上で、さら に建家全体が高台にあるとあって、絶景この上もない。梓で宴会をやっていいとなれ ば、ここにするか、それとも三階の客間にするか、いややはり月見寺がいいかなどと、 勝手なことをおもってしまう。


 屋上庭園にて           by Gotoh

 谷中の墓地がよく見える     by Nakamura

赤穂浪士ゆかりの観音寺、谷中学校(旧谷中初音町二丁目)、都内では珍しい築地塀 というか、瓦をコンクリートでサンドにしたようなもの、慈悲観音で知られる狩野芳 崖の墓所長安寺などを経て谷中墓地へ戻る。前回荒川線探訪の雑司ヶ谷霊園と並んで、 ここも古くからの墓所なので徳川慶喜を筆頭に有名人の墓が多い。そのなかに石原純 の墓もある。ちょっとゴシップ風に解説しちゃうと、このひとは東北大で教えていた 物理の先生だが、相対性理論の日本で最初の理解者や岩波の理化学事典の編纂者とし て知られ、アインシュタイン来日のおりには翻訳者・解説者としてついて歩いたとい う。昔のひとだと岡本一平のイラストでアインシュタインの平易な解説を書いた本を 記憶しているかもしれない。ぼくの大伯父は天文学者だったが、その大伯父の帝大で の同期が石原純。その縁で音楽学校(今の芸大)でバイオリンを習っていた大伯母と 知り合って結婚した。しかし、純はアララギ派の歌人としても知られた多情なひとで、 歌人仲間との大恋愛で家を出て、大学を辞めざるをえなくなったという。その当時と しては大スキャンダルで、そのもみ消しだか後始末だか、末弟である祖父が東奔西走 したという話を聞いたことがある。要するに大伯母は捨てられちゃったわけである。 この大伯母には会ったことがあり、すでに少しぼけてはいたが気丈で怖かった(純が 逃げた気持も理解できる)。ぼくが行くと間違えて父の名を呼んで“おお文雄か”と いわれたっけ。梓のみんなが面白半分で純の墓を探してくれた。乙4号4側だ。石原 の墓は、純の息子の紘がなくなったときに、一度来ているのだが、そのときは木立が 鬱蒼として、木の根に持ち上げられて墓は傾いていた。ああ、いずれこの墓も草木に 埋もれてしまうのかと思った。場所はだいたい同じ辺りだったが、以前の記憶と様子 がまったく違っていたので、あのあと区画整理でもして建て替えたものらしい。やれ やれ脱線が長引いた。

閑話休題。 石原の墓のすぐそばに、最後の将軍徳川慶喜の墓がある。塀で囲まれて中へは入れな いが、円墳風の立派な墓だった。以前は公開されていなかったように思うが定かでは ない。午後の寺のハイライトは言問通に面した東叡山浄名院だ。発願の地蔵菩薩像が 八万四千体というが、実際には四万体余りらしい。それにしても、おびただしい数の ミニ地蔵像がある。一体ずつなんらかの願をかけてこの寺へ寄贈したのだろうか。多 くは明治・大正年間の年代を示す彫刻があったが、すでに風化して顔が崩れたり手足 がもげたりしている。普通に石を彫ったのなら、これほど痛みは進まないはず。いく ら多数を発願したとて粗製濫造はまずかろうの感ぬぐいがたい。


