ソフィアヒュッテの記録前半 '80 '81

ソフィアヒュッテの記録をここに集成します。1ページにまとめたかったのですが、写真の数が多く、またできるだけ大きくしたかったので、'80〜'81、'82〜'84の2部に分けることにしました。

 

年次へ 1980 1981 1982 1983 1984

 

1980年

梓20世紀の映像(第4回)

梓20世紀の映像の4回目は、梓史始まりごろの写真になる。

1980年頃に、われわれはよく北八ヶ岳のソフィアヒュッテに通ったものであった。それは北八ツの静かな森のなかにひっそりと建つ素晴らしい山小屋である。ヒュッテは上智大学の所有であるが、同大学OBの河野さんのお世話で使わせて頂いていた。冨山さんが「梓会報」創刊号に「スキーブームの始まり」を書いているが昭和56年(1981年)1月のことであるからこの写真は、たぶん1980年冬のものかと思うが定かでない、どなたか確定してほしい。写真の状況から推測すると私は一泊して翌日には鈴木、田中のお二人と下山した模様である。山での写真も無くいささか申し訳ないがヒュッテでの雰囲気を楽しんでください。

 --------------------------------------------------------------

なにせ、古い写真の整理状態が悪く手を付けあぐねているところです。善さんからお借りしているフィルムスキャンもあくびをしています。が、順次想いで深い写真を載せてゆくつもりです。(3/9)  後 藤


----- この背景色内の写真は後藤さんが梓20世紀の記憶に掲載したものを転載 -----


雪をかぶった北八ケ岳
右から河野、関根、金谷の諸氏
林道から小屋までは深いラッセル
小屋のなかはめっぽう暖かい
つぎつぎと歌がとびだして・・・
談笑に沸く仲間たち
 

 

年次へ 1980 1981 1982 1983 1984

 

1981年

 

会報記録

後藤、橋元、大森、鈴木、高橋、田中、中村、冨山(TBS.B 関根、河野、金谷、沼田、河合)(牧、江幡、萩原、犬童) 

OJ記録

A隊:金谷、関根、河合、河野、沼田、荻原、小幡、橋元

B隊:大森、後藤、冨山、鈴木、中村、高橋

C隊:牧、田中、田中フィアンセ

1/16(金)

A隊は金曜日の朝のアルプス1号で出発。金谷、河合、橋元は新宿から、他は八王子か乗車。

このときはじめてTBS.Bの総務部長河合氏と遭う。小柄ながらエネルギッシュな感じのする人で、正方形の角を丸めて厚みを与えたような顔立ち。色はすでにスキー焼けで浅黒かった。職務上というべきか、初対面の人間を扱い慣れているようだった。

われわれは打ち合わせ通り列車後部に乗ったのだが、どうも様子がおかしい。山行で指定席などいままで取ったことはなかったと思っていたら、やはり手違いだったらしく八王子に着いてもだれも乗ってこない。金谷氏が探しにでかけ関根氏と遭遇する。彼らのいる前部の自由席に移動する。

小淵沢の乗り換えのときに、小幡さん、萩原さんと挨拶する。思えば列車の移動のときに2人とはすれ違ったが、一人はうろ覚えで一人は初対面で話しはしていなかった。

松原湖の駅まで稲子湯の送迎バス(有料)がある。ソフィアヒュッテの管理は稲子湯担当している。稲子湯もホテルのような建物になっていて昔の面影はない。その横の土産売場で昼食を済ませて、昼頃出発する。スキー2セットと15〜6人分の食料があるのでさすがにひさびさの重いザックである。

林道からヒュッテへの入口は、道ばたに標識があるのですぐに判るのだが、林道をはずれてからの地形がやや複雑である。このころから雪が本降りになった。

入口から少し下がると地形は凹状になり、そのまま下ると左手から沢が入る。この合流地点から凹状の地形はやや右に向かって屈曲し、下って行くと沢の対岸が正面にくる。この対岸の尾根をやや左手(上手)に向かうように乗っ越すと、その先の低地にヒュッテが見える。

大分時間がかかったので、A隊の全員が小屋に入ったときは、すでに表は暗かった。

B隊は昨日出発し、赤岳鉱泉で一泊して、中山峠を越えてくるはずだったが、まだこないところをみると今日は無理かなどと話し合っているところへ、善さんが一番に到着した。

1/17(土)

大森、中村、鈴木、萩原、谷(旧姓小幡)は中や峠までC隊を迎えに行く。

河野、河合、橋元はスキーで白駒池までラッセルを着ける。中山峠からこちらへ下る予定だった。しかし、実際にはニュウから戻ったので、このラッセルは役に立たず。もっとも、スキーのラッセルをワカンで歩いてもほとんど意味はない。

われらもルートを間違えて白駒池にはたどり着かなかった。諏訪門というバス停の先で、白駒池と白駒池入口の分岐点がある。ここでわれわれは左、つまり白駒池への道をとって新道の終点まで登った。そこから大分時間を掛けて左手の沢に降りたり、さらに進んだりしたが、3時30分を目途に引き返した。

