橋元武雄 2012年05月09日

                         Photo by T.Kamemura & F.Gotoh



 「とっぷさんて大洋」のロッジの庭で記念撮影(G)

日程:2012年5月4日〜5日
メンバー:冨山、後藤、鈴木、金谷、高橋、大森、中村、亀村、橋元
5月4日(金)

 5月の連休後半、4〜5日で涸沼自然公園のキャンプ場で宴を張る計画を立てたが、天候が不順で全国 的に5月にはまれなほどの雨が降った。梓の掲示板でもどうするか決めかねる情況が続き、ポイント予報 のわずかな晴れ間を期待して決行することになった。ただでも間遠になっている梓の集まりだ。これを逃 すと次回みんなで顔を合わせるのはいつになるかわからない。

柏駅集合  午前10時、柏駅西口高島屋前に集合して各車に分乗。善さん(金谷、中村)と尚やん(冨山、後藤)の 車は橋元宅経由で涸沼自然公園キャンプ場へ。大森車(亀村)は流山の『角上』で魚を仕入れて涸沼へ向 かう。

 家で待つというのも楽ちんのはずだが、無事みんなは集まったのか、途中のルートはどうとるのか、渋 滞はどのくらいかなど、気になることが多くて落ち着かないものだ。善さんの車が到着したのは12時頃。 所要約2時間。ほぼGoogleマップのルート予測時間どおりだ。善さんが迎えにきてくれたのは、いまはな きTBS.Bの山岳部のテントを持参してもらうという目的もあった。まだ兎の頃、後立の縱走に使用したもの だと思う。こんなものよく担いで縱走したとおもうほどの代物だが、なにかのときには役立つかもしれな い。

 この近くまできてはぐれてしまったという高橋車と大野駅近くで合流して涸沼を目指す。大野の天気は 朝から湿度の高い曇りだったが雨は降っていなかった。しかし、車中の話では柏では本格的な降りだった という。涸沼へ向かう間にもときおり車のフロント・グラスを細かな雨粒が叩く。だれも昼をすませてい ないから、どこかで食事をしなければならない。家で待つ間にWebで見ていた東京新聞の記事に涸沼近く 『うおふね』という食堂の紹介があったので、その店の電話番号を携帯に登録しておいた。確認すると今 日は営業しているという。迷ってうろうろするよりよかろうと、そこへ直行することになった。

 涸沼は胃袋を東西に寝かせたような形で、下流(流れは逆になるが、胃の例えを敷衍すると噴門から食道) は大洗へ向かって伸びている。こちらから向かうと上流の涸沼大橋を渡るか、下流の大貫橋を渡るしかな い。善さんの車にはカーナビはなく、尚やんのカーナビでは大貫橋のルートしか選べないようである。い ったん大洗の町まで北上してUターンすることになる。しかし、このルートならうおふねはいやでも通る。 大洗を過ぎて涸沼も間近という辺りで、キャンプ場へ先着した大森車から連絡が入り、サイトが水浸しで テントを設営できる状態ではないので、こちらの車に近い広浦というキャンプ場があるから探してみてく れという。しかし、尚やんのカーナビではなかなか見つからなかった。うおふねはもう近くだし、大森車 も食事はまだだというので、うおふねに集まって食事をしながら相談することになった。

 

 うおふねは場所柄、川魚料理が専門だが、観光地ならどこにでもあるような食堂である。われわれが着 いて、座敷に坐るかすわらないまに大森氏らも合流。愛想のよいオバサン(女主人)に、東京新聞にこの 店の記事が載っていたから来たんだよと話すと、カメちゃんが早速、携帯端末で記事を検索してオバサン に見せている。便利な世の中になったものだ。記事は涸沼のシジミをテーマに書いていたが、どうやら本 当の目的は涸沼で獲れた天然ウナギだったようだ。記者らは目的を達したが、その直後にわずかながらセ シュームが検出されて禁漁になった。それで肝心の天然ウナギのことを書けなくなった、というのが真相 のようだ。