 ずらり並んだお地蔵さん     by Nakamura

 最近のもの、四万八千九十五とある   by Gotoh

さて、やねせんからは少しはずれるが、これから上野の杜の核心部をかすめることに なる。本来この辺りの諸寺の中心を占めるべき寛永寺は広くはあるが、なんだかさび れた印象をぬぐいがたい。境内の傍らに、虫めずる「殿」の寄進した虫塚や乾山の墓 碑がうち捨てられたように立っていた。上野公園へ入って、まずは国際子供図書館。 これは、旧帝国図書館を改造したもの。たしか、以前芸術新潮で改造後の様子を特集 したのを読んだ覚えがあるが、それも大分前だ。リフレッシュされた煉瓦造りの建物 全体と、改造後の金属とガラスのエントランスがほどほどの対比をなして心地よい。 ここは外見だけ鑑賞し通過する。その並びに黒田記念館がある。いわずもがな、日本 洋画界の初代?重鎮、黒田清輝の記念館だ。おどろいたことに、ここは無料(耳糞か っぽじってよく聴けこぶ平!)。誰しも見覚えのある「湖畔」や、初期の印象派の影 響が歴然とする作品が多いが、「智・感・情」の裸婦図は圧倒された。その大きさだ けではない、日本的な骨格と肉付きと、それにしてはやや長すぎるかの脚、その量感 ある輪郭を際立たせるわずかな金箔の輝き。そして、中央に正面を向いた“感?”の 女の射すくめるようなまなざしの強さ。とても明治時代の男が描いた女とは思えない。 ちょっと、ときめいてしまった。そう思って、清輝の紹介文を読み直すと、薩摩っぽ にしては珍しく相当リベラルなひとだったらしい。なにか当時の女性のステータスに ついて感じるところがあったのだろうか。 そろそろ書き疲れてきた。先を急ごう。


 国際子供図書館           by Gotoh

 黒田記念館              by Gotoh

今日からはじまるという芸大の卒展だったが、近づいただけで雑踏が予想され、ここ はやりすごすことになった。ここらから、名前は意気込んでいるがせせこましいLa Rue des Art(ラ・リュー・デ・サール 芸術の小径?)を抜けて、また言問通りへ戻 り吉田屋本店へ。吉田屋は本屋でなく酒屋であるとの冗談が飛ぶ。ここは以前も何度 か来ているので適当にやりすごし、その横の喫茶店「かばや珈琲」で休憩する。われ われが学生のころの喫茶店の風情。店の雰囲気に相応のオバサンが二人で、ほとんど 予想通りのコーヒーを出してくれた。

ここで、昨夜から鴬谷に置きっぱなしの自転車を取りにもどる金谷氏と分かれて、谷 中の寺巡りを続ける。この谷中というところは寺町だったのだろうが、それにしても おびただしい数の寺がある。寺とか墓というものは、生産性に一切関与しないわけだ から、あらためて江戸時代の都心近傍に、よくもこれだけ非生産的な領域が存在し得 たものだ。カメちゃんも、これなら仙台とあまり変わらないとつぶやいていた。鴎外 の小説になった渋江抽斎の墓のある感應寺、川口松太郎の愛染かつらにヒントを与え た愛染明王像のあるという新義真言宗自性院(こちらはカツラでなくクスノキ製とい うが、一昨年の山田温泉の帰りの別所温泉にも同じような由来を掲げた寺があったが ?)、神田上水の掘削を指揮した大久保主水(もんと)の墓があり、全国潮師法縁本 部とかのある慈雲山瑞輪寺(潮師はそのときも何の意味かと話になったが、ネットで 検索すると日蓮宗関係のページでよく使われている。潮はもしかして人名、師は尊称 で、このひとの法縁に繋がる宗内一派のことか?)、山岡鉄舟の建立になり自らの墓 と三遊亭円朝、弘田龍太郎の墓のある全生庵(ここは後藤さんのお気に入りだが、東 が丘で西が開け、こぢんまりと居心地?の良さそうな墓所が本堂の奥に広がっていた。 ここで催される円朝忌法要は盛大らしい)、笠森おせんの墓と菊祭りで有名な日蓮宗 大圓寺。…………もう有名人も寺もお腹いっぱい。


