橋元 武雄 2009年12月16日

                            Photo by Takeo Hashimoto
                             ,Teiko Nakamura & Fumiaki Gotoh



 白水阿弥陀堂(H)

2009年12月12〜13日
参加 冨山、後藤、鈴木、金谷、高橋、大森、中村、田中、橋元、(客員谷内)

 今年の日だまりは、那須の貸しロッジに宿泊し、那須連山南部の南月山を計画していたが、 予報ほど天気に恵まれず、結局、山行は取りやめになった。簡単に行程を記録しておく。車 にあわせて3グループに分かれ、そのまま行動した。大森車(大森、鈴木、高橋、橋元)、 田中車(田中、冨山、中村)、谷内車(谷内、後藤、金谷)。大森車は友部で9時半ころに 橋元を拾い、北関東道から東北道へ。大谷PAには2車がすでに到着していた。


 大谷PAにて(G)

 田中車(前)大森車(後)どちらも日産X-TRAIL(G)


◆白河の関◆

 大谷から北上し、いったん那須を通過して白河ICから白河の関へ向かう。今回は、全車カ ーナビを装備しているので細かくルートを打ち合わせる必要もない。曲がり角、交通注意カ 所など詳細に合成音声のアナウンスがある。それを聞いていると、相当、精度は高いようで ある。混雑や気象情況などリアルタイムの情報も含まれるので、VICSという交通情報システ ムに接続しているのだろう。

 白河の関跡は、田圃の中の小さな丘の麓にあった。周囲は関連の開発で観光スポットの体 裁をなしているが、それがなければ通り過ぎても気付くまい。芭蕉→奥の細道→白河の関の 連想で名前を知っているくらいだが、解説版によると歴史は古い。これもまた、意次→定信 と連想する松平定信が調査する(1800年頃)まで、関所跡の位置さえ判然としなかったとい う。江戸時代の関所ではなく、7〜8世紀、まだ東北が蝦夷の勢力圏であったころの最前線 の防衛拠点だ。蛇足だが、定信の墓所は梓の深川散歩(2000年1月29日)で訪ねている。


 白河関跡(G)

 解説板(G)

 ひっそりと静かな佇まい(H)

 白河神社拝殿(H)

 定信の建てたという『古關蹟』の石碑の脇から参道がのびていて、丘の上に白河神社があ る。『由緒』には式内社とあるが、この日本語なかなか難解? 大相撲の二所ノ関の由来など 書いてあり、境内に土俵の跡もあるのでもっともらしいが、どうもよくわからない。文言明 晰にして意味不明。拝殿の南側に空堀とそれを巡る土塁の跡がある。神域全体は鬱蒼とした 杜の中だが、落葉高木が散在しているので、冬枯れて光りを通す。その落葉が敷き詰められ た土塁の散歩はなかなか楽しい。なかでもすっかり葉を落とした大木が何本か目を引く。そ の周囲にミズナラ様の形状でカシワのような大きさの落葉が降り積もっていた。つまりこれ はナラガシワかと類推してあとで調べたが正解だった。それと樹齢800年という『従二位 の杉』は圧巻。二本の杉が合体したようにも見えるが、日当たりの良い丘の縁にあって、こ れからも長い寿(樹)命を全うするだろう。


 古関蹟の碑(定信が関跡を断定し建てた)(H)

 落ち葉の散歩道(G)

 樹齢800年の大杉(G)

 従二位の杉という(H)


◆白河(小峰)城跡◆


 小峰城 再現された三重櫓(G)

 那須へ戻る途中、南湖公園近くのそば屋で昼食。そのあと、JR白河駅の近くにある小峰城 に寄った。阿武隈川はこの辺りで北にふくらみながら西から東へ流れている。その南岸の丘 陵地帯に城郭は築かれている。遠望すると、再現された三重櫓(本丸?)は、定規を当てて 青空から切り取ったように整然とあるが、置かれただけの積み木のように存在が希薄である。 三重櫓の上まで登れるようだが、見張り番のようなオバサン達がいたので中には入らなかっ た。人一倍好奇心の旺盛なチャウと金谷氏は登ったようである。白河IC近くのジャスコで宴 会の食材を仕入れて那須へ向かう。