途中でシールを外し、快適な下りであったが、何のことはない、白駒池ははるか眼下に見えるではないか。池への山道を通りこして、1時間以上登っていた。そのときになって、登っている途中で池が見えていてトレールまであったことに気付いた。林間の雪原と思い込み、池だとは思わなかったのだ。返る途中で、金谷、高橋、冨山氏らのラッセル隊と遭い、ティー・ブレイク。

なおこの晩の摘みには、市ヶ谷スズメのお母さん差し入れのクジラのステーキを焼いた。どうもソフィアのクジラというと、尚やんの尾の実の刺身の話しが先だってしまうが、スズメのクジラも絶品だったことを彼女の名誉のために記しておく。

1/18(日)

小淵沢から各停で帰る。途中、今回参加したほとんどが、山スキーの道具一式を揃えることが決まる。アルコールの勢いもあったが、関根さんや萩原さんまで参加するとは思わなかった。ベルク・シー、ハイルである。

OJ追記:2011/12/04

このとき('81年1月ソフィア)は、山でスキーを使うとこんなに便利ですよとデモする名目で板を2セット持参している。写真でも金谷さんがぼくのスキー板を持って小屋へ戻るシーンがあるが、氏はあのときにはじめてスキーの板を着けて林道を滑っている。そのあと、谷川の天神平で幕営してスキーを楽しんだとき、もう一度、滑ってみるよう勧めてみたが乗ってこなかった、のではなかったか。

1月のソフィアの帰りに山スキー導入が決まり、八重洲のタカハシで一括して発注した。その3月には草津や天神平のゲレンデで山スキーを試している。翌'82年、ソフィアの周辺で梓は山スキーの実際を体験した。そのときの写真を見ると想像できるが、すぐにダマされたと気付いたのではないか。こちらはゲレンデでさえ滑るのに苦労しているのに、そう簡単に山スキーなぞできるわけはないとの読みがある。しかし、梓は積雪期登山を目指すような山岳会ではないから、なんとか冬期の行動範囲を拡げようと、山スキーをそのきっかけとしたかった。

まもなく、ゲレンデでの練習が必要だという口実で、ゲレンデ・スキーを購入することになる。当時、11月になれば谷川で滑れたし、TBS.Bには草津の保養所という絶好のスキーの拠点があった。しかし、梓の仲間はゲレンデ環境には慣れていない。はじめての草津のゲレンデ・スキーでは、滑ることさえおぼつかないのに、リフト待ちの順番争いや、昼時のレストランの混雑に気後れして、たじろいでいたことを憶えている。もちろん、はじめは処女の如く、のちに脱兎の如しで、いつしか人混みをすいすいとすり抜ける技を身につけたのは言うまでもない。

山スキーを呼び水にゲレンデ・スキーへという魂胆は成功した。しかし、梓のみながあれほどスキーに熱中するとは予想もしなかった。一時、集まって飲めばスキーの話題でもちきりになった様子は、こちらがあっけにとられるほどだった。

追記の追記 2011/12/05

こちらのゲレンデ・スキーもへぼなものだったが、あの当時、梓で山スキーの経験があったのは尚やんだけだった。彼の山スキー独特の八の字に開くターンを見たときには、整地されたゲレンデでのターンとは違う新雪・悪雪での有効性を思って感心した。もうひとりのスキー経験者にはチャウがいて、一級を取っていたことをあとで知った。女性の優しい滑りだから、さほどに思わなかったが、その後何度と滑りを供にし、自分も多少は技術を理解するようになって、彼女の実力が判ってきた。なんとか彼女のレベルに追いつこうと思ってはいたのだが、ついに追いつくことはできなかった。


----- この背景色内は、冨山さんが撮影し、後藤さんが保存してあった写真 -----

OJ記録のB隊の行動中の写真が含まれる

まずは1981年。

大森、後藤、鈴木、高橋、中村、冨山の6名は茅野から入り赤岳鉱泉泊、翌日は硫黄岳から夏沢峠一天狗岳一中山峠一しらびそ小屋一林道一ヒュッテ着19:00であった。

翌日は冨山、高橋、後藤は停滞。

他の人たちは、山スキーやワカンで中山峠方面散策し、渋からあがってくる田中、犬童、牧と黒百合で迎えた。

翌日、記念撮影。沼田さんも元気で金谷さんは髭をたくわえていない! みんな若いね。
ここで「スキーブームの始まり」であった。(記:後藤さん)


 

   
 

翌日、記念撮影。沼田さんも元気で金谷さんは髭をたくわえていない! みんな若いね。

 

ここで「スキーブームの始まり」であった。

まだ心配はない?



----- この背景色内は、OJ保存の写真  -----

プリントの裏のメモの筆跡から冨山さんとカメラ持参の河合さんの撮影と思われる。

OJ記録のA隊の行動中の写真が含まれる


金谷さんのスキーに注目 これからを稲子湯出発

このときは自分のスキーのほかに、当時勤めていた会社の山岳部の山スキーを持参した。金谷さんが背負っているのはそれだと思う。

河合さんはご自分の板を持参
雪中で茶を沸かした
金谷さんがOJの板を持っている

このとき金谷さんはぼくの板で林道を滑った。ススーーと下って、パッタリ。多分、これが彼がスキーをした唯一の体験。


年次へ 1980 1981 1982 1983 1984

inserted by FC2 system