橋元武雄 2012年12月30日

                          Photo by T.hashimoto



 国の重要文化財碓氷第三橋梁(めがね橋)
12月22日〜24日
冨山、後藤、高橋、大森、中村、田中、橋元
碓氷峠鉄道旧跡 22日(土)

 南浦和駅には集合の10時少し前に到着。すでにチャウは階段下で待っていた。あいにくの雨である。 ほぼ定刻に大森車(高橋)が到着。外環、関越、上信越道といつものコース。月曜まで連休だが雨の せいかあまり渋滞もない。甘楽SAで田中車(冨山、後藤)と合流して、本日の目的地横川へ向かう。 ただ一軒残った釜飯『おぎのや』でセルフサービスの昼食。食後は、碓氷峠関係の鉄道旧跡を訪ねる。 旧横川駅の東側にある鉄道文化村は有料なのでパス。車を横川駅の近くの無料駐車場にとめて、まず は全員がそろって行ける碓井関所跡と旧丸山変電所を訪ねる。


 鉄道文化村

 碓井関所跡

 鉄道文化村の保存車両

 丸山へ向かう途中トロッコ列車とすれ違う

 関所跡は駅のすぐ近くにあったが、丸山までは旧信越線の軌道「トロッコ列車ライン」に沿った単 調な登りを行く。途中で、反対側の終点「峠の湯」から下ってくるトロッコ列車とすれ違ったが、乗 客はいなかった。レンガ造りの旧丸山変電所は2棟あり、上手が機械室で下手が蓄電室だという。な ぜ蓄電するか謎だったが説明板によると、通常電力だけでは最大勾配の駆動には不十分であったため、 機械室で交直変換した電気を蓄電池に貯め補助電源として使用したとのこと。機能一点張りの施設で はあるが、時を経たレンガ造りはそれなりの造形美を醸している。


 旧丸山変電所

 変電所機械室側

 変電所まで往復して車に戻り、旧街道を「めがね橋」まで登る。レンガ造りの脚の長いアーチ橋は 見応えがある。この辺り地震は少ないのかもしれないが、よくぞ長い年月を耐えて屹立しているもの だと感心する。


 めがね橋遠望

 圧倒される仰瞰景

 橋上がら旧街道を臨む

 めがね橋から熊の平方面への6号隧道

 高橋、中村、橋元は、めがね橋から歩道に整備しなおされた軌道跡を熊ノ平まで散策する。車組は 熊ノ平まで先行して、われわれを拾ってくれる。歩道はほとんどがトンネル部分で間を橋梁が繋いで いる。善さんがいれば、トンネルの馬蹄形の構造をじっくり観察できたのに。とくにレンガ造りだと 力学的な構成がわかりやすいのではなかろうか。天井にぽつんぽつんとわびしげな明かりが灯るが、 これが消えると漆黒の闇だろう。トンネル横壁のところどころに開口部や浅い窪みがあり、はじめは 意味がわからなかったが、どうやら待避施設のようだ。ちょうど人間の背丈ほどの馬蹄形をしている ので納得した。横壁の開口部やトンネル間の橋梁部からは並行する旧道が見下ろせる。


 この明かりが消えれば…………

 開口部から旧道が見える

 待避所

 熊ノ平 殉難者を祀る社

 熊ノ平はその名の通り山中にわずかに開けた平地だが、ここは旧駅の遺構とともに殉難の母子像と 社がある。山崩れで国鉄職員50名が亡くなったというから、当時は大騒動だったに違いない。このよ うな場所の駅に普通の乗降客は考えにくいから、この機関区を保守する職員が家族ごと熊ノ平に居住 していたのだろう。大森氏が熊ノ平まで迎えにきてくれ、駐車場へ向かう。そのまま旧街道を進み碓 氷峠を越える。何十年ぶりかの軽井沢は霧に包まれていた。中部横断道路の解放区間(佐久北から佐 久南まで)を経て川喜多邸へ向かった。川喜多さんは在宅で、久しぶりに温顔に接する。

 夜は大森氏が用意してれくれた刺し身と鶏鍋に、後藤さんが作ってきてくれた豚バラの醤油煮など で宴会。時期が時期とて、まず酔うまえにと、川喜多さんの第九の「歓喜の歌」の独唱が皮切りとな った。小澤征爾・斎藤記念の第九の演奏をバックに歌曲の思い出、文学やファンタジーの論議などで 大いに盛り上がった。この盛会には、金谷氏差し入れの18年もののシーバスが大いに貢献したこ疑い の余地がない。これは一晩でたいらげてしまったが、それでも足りずに焼酎にまで手を伸ばした御仁 もいた。当人は翌日まったくその前後の記憶がなかったようである。なお、金谷氏の差し入れには名 指しで善さん用に羊羹3竿添えられていたことを、謝意を込めて明記しておかずばなるまい。こちら も、大森氏が確保しておかなければなくなる勢いで消費された。年末の恒例志賀のスキーで無事に善 さんに届いたことだろう。