 このアングルはちょっとした城郭(N)

 冷たい空気が気持ちいい(G)

 三重櫓の中は見学できる(H)

 戊辰戦争時の鉄砲跡(N)


◆ログハウス『ナラ』◆

 今宵の宿は、後藤さんのリサーチで見つかった別荘風貸しロッジ『ナラ』。那須山麓、那 珂川右岸の雑木林の中の一軒家である。周辺一帯が分譲別荘地で、当初から宿泊目的で建て られたのか、使われなくなった別荘を買い取ったかさだかではないが、いわゆるログハウス である。周囲に建物はあるが、十分離れているのでいくら騒いでも支障はなさそう。室内照 明が暗いが、どうせ飲んでいるうちに外が暗くなれば気にもなるまい。

 宴会は、恒例によって大森氏の刺身から始まり、後藤さんのサラダ、チャウのショッツル などが続き、後藤さんのスパで〆となる。明るいうちから始まった宴会は、当初盛り上がら なかったが、日も暮れるに及んで本来の勢いを取り戻した。余ると思われた酒類、すなわち 日本酒2本、ワイン4本、ビール・ロング18カン、泡小6カン、金谷氏差し入れのワイン1 本、JWグリーンラベル、尚やんの個人装備ウイスキーなど、ビール以外は飲み干して、日付 の変わるころに、無事終了した。


 貸別荘ログハウス(H)

 ひさびさの大宴会(G)

 やや盛り上がらなかったが(G)

 そのうちいつもの通り(G)

 お早う、元気ですか(G)

 はるかに望む南月山(中央)(G)


◆白水阿弥陀堂◆

 13日は予報が外れ、日だまりには相応しくない天気。雲が立ちこめて風が強い。宿の高 窓からみる枯れ木立が頂きをゆさゆさと振ってゴーゴー鳴っている。山行はすんなり中止と 決まった。今日の“どこ行く?”は、大森氏の発案で白水阿弥陀堂と決まった。以前、町会 の旅行で行ったことがあるが、まだ寺社建築にそれほど興味も知識もなかったころで、かね がねもう一度観てみたいと思っていた。平安末期の木造建築をそのまま残す国宝である。 →下山眞司氏「建築をめぐる話・・・・・つくることの原点を考える 」記事1記事2

 那須ICへ戻ってまた東北道を北上し、郡山JTで磐越道へ。磐越道を東へ走って阿武隈山 地を越える。途中に小野町があり、道路脇に小野小町らしきピクトグラムが立っている。米 のブランドは秋田小町だし、能の卒塔婆小町にも出羽の国の郡司の娘とあるので、てっきり 秋田とばかり思っていたが、伝説の美女の自称「故郷」はいくつもあるのだろう。いわきJ Tから常磐道を北上し、いわき中央で高速を下りて白水へ至る。

 小さな橋を越えて寺域にはいると、一直線に延びた参道の遙か正面に宝形造りの屋根が見 える。数百メートル手前の駐車場に車を止めて、あとは参道を歩く。参道の右側に広い芝生 公園を見て、朱塗りの橋を渡って境内へ。もちろん有料。チャウが全員分の支払いを済ませ るのを待って中へ入る。阿弥陀堂の周囲に池を巡らせ、背後にさほど標高のない経塚山が横 たわる。近くまで人家が迫っているようだが、ここまで来ると視界には入らない。浄土式庭 園の典型的な風景が、当時のままに再現されているようで心地よい。

 木立の緑を背景に、宝形造りの柿葺きのなす水平な線を、緑青を吹いた下り棟の曲線が限 っている。そのどっしりした屋根を、漆を掃いたような焦げ茶の板壁が支える。創建当時は 色鮮やかな彩色に塗り込められていたはずのお堂だが、われわれにとっては現在の姿が好ま しい。


 阿弥陀堂の周囲は池になっている(G)

 国宝・阿弥陀堂(G)

 (H)

 (H)

 斗栱の出組と二軒上段の曲線が美しい(G)