 愛染かつらの自性院         by Gotoh

 三遊亭園朝の碑           by Nakamura

寺社巡りの最後は、不忍通りを横切って根津神社で止めを刺す。都内としては相当大 きな規模の神社で、朱塗りの建物の相当部分が重文となっている。内垣の外には重文、 内には重々しく旧字で國宝と掲示があってどっちが本当か議論になったが、冨山重鎮 のご託宣で、国宝とあるのは旧文化財法?による指定であろうとの結論に達した。こ の境内は西側が丘になっているが、そこにツツジの群落があり、その麓に多数の朱の 鳥居を連ねた乙女稲荷がある。鳥居の列の途中に六代将軍家宣の胎盤を埋めた塚があ った。この神社自体は大和武尊の創祀との由緒があるという。もともとあった千駄木 から現在の地に、現在の規模で造営し寄進したのは五代綱吉。彼には嫡子がなく、養 子家宣が世継ぎに定まったのを祝って、家宣の屋敷跡を奉納したのだという。だから 胎盤塚があるわけだ。ここで自転車を取りに行った金谷氏と合流。


 根津神社本殿           by Nakamura

 正面大鳥居             by Gotoh

やねせん探訪ランドマークの最後は、弥生町のお化け階段で、東大のすぐ裏にあたる。 段数を数えると、上りは40段、下りは39段で不思議だというのだ。みんなで段数 を数えて、わいわいやっていたが、結局どうなったんだっけ?。うやむやになるから お化け階段か。それはともかく、この辺りは23区内でも有数の静閑地ではないかと 思われる。都会の隠れ家なんて持てる身分ならば、このあたりがよろしかろう。

お化け階段から弥生町の裾をかすめて不忍通りへ戻り不忍の池へかかるあたりで、動 物園から蛍の光が流れてきた。ひずんで大きすぎる音で気分は出ないが、今回の探訪 の最後にふさわしい。不忍池の中島の弁天さまはすでに閉扉、本来なら最後に予定し ていた下町風俗資料館も閉館だった。例え開いても、もう疲れて見る気は失せている。 あとは、最後の宴会へ突入するのみだ。ここまでの費用は後藤さんがすべて立て替え ていたので、ではここでさようならなどと冗談が飛び交ったが、かえるものなどいな いのは、いうまでもない。


 水鳥の群れ            by Nakamura

 暮れなずむ不忍池          by Gotoh

とくにあてもないので、ネットで調べた御徒町吉池の直営する飲み屋「池田屋」へ。 だれもいったことのない店であったが、御徒町の駅の直近であるというのに、なかな かよい店だった。なにはともあれの生ビールで乾杯し、〆張り鶴本醸造を一升ビンで たのみ、宴会に突入する。カメちゃんによれば、かって百貨店と自称して馬鹿にされ たという吉池だが、近頃は魚の専門店に転進しらしい。その直営店だからと期待して 注文した青魚刺身盛り合わせは合格だった。量が少なかったのでお代わりをしたほど。 酒、ビールともに(たのまなかったが洋酒なども)品揃えが豊富で、他の肴も好感の もてるレベルに達していた。

一升を空けて、さてそのまま居座るか場所を変えるかとなったが、次はそばにしょう と落ち着く。池之端薮はとうに閉まっているから、上野の薮にする。アメ横の反対側 にあり、神田の薮、池之端の薮など、名だたる薮の陰に隠れているがまともな店であ る。そば音痴ではあるが、八重樫氏のそばを食して以来、そばの評価基準が変わって しまったので、普通の店では細々というまい。この時分になると、つまみがなんだっ たか憶えていない。板ワサや卵焼きを食べたような気もするが。

で、それでもおさまらず、仕事を取りに神保町へ行くという金谷氏と別れ(ここだっ たよね)、〆の水割りとなって、上野駅へなだれ込む。水割りというよりビヤホール のような店へ入り、たしか最後の仕上げはギネスのスタウトであったよな。ではそろ そろ、このへんでお開き。お疲れ様でした。

なお次回探訪は、鶴見総持寺から中華街、あるいは中華街から三渓園などを後藤さん にお願いしましたが、いかなることになりましょうや。お楽しみに。

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