虚空蔵山 12月23日(日)

 すっかり食当になってしまった大森氏の和風朝食(納豆、塩鮭、味噌汁)をしたため、登山組(高 橋、大森、中村、橋元)は上田市街の北西に位置する虚空蔵山へ向かう。虚空蔵はコクゾウと読むが、 穀藏に通じるからだろうか。この辺りにはめずらしく岩壁を前衛とする虚空蔵山は、上田市街の少し 手前から、たぶんあれだなと見当がつく。登山口は国道18号沿いの上塩尻郵便局を右折した住宅街の 奥にある。持参した登山ガイドの説明はすらすら読めるが、現場で照合してもピンとこない。偶然、 庭に出ていた地元の人に尋ねて登山口にたどり着いた。案内標識は「座摩神社」「兎峰」「虚空蔵山」 を示している。座摩神社にはZama Shrineと振ってあったが、正しくは「ざますり」と読むらしい。


 登山標識

 座摩神社鳥居

 登山道の取り付きは座摩神社の参道

 新幹線がこの山へ

 山腹を斜上する登山道を少し行くと左側に古びた木造の鳥居が下界を見下ろす向きに立っていた。 つまり、登山道は鳥居をくぐるのではなく鳥居の裏を通る。鳥居からのぞくと急な階段が登ってきて いる。これが座摩神社の鳥居で階段が本来の参道であった。登山標識は側道の入口にあったことにな る。


 座摩(ザマスリ)神社

 座摩神社由来

 ほどほどに整備はされているが、落石でもすれば眼下の家屋の屋根を直撃しかねない急斜面である。 熊ノ平の殉難ではないが、この下の住民はさぞ不安ではなかろうか。冬木立を透かして長野新幹線の 軌道が眼下に見える。さっき取り付いた登山口のすぐ東側でこの山の真下に貫入しているのだ。 ときおり、トンネルを出入りする列車の音が聞こえるが、高い所から見下ろしているせいか在来線よ り騒音が少ないように感じる。斜度が一段落して開けた台地に座摩神社が鎮座する。祭神は保食(ウ ケモチ)の神で、ここでは養蚕の神として信仰されていた。ウケモチは日本書記に出てくる食物の神 だが、月の神ツクヨミに殺されたあと、体の諸処から農産物が生じる。ウケモチの眉からは繭が生じ たという。古事記では同等の神格のオオゲツヒメがいて、こちらはスサノオに殺されて身体各所から 穀物が生じる。


 マツ以外はすべて落葉樹の明るい山道

 神社の左側を迂回して登山道は続く。この山を覆う樹林はマツを残してすっかり葉を落とし林間の 道は明るい。クヌギが多いようで、特徴的な針のような突起をもつ長楕円の落葉が山道を覆っている。 そんな林で大森氏が緑色の繭を見つけた。形は普通の蚕の繭と同じだが白ではなく薄い緑色だ。あと で調べてみると、天蚕(テンサン、ヤママユガ)の繭であった。この他にも、ウスタビガの繭もあっ た。こちらは繭の上部が縫い合わせたように閉じているので、縄文土器の水差しのようにも見える。 テンサンのものより鮮やかな緑色で数も多いので、いまごろの景色のなかではよく目立つ。下山時の 道ばたでも多く見かけた。どちらもこの辺りに多いコナラやクヌギが食草だという。

 斜面を覆う疎林を抜けて稜線へ出ると登山道の左側に大きな沢が開ける。その奥壁が柱状列石を横 倒しにしたようなもろい岩壁で、崩壊した岩屑が谷底に積もってガレを成している。中一本入れて山 道を登り詰めたところが兎峰直下のコルであった。右手、ほんの数十メートルのところに兎峰のピー クが見えるが、目指す虚空蔵山とは逆方向なので、だれも登ろうといいださなかった。ここから虚空 蔵山へ向かって枯葉に覆われた道が続く。快適そうに見えるが、枯葉のしたの地面は外傾して足首に 負担がかかり、しかもぬかるんでいるのでひどく歩きにくい。だがこの状態は長くは続かず、まもな く虚空蔵―太郎山を結ぶ主陵線にでる。兎峰のコルが主陵線だと思っていたが、実際には主陵線から 南に派生する枝尾根であった。主陵線へ出てから虚空蔵山まではほんのわずかだ。