 涸沼近くの川魚料理『うおふね』(G)

 当夜の宿も確保して、さあ出発(G)

 せっかくの川魚料理屋だが今夜の宿をどうするか気がきでない。カツ丼など無難なものを頼んで思案投 げ首。天候が悪いとはいえ連休だ。びしょびしょのテント場でさえほぼ満杯だったという。我が家の近く にある市設の温泉保養施設にコテージがあったことを思い出したが名前が出てこない。これもカメちゃん の端末で、鉾田市の温泉で検索すると、へんてこりんな名前の「とっぷさんて大洋」が見つかった。大洋 は合併で鉾田市の一部となった旧大洋村の名残だ。自転車でうろうろしているのだからしょっちゅう目に している名前だが、歳を取るとすんなり頭に染みこまない。どうせダメだろうと期待もなく電話をしてみ ると、なんと“空き室はあるが食事は出せない”という意外な応えが返ってきた。これは願ってもない。 キャンプの流れだから、食料は満載。食事はあっても断りたい情況だ。9人で申し込むと、空いているの は8人用だという。9人なんとかならないかと訊ねたが、そこは公設らしく、消防法が何のかんのと融通 がきかない。それならばと、8人で予約を済ませた。小屋一軒借りるのだし、寝具はキャンプ用に各自持 参しているからどうにでもなる。文句を言われたら近場のわたしが家へ帰ることにするか、などと冗談が 出る。とにかく、気分はいっぺんに軽くなった。翌日帰宅してからニュースで知ったが、4日夕方には涸 沼川が氾濫して、震災で復旧したばかりの堰堤が決壊するという騒動だったらしい。

大洗磯前 (いそさき)神社


 白く清々しい一の鳥居、額装の大きさ3坪(K)

 境内を清める若い神職たち(G)

 神社拝殿(G)

 白木の摂社(G)

 茅葺きの本殿(G)

 褐色の荒波が洗う神磯の鳥居(K)

 チェックインが3時というので食後に直行してもよかったが、予定通り大洗の磯前神社を訪ねることに した。太平洋に面して小高い丘の上にあるが、境内まで車で入れる。いままで拝殿しか見ていなかったが、 今日は裏手の茅葺きの本殿まで回り込んでみた。一巡して神社正面から海を眺めると、いつもと違って海 面が広範囲に濁っている。このとき神社の北で太平洋に流れ込む那珂川も氾濫危険水位に達していた。そ の茶色の濁流が海に押しだして一面を覆っていたのだ。正面の参道の階段を降りて、神磯の鳥居を見に行 った。褐色の荒波が鳥居を洗って怖いような迫力だ。大洗の魚市場辺りは津波の被害があったようだが、 ここにはその痕跡はない。神のご加護、まさか。磯前神社の説明では、この鳥居の立つ磯に、「御祭神大 己貴命・少彦名命が御降臨になり」とある。普通の神社でよく見かける説明では、大己貴(オオナムチ) はオオクニヌシとは同一神とみなされている。しかし、実際は別の神で、全国的にはオオナムチと少彦名 (スクナヒコナ)による国造りの神話が一般的であったという説もある。一方、出雲国には、オオクニヌ シを主人公とする独自の国造りの神話があったが、出雲も大和朝廷に併合される。大和朝廷は、“国造り” をテーマとする神話の代表として、出雲の神話を選択し、国家編纂神話としての記紀神話に組み込む。そ の過程で、オオナムチはオオクニヌシにむりやり習合させられることになった。だから、オオナムチ・ス クナヒコナを祭神とする磯前神社は、記紀神話成立前の古い伝承に根ざしている可能性があるのだ。こう いう話題は、神社検定の試験には出ないだろうな、ははは。

子生 (こなじ)厳島神社


 神域の森の緑が美しい(G)

 社殿を一巡する(G)