 大工と雀は軒でなく、と言うが・・(H)


 古建築に興味があると、どうしても軒下が気に掛かる。とくに斗栱(ときょう)の出組 (でぐみ)や垂木(たるき)の構成に目が向く。詳細は、記事1、2にまかせるにして、二 軒(ふたのき:二段構成の垂木)の上段(飛檐垂木-ひえんだるき)の曲線の柔らかく優しい こと、その印象は下山氏の「非常に繊細で優美、洗練された穏やかな形」の表現につきる。

 堂内に入ると、中央に阿弥陀三尊と、左右に四天王のうち持国、多聞の二天のみが安置さ れている。以前、来たときに訊ねてみたが、なぜ二体だけなのか今となってはわからないと いう。拝観者が少しまとまったところで、お坊さんの解説がある。仏像はおくにしても、 「折り上げ小組格(ごう)天井」と呼ばれる天井の構成は撮ってみたかったが、お堂の内部 は撮影禁止。かつては極彩色に荘厳されていたであろう天井、欄間、周囲の壁面はくすんだ 茶色に静まっている。黒く沈潜する阿弥陀像と対比的に、その左右で、伎楽面酔胡王もどき の表情で袖を躍動させる四天王二体が印象的だった。

    いわき市内郷町白水にある「国宝・阿弥陀堂」である。
    平安時代末期(1160)に建立、現在は真言宗智山派「願成寺阿弥陀堂」、その領域は
    浄土式庭園白水阿彌陀堂境域として国の史跡に指定されている。
    堂は、永暦元年に岩城則道夫人・徳姫(藤原清衡の娘)によって建立された。
    徳姫は、夫・則道の菩提を弔うために寺を建てて「願成寺」と名付け、その一角に
    阿弥陀堂を建立したのである。
    その後、後鳥羽上皇により勅願寺とされた。江戸時代には、徳川将軍家より寺領10
    石を与えられるなど、歴代の為政者に保護され、現在に至っている。  後藤
◆勿来の関◆

 意味もなく高くて不味いレストランで遅めの昼食を済ませ、今回の日だまりは解散となっ た。なんだか、これでお別れは物足りない感じもしたが、3台分乗となればやむをえない。 われわれ大森車は、高速へは戻らずに、そのまま6号を南下して、途中、勿来の関に寄った。 今回は白河に次いで勿来、これで安宅をおさえれば、“関ずくし”も極まるが、あちらは日 本海、そうもいかない。海岸沿いの6号から右折して常磐線のガードをくぐり、急な坂を登 ると、ミニチュア寝殿造りの『吹風殿(すいふうでん)』や文学歴史館、土産物屋などのあ る一画に辿り着いた。この辺りだろうと、吹風殿の前の駐車場に車を入れた。以前、訪ねた ことのある大森氏もあまりに変わりすぎてわからなという。


 ミニチュア寝殿造り『吹風殿』(H)

『奥州勿來關趾』の石碑と源義家騎馬像(H)

 とりあえず、吹風殿を一巡し、周囲を見わたすと、“関所跡はこの先300m”の看板が ある。車を置いてしばらく下ると、義家の騎馬像と『奥州勿來關趾』の大きな石碑があった。 白河の関のように地形的な特徴が残っているわけではなく、いまでもその所在は諸説あるら しい。われわれは車道を歩いてきたが、石碑から稜線通の松並木を文学歴史館まで戻ること ができる。帰り道の左右には、茂吉など多くの句碑が並んでいた。文学歴史館は覗かなかっ た。

6号へ戻ってしばらくそのまま南下し、常磐道が海岸へ寄ってきたところで、常磐道へ移っ た。水戸の周辺で落としてもらうつもりだったが、時刻からしてこれから先は大渋滞すると いう大森氏の判断で、北関東道を水戸南ICで下り(間違って水戸南といったが、水戸大洗IC で下りるのが正解)、大野のわが家まで送ってもらった。思わぬ幸運に、3Q、3Qである。 大野から北浦大橋を渡って佐原へ抜け、利根川沿いに我孫子へ戻る道が快適だそうである。

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