 山頂より 上田市街と千曲川

 左奥菅平 右奥篭ノ登



 虚空蔵山の山頂は小広い草むらで、周囲に灌木しかないので360度の眺望がほしいままである。朝か ら吹いていた冷風も止んで、陽光の降り注ぐ山頂は絶好の昼場となった。南には上田市街を貫いて千 曲川が蛇行し、その遥か先の山塊の奥に富士山が顔を覗かせている。北には菅平と根子岳が、西には 篭ノ登の山塊(浅間はその裏に隠れている)が望まれる。東には坂城の町並みの向こうに北アの雪稜 が見えるはずだが今日は塵埃が多くて視程に入らない。昼食とビールは、コンビニで仕込んできたが、 こうなるとワインを買わなかったのが悔やまれる。


 坂城市街 北アは雲の奥だろう

 帰りは頂上から来たほうとは逆に西へ下る。山頂を少し下ったところに、「ナンジャモンジャの木」 の案内がある。ナンジャモンジャは得体の知れない木に付けた名前だろうが、われわれの知っている ヒトツバタゴ(モクセイ科)ではなくマメ科とある。あとで調べるとフジキ(藤木)あるいはヤマエ ンジュ(山槐)として、牧野図鑑などに載っていた。Webなどで写真を見るとイヌエンジュに似た印象 がある。登ってくる途中の山道にも枯葉に混じってマメ科の実のサヤが多く落ちていたが、この山に はこの木が多いのかもしれない。


 

 ナンジャモンジャの木

 この時期、花はもちろんなく葉も落としているナンジャモンジャを眺めてからノゾキと呼ばれるコ ルを目指して下る。しばし、灌木の中の急下降だが、太いロープが取りつけてあるので心強い。これ がないと、濡れた泥の斜面で数回のスリップは覚悟するところだ。痩せ尾根だから滑落の危険もなく はない。


 滑りやすい急降下

 踏み跡は落ち葉で覆われ判然としない

 ノゾキまで下りきったが、先のルートが見当たらない。尾根通しに和合城趾へ抜ける道はあるが、 われわれはコルから左側の沢へ下りたいのだ。持参したガイドでは林間のジグザグ・ルートがあるは ず。大森氏がしばらく周辺を探査して、沢へ向かって右へトラバース気味に下る踏み跡を見つけた。 ガイドは10年ほどまえのもので、最近はあまり人が入らないらしい。それでなくてもザレた斜面を落 ち葉が覆ってルートはわかりにくい。そうとう慎重にコースを選びながらゆるゆると下る。その頃に なると、尚やんが右足首に力が入らないと不調を訴えだした。後ろから見ると、足首が捻挫したよう に外側に曲がっている。本人はさほど痛くないというものの、これは辛そうである。自分のものに大 森氏のをも借りてダブル・ストックで下る。


 虚空蔵神社

 しばらくは途切れとぎれの踏み跡をジグザグに辿ったが、やがて沢筋が狭まるとともに蛇行が収束 し右岸にケルンが多く積まれているようになる。このあたりで、苦闘していた尚やんも「やっとルー トらしくなった」と安堵の声を上げる。やがて、左岸にも赤布を垂らした木立が見えるようになり、 斜度が一段落したところで、はるか下方右手に神社らしき屋根が見えた。先着した大森氏が社脇で手 を振っている。ガイドにある虚空蔵神社であろう。神社前で一休みして正面の参道を下る。参道は左 に向かって山腹をトラバースし、稜線を越えてしばし斜上すると登りに通過した座摩神社へ出た。こ れでルートは一巡した。  帰途は斉武で今夜のメインの鯉を仕入れ、越中屋魚しんで夕餉のおかずの買い足しをする。馴染み の布施温泉で汗を流して川喜多農場へ戻った。

 昨夜はハイペースだった冨山さんや尚やんは抑え気味。川喜多さんが合唱に参加したという小林研 一郎指揮の新日フィルの第九をDVDの録画で拝見する。コバケンという指揮者は全身全霊でバトンを振 るが、オケもつられて元気の良い演奏をしていた。それにしてもわれわれ年代の男どもは第九が好き だ。大森氏はすべて暗記しているのか、合唱パートに合わせてドイツ語をつぶやいていた。そのあと、 大森氏と川喜多さんは、古い録画でフルトベングラーとトスカニーニの聞き比べをしたというが、さ すがにそこまではつきあいきれなかった。いつもなら先に就寝する川喜多さんが、今回は2晩とも最 後までわれわれにつきあってくれたようである。

最終日 12月24日(祝)

 川喜多農場での朝食

 夜来の乾いた雪景色

 最終日は、感謝を込めて入念に川喜多邸の掃除を済ませ、連休最終日の渋滞に巻き込まれるまえに、 一途に東京を目指した。

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