 海岸通りを車で流して国道51号を南下する。途中、子生(こなじ)の厳島神社に立ち寄る。海の中に建 つ広島の厳島神社に模してか、ここの神は池中の小島に鎮座している。社殿の周囲に歩道があって一巡で きるが、本殿は透明とはいえカビだらけの防壁で保護されていて、細部がよく見えない。この本殿の彫刻 は池の瘴気におかされて苔生し、原形もさだかでないが、結構手の込んだものだ。

とっぷさんて大洋  とっぷさんて大洋は鉾田市営(正確には市の管轄する財団)のリゾート施設で、鹿島灘に面した丘陵の 上部に位置する。連休とあって駐車場は混雑しているが、まだ空きは十分ある。ほとんどは近隣の日帰り 客だろう。ガラス張りの温泉棟でチャウが受付を済ませて料金4万7,000円を払い、コテージ3号「ラ・ メール」の鍵を受け取る。コテージは受付からは中庭の芝生を隔てたところに見えている。受付嬢が案内 しますかと訊ねるので、丁重に断る。コテージ3号は海を正面にした切妻造・平入り。山側中央の玄関か ら入ると、手前左側に浴室と台所があり、右側には洗面台とトイレがそれぞれ2カ所ある。海側中央に洋 風の広い居間、両翼に各和室がある。居間の前には芝生の斜面が広がり、その遙か先に沖合を航行する大 型船舶が見える。梓用の宿泊施設としては、これ以上願ってもない条件である。山慣れしたわれわれなら、 9人でもこの半分スペースがあれば御の字だ。ただし、自炊は想定していないので台所が狭く、電気コン ロが一台しかない。料理担当の大森氏や後藤さんは、隣の洗面所まで援用して大分苦労したようである。


 コテージ3号「ラ・メール」(K)

 居間の前には芝生の斜面が広がる(G)

 極楽の安居で(K)

 梓の楽しい宴会が夜半まで(K)

 宴会は、恒例の大森氏の刺し身と、尚やんの生ハム、金ヤンの正体不明ソーセージなどで始まり、中継 ぎの豚汁があって、後藤さんの焼きそばで〆た。善さんとカメちゃんの、いったん寐ては起き上がりは今 夜も健在。この年齢の集団ではいきおい話は体調のことになるが、三十数年蓄積した楽しい思い出がその 憂うつを吹き飛ばす。6月の鳥海山は中止の残念な話も出たが、あわや行方もさだかならぬ彷徨から一転、 極楽の安居を得た安堵感も手伝って、いつもながらの梓の楽しい宴会が夜半まで続いたことは言うまでも ない。

5月5日(土)

 一転して晴れ上がり、ぐんと気温が上がった。半袖で十分。せっかくコテージに泊まったのだから、昨 夜は雨になれば言うことはなかったがとは、カメちゃんの言。昨夜の豚汁と焼きそばの残りにオムレツな どで朝食を済ませて出発。昨日に引き続き、わたしが日頃自転車でうろうろしている所をひろって案内す る。

無量寿寺  まずは鉾田の無量寿寺。ここは親鸞が布教の拠点としたとして知られる寺。大森氏のカーナビが鉾田市 に無量寿寺が2カ所あることを示し、判断がつかない。わたしは自転車で2度訪ねているので、助手席で ガイドすることにした。おそらくカーナビでは指示しないような北浦の堰堤道路や田舎の未舗装道路をす り抜けて走るので、後続の車はきっとこれはオジサンが自転車で走っている道だと話していたという。


 堰堤道路の景色(K)

 無量寿寺境内入口(G)

 茅葺きの無量寿寺本堂(G)

 本堂前庭と親鸞聖人像(G)

 極楽国土 成就如是 功徳荘厳(G)

 鐘楼堂(K)

 無量寿寺は、浄土真宗という大宗派の始祖が、こんな場所で布教をしたのかと思うほどの辺鄙な片田舎 にある。北浦方面からは石岡へ向かう県道を進み、途中から北上して、西側の田圃と東側の里山のあいだ を縫う、車の通りもまれな道を数キロ走ってやっとたどり着く。この寺は丘の中腹にある。急な階段を登 って、小さな山門をくぐって境内へ入る。階段を上るにつれて、愛嬌のあるふっくりした茅葺き屋根をい ただく本堂が姿を見せる。境内は整然として、われわれ以外人気がないが、日頃のたゆまぬ勤行が偲ばれ る内陣には活き活きとした精気が満ちている。不信心ながら気持ちのよいお寺である。本堂から一段上に ある墓地に、親鸞手植えという菩提樹の古木がある。親木はとうに朽ちて、ひこばえだけが残った様子で、 あまりその実感は湧かない。

西蓮寺  この寺は霞ヶ浦を望む高台にある、行方地方の中心的な寺である。最澄の弟子が手植えの樹齢1200年と いわれる銀杏の大木が有名だ。最澄の弟子から計算すればおおむねそんな樹齢になるだろうが、このイチ ョウは一見に値する。あまりに巨大で、黄葉は樹頂から始まりしだいに降りてくるので、樹冠全体が一斉 に黄葉するのを見るのは難しい。この巨木の落葉はものすごい。境内一面に金色の毛氈を敷き詰めたよう になる。ブログでは何度も紹介しているが、実物を見なければ分からない存在感だとは後藤さんの印象で ある。この寺では常行三昧会という珍しい法要が行われる。9月24日〜30日の7日7夜、宗派に関係なく 近隣の寺から僧侶が集まって、日夜を分かたず読経しながら堂内を廻る。これもイチョウと並んで一見の 価値がある。


 西蓮寺仁王門(国指定重要文化財)(K)

 西蓮寺由緒(G)

 樹齢1200年と言われる大銀杏(1号)(G)
西蓮寺大銀杏の黄葉(OJerBlog)

 常行三昧会の説明(G)
西蓮寺常行三昧会(OJerBlog)

 木陰も並の大きさではない(G)

 やっとカメラに収まる大銀杏(2号)(G)

麻生の一葉亭  そろそろ昼食の時間である。最終目的は佐原であるから、霞ヶ浦左岸を南下することを前提に、カメち ゃんの端末で近辺を検索すると『魚文』という店がヒットした。そこを目指して県道を走るが、なかなか 魚文に行き着かない。そのうち麻生の市街が迫ってきた。それなら、えたいの知れない魚文より、麻生の 町中に気になっていた店があるので、方向転換することにした。麻生藩は一万石の小藩(曲折はあるが詳 細は省く)とはいえ、移封もなく江戸時代を一貫してこの地を領した。戦国時代まで鹿行地方には群雄が 割拠していたが、秀吉に常陸国を安堵された佐竹義宣がこれら諸侯を常陸太田の居城に集め、一挙に暗殺 して平定した。この事件は『南方三十三館仕置』として知られ、チャウには悪いが、現在でも鹿行地方で は佐竹氏の評判が悪い。徳川の世になってからは、佐竹が秋田に移り、あとを大藩水戸徳川が治めること になるので、この辺りには大名の所領が少ない。その意味でも麻生は希少価値がある。麻生には鹿行地方 の他の町にはない雰囲気があるのは、城下町の伝統のなせる業なのだろう。気になっていた食堂は「一葉 亭」。いろいろ料理はあるが「そば屋」が本業。庭の手入れがよく、折からの新緑が店内にも映えてなか なか風情のある店である。チャウが残り予算各自1,500円と高らかに宣言したので、皆少し萎縮?したか、 あまり酒が進まなかったようだ。この店の酒が珍しくも、わたしの好みの白鷹(そういえば佐原にも白鷹 の店があった)だったので、頼んでしまった。注文した「まいわしの天丼」は、大きなイワシ3匹の天ぷ らがのっている。量は十分だが、イワシの味がまったくしなかった。味は残念賞だが、店の雰囲気や感じ の良い店員に免じて許してしまう。次回、自転車で昼時に通りかかったら、もう一度入ってみることにし よう。もちろん、まいわしの天丼以外を頼むことになろう。


 名山筑波山(G)

 そば一葉亭(G)

麻生藩家老屋敷記念館  一葉亭のすぐ裏手に麻生藩家老畑氏の屋敷跡があり、往時を偲ばせる記念館になっている。武家屋敷と いうと瓦屋根のイメージがあるが、ここは茅葺き。最初の印象は武家屋敷というより農家であり、違いは 玄関があってその上に重厚な茅の破風を戴いていることだろう。普通の農家に出入り口はあっても玄関は ない。南部の曲屋の厩部分を玄関にするとこんな造りになるだろうか。去年、屋根の葺き替えがあって、 現場を見学した。熟練の職人は茅の末端を鋏一本で切りそろえて、この屋根の微妙な曲線を描き出すのだ。


 麻生藩家老屋敷表門(G)

 母屋は安政4年(1857)(G)

 表向きの部屋が並ぶ(G)

 屋根が美しい(G)

鹿島神宮  鹿島神宮は省略するつもりだったが、冨山さんやカメちゃんが行ったことがないというので復活。麻生 から霞ヶ浦左岸をさらに南下して潮来の裏山をかすめて鹿嶋市へ。鹿島神宮は本殿の周辺が立ち入れない のだが、普段なら拝殿脇から遠望はできる。残念ながら、いまは工事中でカバーに覆われて見ることがで きなかった。本殿は日光の東照宮に代表されるような、徳川の庇護を受けた神社に共通するきらびやかな 様式の建物である。そろそろ梓諸氏も神社仏閣に食傷気味。奥宮、神泉、要石などの見どころはすべてカ ット。大森氏の提案で、高速経由で佐原へ向うことになった。実は麻生から北浦大橋を渡って鹿嶋市経由 で神宮を目指すつもりだったが、先行車のカーナビが潮来経由を選んでしまった。そうなると、鹿嶋から 佐原へは、潮来まで同じ道を戻ることになるが、高速のおかげでその退屈が避けられた。


 大きな社号標、後の大鳥居は去年の地震で倒壊(K)

 朱色の楼門(G)

 拝殿、後方の本殿は工事中(G)

 穏やかな好天に恵まれて大勢の参詣者(K)

佐原散策  佐原の市街も連休にしてはすいている。バイパスから小野川添いの一方通行へ入り、車中から両岸に展 開する歴史的町並みを眺める。忠敬橋で左折して県道沿いの八坂神社境内にある山車会館脇の駐車場に車 を置いた。駐車場は4時半に閉門だという。また小野川まで徒歩で戻って、忠敬橋から下流を散策し、伊 能忠敬旧居を見学。まだ震災の復旧工事が終わらず、建屋はすべて立入禁止だった。確か有料だとおもっ たが、無料開放されていたのはそのせいか。今回は運良く、忠敬旧居前のジャージャー橋の放水を見るこ とができた。


 水郷佐原、小野川の風情(G)

 水郷めぐり(K)

 ジャージャー橋とシートを被った忠敬旧居(K)

 古い町屋も残っている(G)

 ぶらぶらと町中を散策して車へ戻る。今回の梓の旅はここにて散会。佐原の駅まで歩くのもいいと思っ ていたが、善さんが、駅どころか家まで送ってくれるというので、ありがたく好意に甘えた。佐原・鹿島 大野を往復させてしまった善さんには申し訳ないが、おかげで帰宅一番乗り。仕事部屋の椅子に座ったと たんにうたた寝をしてしまったが、それでも目が覚めてから畑の雑草取りをする余裕があった。ドライバ ー以外は、チャウを除いて柏でまた一杯だったとか。次回の梓が、また待ち遠しい。


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